<7・当然ノ報イ。>
「は、ははははは!こりゃすげええ!」
地響きとともにお城の壁がガラガラと崩れていく。魔導書を持った魔族の男は、体を震わせて喜んでいた。
「ありがとうな、あんたが持ち出してくれたこの本最高だぜ!こんなでかい魔法、撃ったことねえ!」
「そ、そうか。良かったね……」
つまり、僕が城の中から持ち出した辞書のような本は、巨大な魔法をぶっ放すことのできる魔導書だったというわけである。
僕は、物語をめちゃくちゃにしてやろうと思って(悠斗を慌てさせてやりたかったのと、どうせ物語の世界なのだから登場人物が傷ついてもさほど問題はないだろうと思ったのがある)魔族の男に武器を提供しようとしたのだ。すると、男は僕が持ってきた剣や盾よりも、あの辞書のような本に興味を示した。僕は何も知らず、城の書庫からとんでもない魔導書を持ち出していたらしい。
男が放った雷の魔法は建物を貫き、城壁に大きな罅を入れて派手に破壊していった。元々はただの偵察兵だっただろう男は巨大な力を手に入れて、相当気分が高揚している様子である。窓からは城の中で、落ちてきた瓦礫から兵士たちや王様、悠斗が右往左往しながら逃げ回っているのが良く見えた。
――こ、これ……物語、軌道修正可能なのかな?
前にも解説した通り。
本来、夢本の物語は、多少主人公が本来のシナリオに沿わない行動をしたところで、必ず本筋に戻ってくるように軌道修正がかけられる仕組みになっているはずである。これは、夢本屋の店主に確認したことではないが、何度も僕自身が実際に実験したことなので多分間違いないだろう。脱走して異世界に旅立たなければいけない子猫は、脱走をやめても家の中で遊んでいるうちに異世界へ繋がる穴に落ちてしまうし、山小屋に辿りつかなければいけない少年はどんな道を適当に歩いても必ず山小屋へ到着する。だから、他の夢本の物語も本来同じような仕組みになっているはずなのだ。
恐らく。悠斗が読んでいた夢本の世界では、王様を説き伏せた勇者・ギルバートが魔族を説得するために旅立つという話だったのだろうという想像がつく。多分、それをこの偵察兵だった魔族の男が目撃しており、勇者の味方になったり魔王に状況を報告して物語を大きく動かすということにでもなっていたのだろう。もし本当に悠斗が言った通り、魔族が“生きるために仕方なく侵攻してきている”種族であるならば、彼等だって本来戦争は望んでいないはず。この国の王様に和睦の意思があるならば、和平交渉のテーブルに着くくらいのことはしただろう。
ところが、それを僕が派手に壊した。
話がまだ聞こえていなかったであろう偵察兵の男に“彼等は魔族を殺そうとしているぞ”という嘘の情報を吹き込み、巨大な魔法を放てる魔導書を渡したことで――彼自身がその場で暗殺を決行しようと試みたのである。ここで王様と勇者を一網打尽にすれば、間違いなう王国は大混乱に陥るし、大幅な戦力ダウンも期待できるはずだから、と。
魔族の偵察兵がここまでのことをやらかした上で、和平交渉なんて展開に持っていけるものなのか。正直、相当厳しいと言わざるを得ないと思うのだが。
――ひょっとして、外部から侵入した僕が動いた結果物語が壊れた場合は……自力で軌道修正不可能になったりするのかな?
まあ、その可能性も考慮していなかったわけではない。それならそれで構わなかった。どうせ、僕が読んでいる本ではないのだし、現実の人間が死ぬわけでもないのだから。
「“ザキルア・イノベート”!」
魔族の男がさらに魔法を唱えると、城の上空に現れた黒雲から光の束が打ち下ろされた。激しい雷鳴。城の屋根が吹き飛び、大きな穴があく。黒煙とともに上の方の階の部屋から火の手が上がるのが見えた。カーテンが激しく燃えている。玉座の間まで及ぶのも時間の問題だろう。
なかなかカオスな展開である。僕は面白くなってきて、窓から中を覗いた。
「な、何が、何が起こっているのだ!?」
「王様、避難してください、ここは危険です!」
慌てている王様の腕を引っ張り、どうにか逃がそうとしている悠斗。建物の被害は甚大だ。このままでは全体が崩れ落ちるのも時間の問題だろう――それとも火事によって丸焼けになってしまうのだろうか。
ぼそり、と悠斗が呟く声が聞こえた。
「おかしい、こんなイベント無かったはずなのに……!」
いつもクールな彼が明らかに焦っている。なんだかとても愉快だった。そのまま間抜けに逃げ惑えばいい、と思う。どうせなら、ションベンのひとつも漏らしてくればなお面白い。ああ、ここにスマホがあったなら、そのしょうもない姿を写真に撮ってやれるというのに!
