目の前で、小さな子供が泣いていた。


 一目見ただけで、自分が夢を見ているのだと分かった。


 何せその子供が、相棒の小さい頃の姿、そのままだったから。


「みんな、オレのこと、ナカマはずれにするんだ」


 レンがいると、悪いことしてるの、全部バラされるから。レンといると、全部覚えられてて、気持ち悪いから。


 レンは、忘れてくれないから。


 レンはみんなとから。


「だからみんな、オレのことキラいなんだって……!」


 その次は、もうちょっと大きくなった相棒が泣いていた。


「ねぇシラ。俺、おっきくなったら錬対に行かなきゃいけないんだって。家からも出されるんだって」


 小学校高学年くらいだろうか。図体はデカくなったくせに、相棒は幼稚園児の頃と変わらず、ボロボロ泣いて、両手の甲で必死に涙を拭っていた。


「『ヤダよ』『寂しいよ』って言っても、みんな聞いてくれないんだ。母さんも、父さんも、兄ちゃん達も、ヘラヘラ笑って俺の話なんて聞いてくれないんだ……!」


 さらに次に現れた相棒は、詰襟の制服を着ていた。その服装でこれは中学生の時の相棒だと覚る。


 その相棒も、泣いていた。ただ、昔みたいな勢いはなかった。ポロポロと目から涙はこぼれているのに、表情が死んでいる。


「シラ、俺さ。もしもの時は、これで頭吹っ飛ばして、死ななきゃいけないんだってさ」


 そんな相棒の前には、やたら口径が大きい拳銃が置かれていた。『これを扱わせるために、やたら俺の銃火器訓練厳しかったのかよ』と、相棒は乾いた声で笑った。


「敵対組織に……錬対以外にとっ捕まって、頭に詰まってる情報を利用されそうになったら……そうなる前に、これで頭吹っ飛ばして死ねって、渡された」


 護身用ではなく、自害用に拳銃を支給された。利用されるだけ利用されて、いざとなったらお前は死ねと。そう突きつけられたも同然だった。


「なぁ、シラ。俺、イヤだよ。こんなので頭吹っ飛ばして、死にたくない……」


 そう言って相棒は泣いていた。どんな理不尽も飄々ひょうひょうと笑って受け流すことを覚えた相棒が、あの時だけは冷え切った体で、震えを隠すことができないまま泣いていた。


 そこで視界は暗転した。


 どの時代の相棒にも声をかけられないまま、煌司の意識はズブズブと、どこまでも深い闇の中に沈んでいく。


「シラっ!! シラ、目ぇ開けてっ!! シラっ! シラァッ!!」


 それなのに、相棒の声だけが変わることなく耳に届く。


 歴代のどの声よりも悲痛な声は、最近の相棒の声だった。


 だというのに煌司は、この台詞にだけ聞き覚えがない。


「ヤダ……ヤダよシラ、俺を置いてかないで! 俺の代わりに死なないでっ!!」


 ──は? 誰がお前の代わりに死ぬって?


 ずっと傍にいてやるって言っただろ。お前といんのは楽しいし、お前がいつまでも覚えててくれるおかげで、俺も大事な事を色々と忘れずにすんでるし。


 お前が自死を選ばなくてもいいようにずっと一番傍で守ってやるって約束したし、あの拳銃だって使わせねぇって約束しただろ。……まぁ、後ろの約束はちょくちょく守れてねぇけどさ。


 ──お前、泣かなくなったように見えるけど、まだそんなベッショベショに泣くことあんのな。


 泣くなとは言わねぇけどさ。


 泣くならせめて、俺の手が届く時に泣けよ、バカ。そうでなきゃ、背中を叩いてやれねぇだろうがよ。


「レン」


 闇の中で、手を伸ばす。ズブズブと沈んでいく中では、手を伸ばしてみたところで何も掴めはしないと分かってはいるけれども。


 それでも、最後に指先に温かな熱が触れたような気がしたのは、気のせいだったのだろうか。




  ▷  ▷  ▷




「……」


 重たいまぶたを無理やり持ち上げると、ベリッという音がしたような気がした。それだけで自分が随分と長いこと寝こけていたことを覚る。


 見上げた視界に映ったのは、見慣れてはいないが、見覚えはある天井だった。煌司の記憶が確かならば、自分は何度かこの天井を見上げている。


 ──錬対の、医務室……?


