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「と、いうことになった」

「……って。そんな簡単に纏められてもねぇ」


 溜め息混じりの呆れた声に視線を落とすと、予想通りの表情で美穂奈ミホナ煌司コウジを見上げていた。


「置かれた状況は好転したかもしれないけれど、進展はしていないってことで良いかしら?」

「んま、ぶっちゃけて言っちゃうとそういうことだよねぇ」


 机を挟んで美穂奈の正面に座った廉史レンジは、呑気に美穂奈に同意を示す。その危機感のない物言いに煌司は小さく溜め息をついた。


 週明けの月曜日。授業を終えた教室。


 クラスメイト達が帰宅した後の教室で、三人は話し込んでいる。


「とにかく、俺達があんなことになってる間、お前に何事もなくて良かったよ【Nacchi.ナッチ】」

「ちょっと。学校でその呼び名は使わないでほしいんだけども」

「わざわざ自分から錬対にコンタクト取ってくれたんだろ? 危ない橋を渡らせることになって、悪かった」


 煌司の発言に頬を膨らませた美穂奈は、続いた言葉にスッと表情を改めた。行儀悪く椅子に対して横向きに座り、足を組んで背もたれに左肘を預けていた美穂奈は、窓辺に背中を預けて美穂奈と廉史を見下ろしている煌司から気まずそうに視線をらす。


「だってあれは……私の、ミスみたいなものだったから」


 ──それだけの感情で動くには、お前が置かれた立場は危なすぎただろうに。


 煌司と廉史が相手の策にハメられ、危難に陥っていた、あの時。


 煌司に撤退を命じられていた美穂奈は、己の安全を確保するよりも先に錬対の通信網をジャックし、二人の救助を要請してくれていた。美穂奈が強引な手段を取っていなければ、錬対の対応はもっと遅れていただろう。その場合、煌司の命がどうなっていたかは分からない。


 さらに美穂奈は五華いつはな学園に飛び込んでからも、己の庇護を求める以上に煌司と廉史が置かれた窮状の説明を優先してくれたと聞いている。自分が今回の一件に非合法情報屋【Nacchi.】として関わっていたことも包み隠さず告白し、己が把握していた情報も全て錬対に渡したそうだ。


 【Nacchi.】の情報収集能力と分析手法は錬対の情報官達の上を行っており、【Nacchi.】の介入のおかげで捜査は大幅に進展した。捜査会議の場で情報官達が舌を巻いている現場を直に見てきた二人は、それが比喩ではなく事実であったことを知っている。


 だからこそ、思う。


 ──潮時だな。


「……お前はもう、この一件から降りろ」


 静かにまぶたを下ろし、同じくらいゆっくりと開く。


 その上で美穂奈に視線を据えれば、美穂奈は弾かれたように煌司を見上げた。その顔にはどこか傷付いたような表情が浮いている。


 ──そういうツラにもなるよな。


 美穂奈が抱えている感情は、多少なりとも分かるつもりだ。逆の立場に置かれていたら、きっと煌司も似たような顔をしただろう。こちらから巻き込んでおいて『降りろ』とは何様だとも思う。


 それでも。


「な、なんで……」

「これ以上は、いざという時に守ってやれない」


 震える声でやっとそれだけを絞り出した美穂奈に、煌司はあえて感情を排した声音で答えた。


 真っ直ぐに視線を据えた先では、煌司の声に物理的にぶたれたかのようにビクリと美穂奈の肩が震えている。


「事が大きくなりすぎた。敵側はお前の存在も把握してる」

「だったら、同じこと……っ!」

「あのね、イインチョ。俺達は『学生』でもあるけれど、『錬対』でもあるわけよ」


『現時点で巻き込まれているならば、今手を引いたところで同じではないか』と美穂奈は主張する。


 その反論を遮ったのは、煌司ではなく廉史だった。


「俺達は錬対の庇護を受けれる。錬対の身内だから、いざとなったら錬対は俺達を守ってくれる。……でも、イインチョはそうじゃない」


 常に何かしらの表情が浮いている廉史の顔から、表情が消えていた。無表情に淡々と言葉を紡ぐ今の廉史は、日頃廉史がクラスメイト達に意図的に隠している『歩く物的証拠リビング・エビデンス』としての廉史だ。


「俺達とイインチョじゃ、立場が違うんだ」


 そんな廉史にも美穂奈は小さく体を震わせた。廉史に移された瞳の中には、微かなおびえさえ見える。


「これ以上は、イインチョの安全を保障できない。俺達は、大事なクラスメイトを、これ以上危険な目に巻き込みたくないんだ」

「俺達の勝手で巻き込んで、俺達の勝手で降りろって言うのが、身勝手だってことは分かってる。だが、聞き入れてほしい」


 あえて美穂奈を脅すような言動を取る廉史を、煌司は止めなかった。その上でなるべく威圧的にならないように気をつけながら説得の言葉を重ねる。


 ──元々、巻き込んだことが筋違いではあったんだ。


 今回、煌司達は初手で【Nachhi.】を頼った。だがそれは緊急事態だったからだ。襲撃をかけられたあの時点ではあの対応が最速で、かつ一番信頼できた。もっと言えば、ここまでの危機に自分達や美穂奈が巻き込まれるとは想定できていなかった。


 だが、今は違う。


 今、煌司達は正式に錬対の捜査会議と、対等な関係で情報が共有できるようになった。錬対が自分達を守る傘になってくれると信じるに値することは、一昨日参加した捜査会議の場の雰囲気で感じ取れた。