「よ」


 不意に、一面に天井が映っていた視界に、人の顔が入り込んできた。気配を掴めなかったことに内心驚いたが、体はその驚きにピクリとも反応してくれない。


 今は夜間なのか、部屋の中は闇に沈んでいる。だが電子機器のランプと窓から注ぎ込まれる月光で、視界は十分に開けていた。入り込んできたのが見慣れた女医の顔だということも、その女医が珍しく白衣を脱いでいることも、十分に見て取れる。


「目ぇ覚めたかよ。気分は?」

「花セン……?」


 煌司の予測が正しければ、ここは錬対の医務室だ。職業柄、重傷者が出ることも多い錬対では、回復系の錬力を持つ医者が医務室に常駐していると聞いている。


 恐らく煌司は、何らかの理由で負傷してここに担ぎ込まれたのだろう。そこまでは分かる。


 分からないのは、五華いつはな学園の養護教諭である花宮はなみや凉香スズカがこの場所に詰めている理由だ。


「なんで……?」

「アタシは錬対の医務官も掛け持ちしてんのさ。回復系の錬力使いとしては、中々に有能なもんでね」


 何でも、夜間でも医師が詰めなければならない重傷患者が運び込まれた場合のみ、持ち回りで錬対医務室に詰める協力者が何人かいるのだという。花宮はそんな協力者の一人であるらしい。


「ま、それに、担ぎ込まれたのがお前だって聞いたからよ。心配だったから、今回は出しゃばって積極的に話を受けたってわけ」

「心配?」

「生徒の心配して何が悪いよ」


『前に火ぃついたタバコをくわえたままヘッドバットかましてきた人間が、心配してわざわざ当直医師を希望した? わざわざ本業終わりに?』という煌司の疑問は、全て顔に出ていたのだろう。ニヤリと笑って体を引いた花宮は、カツリ、カツリとヒールで床を蹴りながら煌司が横たわる寝台から距離を取る。


「お前、自分がどんな状況だったか、覚えはあるか?」


 視界から花宮が消えたのが何だか気に食わなかった煌司は、全身に力を込めると意地で上半身を起こした。途端に存在を主張する左脇腹の傷に思わずうめき声がこぼれたが、その痛みを無理やり噛み殺して何とか態勢を安定させる。


 そこでようやく煌司は、寝台に突っ伏すように上半身を乗せた廉史が傍にいることに気付いた。


「れ……っ」


 思わず手を伸ばして触れてみると、廉史の肩は呼吸に合わせて穏やかに上下している。どうやら眠っているらしい。


 そのことにホッとすると同時に、花宮の白衣を着せかけられていながら冷え切っている体に、記憶が途切れる前の光景がフラッシュバックした。


 燃え上がる炎。雨のように叩きつけられた弾丸。それ自体が切れるような鋭さを帯びていた殺意と、濃密な死の気配。


 ──まさか、守りきれてなかった……!?


 ザッと血の気が引くのを感じながら、花宮へ視線を跳ね上げる。煌司からの視線を受けた花宮は、カラカラと窓を開けながら軽く肩をすくめてみせた。


黒浜くろはまは無傷だ。あの状況でよく頑張ったな」

「じゃあ、なんで……」

「お前が寝込んでた間、ろくに飯も食わずにずっとそこに貼り付いてたんだ。三徹に耐えきれずにやっと意識が落ちたばっかなんだよ。そりゃ死にそうな雰囲気にもなるわな」


 軽い口調で答えた花宮は、どこからともなく煙草たばことジッポを取り出すと、一本口にくわえて火をつけた。フゥ、と細く吐き出された煙が、緩く窓の外へ消えていく。


 ──レンが、三徹?


 特殊な記憶力を保有しているせいなのか、廉史はどんな環境に放り込まれていても、意識が限界を迎えるとコトリと眠りに落ちてしまう。頑張って起きていようとしても、せいぜい稼働時間は19時間が限界だ。


 本人の意思でどうこうできるものではないということは、廉史を色々調べ倒した錬力学研究所から報告が上がっている。廉史が村井の爆音説教の中で寝こけていられたのも、現場で寝落ちてしまったのも、寝てしまうと何があっても起きないのも、全てはここに起因している。


 そんな廉史が、煌司の負傷を受けて三徹した。廉史と長く一緒にいる煌司だが、そんな煌司をしても簡単には信じられない言葉だった。


「……そんなに、俺の状態は」


 裏を返せば、それだけ煌司の状態は良くなかったということなのだろう。それを証明するかのように、花宮の顔からはスッと表情が消える。


「当たったのは、弾じゃなくて鉄片かガラス片か、そんな感じの何かだ。脇腹に挫滅創ができてた。その傷が開いてる状態で海に飛び込んだもんだから、出血が酷くてな。黒浜曰く、岸に上がるまでにも、救助が駆けつけるまでにも時間がかかって、出血量がかなりヤバかったんだ」


 3日間、煌司は目を覚まさなかったという。一時はきちんとした病院に搬送するべきではないかという意見も出たらしい。


「結局、護衛の問題があるから、ここに留め置かれたけどな」


 回復系の錬力も決して万能ではない。傷を癒やした後は、本人の生命力に賭けるしかないというのが実情だった。


「ほんと、良かった。アタシの他にも二人、死ぬ気で回復系錬力を振るった医者がいるから、後でお前、お礼言っとけよ」


 言葉を締めくくり、煌司に視線を流した花宮は、穏やかに微笑んでいた。いつになく穏やかなその表情は、煌司が意識を取り戻したことを純粋に喜んでくれていると分かる。


 だからこそ、煌司はいたたまれなさに顔を背けた。


「……何で」

「おん?」

「何でいつもみたいに、説教してこねぇんだよ」


 さすがに、日頃不良学生をしていても素直に認められる。


 今回の煌司達は、あまりにも周囲に迷惑をかけすぎた。倉庫街の大炎上は責任問題になるだろうし、煌司の負傷で何人もの人間を振り回した。そもそも、煌司達は自宅待機命令を受けていたのだ。小細工で錬対の目を誤魔化して勝手な行動をし、『大迷惑』の一言では片付けられない事態を引き起こした。


 日頃の反抗など、可愛すぎて話にもならない状況だ。責任を取ろうにも、事が大きすぎて自分達ごときでは責任を負えないことも分かっている。


「優しくされる資格なんて……」

「優しくなんざ、してねぇよ」


 自己嫌悪に浸る資格もないと分かっているのに、沈み込んでいく気持ちを引き上げることさえできない。


 そんな心境にどんな顔をしたらいいのかさえ分からない煌司に、花宮は突き放すように口を開いた。


「テメェらクソガキどもを叱るのは、今回のアタシの役割じゃあねぇだろ。アタシは部外者だ。テメェらがしでかしたことは、その領分を請け負ってるやつらがキッチリ叱るだろうよ。ただ……」


 花宮らしい物言いに、煌司はやっと花宮を見ることができた。


 その視線の先で、花宮は酷く真剣な表情を煌司に向ける。


「白浜、お前がとにかく黒浜を守りたかったんだってことは、イヤんなるほど分かって る。周囲の大人が信頼に値しない人間だから、お前らが独力で動いたんだってこともな」


 静かに紡がれた言葉は、深々と注がれる青い月光の中に溶けて消えていく。


 その思わぬ言葉に、煌司は花宮を見つめたまま静かに息を呑んだ。


「白浜、お前はある意味、黒浜よりも黒浜が置かれた立場を理解している。場合によっちゃ、黒浜が錬対によって精神を壊される可能性があるってことも、錬対にいじくり回されて廃人に追いやられる可能性があるってことも、嫌になるくらい理解できてんだろ」