 こちらのマトは三好みよし恒継ツネツグに絞られており、三好恒継の方もこちらを潰すためならばいかなる手段をも行使してくる状況だということは分かっている。三好恒継はこちらが『学生である』という理由だけで手加減をしてくれるような生やさしい人間ではない。そのことはすでに初回の襲撃で証明されている。


 ここから先で繰り広げられるのは、『捜査』という名の命の取り合いだ。


 その争いの中に、自分の身を自分で守れるだけの技量がない美穂奈を巻き込むわけにはいかない。


 さらに言えば、美穂奈の……【Nacchi.】の圧倒的な情報収集能力は、法を犯して得られるものだ。


 煌司達は錬対の身内扱いだから多少法を犯してもお目こぼしがもらえるが、錬対とは一切関係ない非合法情報屋である【Nacchi.】の行動がいつまで見逃してもらえるかは分からない。いくら捜査の役に立とうとも、錬対だっていつまでも、どこまでも見て見ぬフリというのはできないはずだ。最悪の場合、利用するだけ利用して逮捕、という最低な結末だって錬対の筋書きにはあるのかもしれない。


 ──元々【Nacchi.】のお目こぼしは、【Nacchi.】が二度と法を犯さず、闇取引もしないことが前提であったはず。


 条件付きかつ監視付きとはいえ、せっかく平穏な学生生活を送れる身の上になったのだ。これ以上、煌司達の甘えで美穂奈の平穏を乱すわけにはいかない。


「……俺達の判断が甘かったせいで……本当に、悪かった」

「……っ」


 自分達の身勝手を何と詫びたらいいのか分からず、やっとそれだけを絞り出した煌司に、美穂奈は無言のまま喉を震わせた。


 自分の膝に視線を落とした美穂奈は、ギュッと両の拳に力を込める。そんな美穂奈にかける言葉を持たない煌司は、ただ静かな視線を美穂奈に向けていた。


 沈黙の時間は、いかほどのものだったのか。


 開けっ放しになっていた窓から涼やかな風が迷い込み、フワリと天使が羽を広げるかのようにカーテンが翻る。


「……分かった」


 カーテンが広がり、また収まるまでの間で、沈黙の時は終わった。


 握りしめた拳からゆっくりと力を抜いた美穂奈は、いまだに震える声で言葉を紡ぐ。


「私は、手を引く」


 噛みしめるように答えた美穂奈は、スッと顔を上げると真っ直ぐに煌司を見上げた。メガネの向こうから煌司に据えられた瞳に微かに涙の膜が張っているように見えたのは、恐らく煌司の見間違いではないだろう。


「だけど、謝らないで。……私はきっと、あんた達に頼られなくても……あんた達が危難に立たされてるって知ったら、自分から首を突っ込んでいったと思うから」


 美穂奈の言葉に、煌司は言葉で応えることができなかった。


 ただ小さく、顎を引く。


 そんな煌司の仕草から、美穂奈は何を読み取ったのだろうか。さらにクッと唇を噛み締めた美穂奈は、スクッと立ち上がると身を翻し、ツカツカと教室を出ていった。


 その後ろ姿を、煌司と廉史は無言で見送る。


「憎まれ役を引き受けやがって」


 煌司がポツリと呟いたのは、美穂奈の気配が意識の外に消えて、さらにしばらく経った後だった。人の気配が限りなく薄い静寂の中を、複雑な感情を織り交ぜた煌司の声が居心地が悪そうに転がっていく。


「いーの。こーゆーのは俺の方が適任なんだから」

「そうなのか?」

「そーなんです」


 廉史は伸びをするように背をらすと、そのまま頭の後ろで腕を組んだ。呑気な口調で言葉を紡いだ廉史だが、その表情は声に似合わず張り詰めている。


「さて。これで憂いはなくなった?」


 廉史の問いに、煌司はついっと瞳を伏せる。


 煌司と廉史が置かれた状況は、いまだに安全とは言い難い。そんな中、わざわざ危険を冒してまで今日二人が登校してきたのは、美穂奈と直接話をするためだった。


 それが自分達の責任であると思ったし、礼儀でもあると考えたから。だから錬対に相談し、対策を講じてもらった上で、今日という一日をここで過ごした。


 今日、下校してしまえば、事件が解決するまで二人は学校に出てこない。錬対は最速での解決に注力すると言ってくれたが、その『最速』がどれ程になるかは、現状誰にも分からない。


 ──しばらく前まで、ここから永久に追放されることを望んでいたはずなのにな。


 そんな自分がこの状況で寂しさや心細さを感じるなんて、身勝手もいいところなのかもしれないけれども。


「……ああ」


 一度ゆっくりと瞼を閉じ、覚悟とともに開く。そのまま廉史へ視線を据えれば、煌司を見上げる廉史の顔にはいつの間にか笑みが浮いていた。


 そんな相棒に、煌司も同じ温度の笑みを向ける。


「とっとと片して、さっさと帰ってこようぜ」

「あいあい」


 廉史の軽い物言いに、煌司は傍らに立てかけていた竹刀袋を持ち上げた。椅子を引いて立ち上がった廉史とともに、煌司は鞄と竹刀袋を肩にかけ、教室を後にする。


「だーいじょぶだって。何せ我らは両雄揃って『仁王』」

「降魔調伏はお手の物ってか?」

「そゆことそゆこと!」


 廉史の軽口に同意するかのように、またフワリとカーテンが揺れた。その向こうから赤みを帯び始めた光がこぼれ落ちる。


 一瞬だけその穏やかそのものの光景に視線を流した煌司は、意識を切り替えると相方とともに己が進む先へ視線を据えた。


 この判断が最善であったはずだと、どこかで違和感を覚える自分を無理やり納得させながら。

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