「っ……!」


 反射的に視線が廉史に落ちていた。


 この話は、できれば廉史には聞かせたくない。廉史も理解はできているのだろうが、何も改めて言葉にされるところを聞く必要はないはずだ。


 不意に、先程まで見ていた夢を、思い出した。


 過去の廉史達が、泣いていた。望んでいない特性を持っていたがゆえに人生の行き先を勝手に決められ、理不尽を次々と押し付けられていた廉史達は、どれも煌司がかつて実際に遭遇した廉史だった。


 絶対に忘れられない……忘れたくない、廉史との記憶。


 煌司の前でだけこぼされる、廉史の本心達。


「『黒浜廉史が錬対に都合の悪い存在になったら、錬対は黒浜廉史を躊躇いなく殺す』……今回のことは、お前にそう思わせた、お前達の周囲を取り巻く大人の責任だと思ってるよ」


 一度深く紫煙を吸い込んだ花宮は、細く長く息を吐き出すと携帯灰皿に煙草の先を押し付けた。カラカラカラと軽やかに響く窓の音が、不意に訪れた沈黙を柔らかくかき回していく。


 その中にポツリと、花宮の独白がこぼれ落ちた。


「子供ってなぁ、本来ならば、無条件に大人に守られてしかるべきものだと、アタシは思う」


 花宮は、視線を閉めた窓の外に置いていた。月明かりで外の方が明るいためなのか、窓ガラスに映った花宮の姿は曖昧で、花宮がどんな表情を浮かべているかまでは、煌司には分からない。


「情ねぇ話だよな。そんな大人アタシらが、子供お前らに頼り切りなのが、現状なんだからよ」

「花セン……」


 花宮の独白に返す言葉を、煌司は何も持っていなかった。


 ただポツリと呼びかけることしかできない煌司を、花宮は静かに振り返る。


「目ぇ覚めたんなら、アタシがここにいんのは気まずいだろ。アタシはちょっくら報告に出てくる。何かあったら、そこのコール押せば、連絡つくから」


 振り返った花宮は、煌司の顔に何を見たのだろうか。『白衣の女傑』という称号に似つかわしくない儚げな笑みを浮かべた花宮は、煙草とジッポ、携帯灰皿をわざわざ寝台のサイドテーブルに置いてから部屋を出ていく。


 パタリと扉が閉まると、部屋の中は途端に静寂に満たされた。廉史が立てるスゥ、スゥ、という規則正しい呼吸音だけが、部屋の静寂を微かに震わせている。


 ──あんのクソアマ。


 花宮がなぜこんなことをしていったのか察した煌司は、わずかに眉間にシワを寄せた。正面切って指摘されなかったのはありがたいことではあるが、医療従事者として今の行動はどうかとも思う。


 しばし逡巡しゅんじゅんしてから、煌司は花宮が残していった煙草に手を伸ばした。慣れた手際で箱から一本抜き出し、流れるような仕草で唇にくわえる。


 火はいつも己の錬力でつけるから、ライターのたぐいに頼ったことはない。だが今日はあえて花宮が残していったジッポを手に取った。花の刻印が入った蓋を親指で弾いて開けば、キンッという音とともに炎が灯る。


 ジジッと煙草の先があぶられる音を聞きながら、ゆっくりと息を吸い込む。そのままジッポの蓋を閉じながら息を吸い込み続けると、肺の奥まで苦い煙が満ちていくような気がした。


 フゥ、と息を吐き出せば、月明かりの下をユラリと煙がくゆる。


 その煙の軌跡をぼんやりと目で追っていた煌司は、吐き出した煙が宙に溶けてから廉史に視線を落とした。


「起きてんだろ、レン」


 おもむろに問いかけると、廉史の肩が微かに跳ねる。相変わらず自分の前では演技がド下手クソな相棒に、煌司はのんびりと言葉を向けた。


「俺が煙草吸うのは、堂々と煙草吸える年齢になるまではお前の前でだけ。そう勝手に決めてんだ。さっさと起きろ。んで、しっかり俺の非行を見届けろ」


 声をかけてもしばらく往生際悪く寝たフリを続けていた廉史は、煌司がさらにスパーッと煙を吐き出したタイミングでゆっくりと体を起こした。恨みがましい目で煌司を見上げた廉史の目元には、クッキリと濃いクマが浮いている。


 しばらく無言で煌司を見上げていた廉史は、不意に顔をしかめると一言呟いた。


「クッセ」

「いつもは吸ってる俺の隣に喜んで来るくせに」

「あのにおいは平気。でもこれは苦手」

「銘柄の違いか? 窓開けてくれ」

「うぇぇ、後で怒られても知んねぇから」

「花センが責任被ってくれる。そうするために先に一本吸ったんだろ、あの人」


 煌司があくまでノンビリと答えると、廉史は目をショボつかせながら窓を開けに席を立った。足をふらつかせながらも部屋の窓を全て全開にして戻ってきたのは、煌司へのささやかな意趣返しだろう。


 煌司がこうして煙草を吸い始めたのは、高校に上がってすぐの頃だった。ちょうどその時も廉史が泣いていたから、よく覚えている。


 ──確か、錬対の実験で勝手に記憶を吸い出されて、プライベートが錬対のやつらに筒抜けになっちまったとかで。


『こんなんじゃ俺、この先、秘密事とか作れない。全部錬対にさらされる』


 思春期男子ならば、誰にだって人には知られたくない秘密のひとつやふたつくらい持ち合わせているものだ。どうやらあの時の廉史は、その『秘密』を無理やりこじ開けられて第三者に『研究』という名目の下、さらされてしまったらしい。


 あまりにも廉史が泣くから、結局煌司は今に至るまで何を知られたのかを把握していない。だがどんな内容であれ、秘密にしておきたいことを他人に無理やり知られるのはこの上のない拷問だ。人によってはそれだけで心を壊してしまってもおかしくはない。


『前々から言われてたことだけどさ……。俺に悪事を見られたら、みんなチクられるってのはさ』


 まぁ、そう言ってハブられるのは、慣れっこなんだけどさ。


 誰もが経験してるイタズラを、俺はどれもやれなかった。誘ってくれる友達ダチがいなかった。俺を仲間に入れたが最後、親にバラされて叱られるからって。


 ……まぁ、シラだけは色々誘ってくれたけどさ。シラって案外いい子ちゃんだったから、そういうグレーゾーンなイタズラはやらなかったじゃん?


 俺が『歩く物的証拠』だから。やりたくてもやれないこと、許されない行動がある。それは仕方ないことなんだって、全部諦めてきた。


 だけど、俺さえ口をつぐんでいれば。俺にその記憶を提出する意思さえなければ、俺の周囲の人の秘密は守られると思ってたのに。


 そんな自由さえ許されないんだって。国家権力に組み伏せられたら、俺は秘めておきたい大切な『思い出』さえ、物的証拠として押収されてしまうんだって、分からされてしまった。


『シラ、俺さ……さっさと人間、やめた方がいいのかもな』


 そう言って、メソメソ泣きながら、それでも必死に笑顔を取り繕おうとする廉史の姿が、心底気に入らなかったから。


 だから煌司はその次の日、近場に暮らしているイトコの兄貴から煙草を一箱くすねてきて、廉史の前で吸ってやった。


 初めて吸った煙草は苦くて煙くて仕方がなくて、格好なんてつかないくらいむせ込んだのを覚えている。


 ついでに、それをポカンと見ていた廉史が、どれだけ間抜けづらさらしていたかも、よくよく覚えている。


『バッ……!? シラァッ!? おっ、おまっ……!?』


 夕日が眩しい、春の名残が強く残った夕方のことだった。ご丁寧に制服を着たまま、廉史をベランダに引っ張り出して煙草を吸い始めた煌司に、廉史は史上最強にひっくり返った声を上げた。


『バッカじゃねぇのっ!? 煙草は不良のテンプレっつっても、さすがに錬対に知られたら何って言われるか……っ!!』

『知られなきゃいいだろ』

『シラ、俺の昨日の話聞いてたっ!? 俺の記憶は……っ!!』

『だーから、知られねぇように隠しファイルに格納できるようになれよ』


 煌司がそう言ってやると、廉史は突きつけた指もそのままにあんぐりと口を開けた。中々見れないバカ面が面白くて、さらにむせたことを覚えている。


『俺はこれから事あるたびに、お前の前でだけ煙草吸うからな。俺を錬対にしょっ引かせたくなけりゃ、絶対他人に知られたくねぇ記憶を格納する隠しファイルを、お前の中に死物狂いで作るんだな』


 その言葉に、廉史は言葉を失ったまま、目を丸くしていた。揺れた瞳にあった感情が何と名前をつければいいものだったのか、煌司には分からずじまいだ。


 でも、無理にあの時の廉史の感情を分類しなくてもいいと、煌司は思っている。


『俺ぁお前と一緒にいんのが、やっぱ一番楽しいからよ。バカなことも、これからずっとずっと、お前と一緒にやってくわけよ』


 だからお前の記憶に隠しファイルが作れねぇと、俺も困るわけよ。


 そう言って、煙草を唇に挟んだまま緩く握った拳を廉史に差し出すと、うっすらと目の縁に浮いた涙を拳で握ってから、廉史は己の拳をコツンッと煌司の拳にぶつけた。


『頼んだぜ、レン』

『体に悪いバカは、やめてほしいんだけども』

『るっせ』


 そんなやり取りを交わしてから、すでに一年以上の時が過ぎた。以降も有言実行とばかりに廉史の前でだけ煙草を吸っている煌司だが、喫煙の件で錬対にしょっ引かれたことは今のところ一度もない。


「あの、さ。シラ」


 煙草がチリチリと燃える音だけが、月光の中に溶けていくような心地がした。


 そんな静寂の中にコロリと、いつになく硬い廉史の声が転がっていく。


「俺、さ……大人し」

「『く錬対に軟禁されとこうと思う』っつーなら、ぶん殴る」


 煌司が被せるように言葉を奪い取ると、廉史はヒュッと息を呑んだまま固まった。その反応に煌司は荒く紫煙を吐き出す。


 ──こんなタイミングで、こんな声で言い出す話題なんて、これしかねぇわな。


「で、ぶん殴ると傷が痛んでさらに寝込むからな。そうなったらお前のせいな」

「シラ! 俺は本気で……っ!」

「俺が嫌だっつってんだろ」


 ピシャリと言い放つと、廉史はそのまま一度唇を横へ引き結んだ。だが常ならばこれで引き下がる廉史が、今日この時だけは引き下がる姿勢を見せない。


「だったら俺は! シラがこんなことになるのが嫌だっ!」

「レン!!」

「シラには分かんねぇよっ! 自分のせいでシラが目の前で死にそうになった俺の気持ちなんてっ!!」


 常にない勢いに、今度は煌司が息を呑む番だった。その反応に勢いづいたのか、廉史は煌司の胸ぐらを掴んで引き寄せると言葉を吐き出す。


「俺さえ……俺さえ我慢すればっ!! シラがあんなことになることなんてない。シラが危ない目に遭うことだってない!」

「レン……」


 いつになく荒っぽいことをしておきながら、煌司の胸ぐらを掴み上げた廉史の手は震えていた。


 錬対から自害用の拳銃を支給されたあの日。『死にたくない』と言って泣いていた時と、同じ震え方だった。


「だってシラさ……考えてもみろよ」


 これだけ震えていては、力を込め続けることもままならないのだろう。


 煌司の胸ぐらを掴み上げていた手からは、ゆっくりと力が抜けていった。縋り付くように形を変えた己の手に額を預けるようにうつむきながら、廉史はか細い声を上げる。


「お前は、俺の人生に、巻き込まれただけじゃん……?」


 その細く、今にも消えてしまいそうな声が。


 ずっとずっと、廉史が煌司に言えずにいた『本心』なのだということは、そこに込められた複雑な感情の響きだけで、理解することができた。


「本来、錬対に人生縛られなきゃなんなかったのも、こんな大変な人生を送らなきゃいけなかったのも、俺だけじゃんね? だったらさ……その責任は、俺だけが取れば良くね?」


 精一杯軽やかに紡いでいるように見せかけて、その言葉はどこまでも重かった。煌司と廉史が重ねた年月と同じ分だけ、その感情が廉史の中で醸造され続けてきたのだと、血の繋がった家族よりも長く濃密な時間を過ごしてきた煌司には、聞くだけで分かってしまう。


「俺の人生のレールに、シラが同乗する必要なんて、ほんとはないって。……シラは賢いけど、優しいから。知ってて、見ないフリをしてきてくれたんじゃねぇの?」


 言葉はやんわりと煌司に離別をそそのかす。


 だが煌司の胸に添えられた手は、いつの間にか煌司の服を必死に握り込んでいた。


「俺の近くに、都合よく、戦闘素養の高いシラがいたから。俺とシラが、都合よく、仲が良かったから。だから……」


 離れたくない。でも、離れた方がいい。


『黒浜廉史』というモノの人生に、白浜煌司を縛り付けてはいけない。


 それをきっと廉史は、とうの昔に、誰に言われるまでもなく理解している。周囲からの自分の扱いが理不尽だと思えば思うほど、本来こんな人生を送らなくても良かったはずである煌司の存在が頭をぎり続けてきたのだろう。


 それでも、この心境を口に出さずに過ごせてきたのは、ここまで煌司が命に関わるような怪我をせずに済んでいたからだ。ある意味、遠くない未来に遭遇するはずであった事象に、正面から向き合わずに済んでいたからだ。


 その見ないフリをしてきた現実に、真正面から向き合ってしまった今、廉史は考えずにはいられないはずだ。


黒浜廉史自分』という災禍のせいで、煌司が死んでしまうかもしれないという、未来のことを。


「俺が……俺がもう、何も願わずに、錬対で大人しくしてれば、シラは解放されるから。だから」


 ──なるほどね?


 大人しく廉史が口にする言葉と、口にはしないが心の中で思い浮かべているであろう言葉をじっくりと聞いた煌司は、まず灰が落ちそうになっていた煙草を携帯灰皿に押し付けて消火した。さらにその携帯灰皿をサイドテーブルの上に戻し、自分の胸に添えられた廉史の手をそっと外す。


「あ……」


 廉史はその仕草から、煌司が廉史の言葉を受け入れたと取ったのだろう。口ではあれだけ離別を推奨してきたくせに、廉史の口元には傷ついたような笑みが浮かぶ。


 だから煌司は、廉史の両手を纏めて固定し、傷の痛みをガン無視して腹筋に力を込めた。一度上体を後ろに逸らした反動も全乗せして、己の額を全力で廉史の頭に叩きつける。


 白浜煌司のケンカ技、伝家の宝刀。


 錬力も何も使わっていない、ただの渾身のヘッドバットは、ゴツッという鈍い音とともに廉史にクリティカルヒットをかました。


「っ!? っ? っっっ???」

「〜〜〜〜〜ってーな! クソがっ!!」

「いや、喰らわしてきたの、シラじゃんっ!!」


 衝突の反動で煌司は寝台に倒れ込み、廉史は椅子から転げ落ちて床をのたうち回った。さらに叩きつけられた煌司の罵声に、さすがに理不尽だと感じたのか廉史が怒鳴り返す。


 その声に、煌司はさらにドスの効いた怒声を上げた。


「テメェがクソくだらねぇ理屈こねくり回すからだっ!! バカッ!!」

「ばっ……バカってなんだよっ!! 俺は心底本気で……っ!!」

「テメェの心情ばっか押し付けてくる理屈に『はい、そうですか』なんて大人しく従えるかっ!!」


 ヘッドバットに大絶叫と、さっきから腹に力を込めすぎて傷口が泣けるほどに痛かった。だがその全てを無視して寝台から身を乗り出した煌司は、グイッと片手で廉史の胸ぐらを掴み上げて体を引き寄せる。


「俺の感情をガン無視しやがんじゃねぇつってんだよっ!!」


 下手をしたら鼻先がぶつかりそうな距離まで顔を寄せて怒鳴りつける。目の前にした廉史の琥珀の瞳には、煌司の姿だけが映り込んでいた。


 ──笑えるほどにズタボロじゃねぇか。


 廉史がこれだけ心配するのも無理はないと思えるくらいに、廉史の瞳に映った煌司には死相が漂っていた。


 だがそんなのは廉史も同じなのだと、煌司は勝手に切り捨てる。


「お前とここで人生別れて、『普通』に戻りゃ俺が幸せになれるってテメェは勝手に決めつけんのかっ!? アァッ!? 俺の人生の道やら幸せやらってやつを、何でテメェに決められなきゃなんねぇんだよっ!!」

「……っ!」

「レン、テメェ思い上がってんじゃねぇぞっ!! 俺にだって自分の考えも、自分の感情もあらあっ!!」


 息を詰めた廉史の瞳にボロリと涙が浮いた。


 決して煌司の剣幕に恐怖したからではない。廉史はこの程度の剣幕に負けるようなヤツではない。


 廉史の涙は、言葉で表せない感情の発露だ。ここ最近、とんと廉史が泣く姿を見なくなっていたが、廉史は本来、感情を言葉にすることが苦手で、嬉しい時も悲しい時も怒った時も、キャパオーバーの感情を抱えるとすぐにボロボロと泣き始めてしまう。


「この道を『理不尽』だの『巻き込まれた結果』だのと感じてたら、とうの昔に自力で降りれたっつの! 俺が今でもテメェの人生に同乗決め込んでんのは、俺が心底って思ってるからに決まってんだろうがっ!!」


 それを知っているから、煌司も叩きつける言葉を緩めない。このバカには一度、ガツンと心底理解するまで言ってやらないと、どうやら理解できないようだと今になって知ったから。


 ──いや、違うな。


 本当は、昔から知っていた。


 廉史が煌司の前で泣くことをやめたように。煌司もどこかで、廉史に本音を叩きつける手を緩めていたのかもしれない。


「だからテメェに『降りろ』っつわれても、俺は降りてやらねぇからな」


 言いたいことを言い切った煌司は、廉史の胸ぐらから手を離すと体を寝台に投げ出した。今更ながらに傷の痛みが全身に走る。損傷部位は腹部で、傷そのものは回復系錬力によって治癒済みであるはずなのに、全身が痛むなんて理不尽の極みではないだろうか。


「テメェの人生のタンデムシートは、俺専用の指定席なんだよ」


 そんな不満をぶつくさと胸中で呟きながら、煌司はゴロリと廉史に背中を向けるように寝返りを打った。


 対する廉史は煌司の怒涛の言葉に、ようやくポツリと一言を返す。


「何そのセリフ」


 力が抜けてふにゃりと芯がない声は、ともすると誰にも届かずに空気に溶けて消えてしまいそうなくらいに頼りない。


 それでも、煌司の耳に届けるには十分だった。


「クサすぎんにも程があんでしょ」

「……るっせ」


 我ながらクサい台詞を言った自覚があった煌司は、頬に熱が集まるのを感じながら目を閉じた。三日間の昏睡から目を覚ました直後に暴れたり叫んだりしたせいか、全身のいたる部分からありとあらゆる痛みを感じる気がする。


 ──もうこれは、無理やりにでも意識を落としてやり過ごすしかねぇか。


 今度目を覚ましたら、鎮痛剤をもらうとしよう。いや、その前に飯か。


 そんなことを考えながらうつらうつらと眠気に意識を遊ばせた始めた、その瞬間だった。


「……ありがと、シラ」


 さっきよりもさらに小さな声が、煌司の耳に響いた。


「反則なくらいカッコ良すぎて、一生手を離せないかも」


 ──いくらでも惚れ直せ、バーカバーカ。


 その一言は、もしかしたら声に出ていたのかもしれない。


 ギシリ、と寝台が軋み、背中にトンッと温かいモノが触れる。


 その温もりが心地よくて、煌司は口の端に淡く笑みを浮かべたまま、ウトウトと心地よい眠りに落ちていった。

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