「!」
逃げようとした王様が、ローブの裾を踏んで転んだ。その刹那、王様の上に巨大な瓦礫が落ちてくる。
ぐしゃり、とも。めきょり、ともつかない音がした。
「ぐがああっ……!」
背骨を叩き折られた王様が、泡を吹いて倒れる。潰れた背から、腹から、じわじわと赤いものが溢れてくるのが見えた。引き裂けた場所からは、内臓の一部のようなものさえ覗いている。なかなかグロテスクだ。何もこんな物語の中でそこまでリアルに描写しなくても、とドン引いてしまう。
「お、王様……そんな……最後まで、生き残るはず、なのに」
悠斗は真っ青な顔をして、王様の亡きがらを見つめるばかり。そしてその彼の上にも、地響きとともに瓦礫が。
「く、くそっ」
そして、彼が取った行動は一つだった。
「“お願いします、今から本を閉じます”!」
両手を合わせて、呪文を呟いたのである。その瞬間、悠斗の姿はキラキラとした光となって消えていった。瓦礫はさっきまで少年が立っていた場所に突き刺さる。僕はそれを見て、ゲラゲラと笑い転げたのだった。
「ばっかじゃねーのあいつ!結局びびって逃げちゃってさあ!」
この時。僕の頭は、いかに明日悠斗にこの話をしてやるか、でいっぱいだった。お前が慌てふためいて逃げるところを見たぞ、王様を守れなくて残念だったな、いつも偉そうにしてるせいだぞざまぁみろ!と。自分が人様の物語に不法侵入した身であることなど、すっかり頭から抜け落ちていたのである。
そう。
あの、夢本屋の店主が、なんと自分に忠告していたのかも。
「!」
その瞬間、ぐにゃり、と世界が歪んだ。
「え?」
魔法によってお起きている地響きではない。景色そのものが、空間そのものがおかしなことになっているのだ。ゆらゆらと波打つように揺れ、庭の木々も空も城壁もぐにゃぐにゃと溶けた飴玉のように蠢いているのである。なんだこれ、と思った時魔族の男がこちらを見た。魔導書をくれたことに再度礼でも述べようとしたのだろうか。しかし。
「wげgt4wm-4gjほphg45qのgwh99@3q5jp03qt09うjq9、pmふぇうぃあ@f0んq38mjf0@、9j03@9lj@う」
「え、え?」
「q90うfmな0-gt4w-き45-0、ぉえいfじお4hgwpg……!」
「な、何?何言ってんのか、わからな……」
男の言葉は、既に言葉ではなくなっていた。あらゆる不快なものを混ぜ込んだような、謎の音。それが、男の口から洩れ出しているのである。さっきまでは確かに、自分達の間で意思の疎通が出来ていたはずだというのに。
恐ろしくなって一歩後ろの下がった瞬間、偵察兵の体がぐにゃり、と溶けた。まるで柔らかい飴細工のごとく。目玉が眼窩から零れ落ち、口が大きく引き裂けて歪み、腕が肩口から脱落し、脚が関節を無視してあらぬ方向へと曲がる。そう、男を構成していたあらゆる血肉と骨が、突然あるべき形を失ってしまったかのように。
そして、それは他の自然物も同じだった。空も、地面も、草木も、城の壁も、窓も。何もかもが、どろどろと夏の陽射しを浴びた飴のようにとろけ始めたのである。
「う、うわあ!」
何か、まずいことが起きている。それだけは間違いなかった。僕は尻もちをついて、慌てて肉塊になってしまった男から遠ざかる。そして腰がひけながらもどうにか立ち上がると、その場から一目散に逃げ出したのだ。
――や、やばいやばいやばいやばい!これ、何が起きてんの!?
明らかに、世界がその姿を失おうとしている。青い空にドス黒い染みがぽつぽつと浮かび、その色をじわじわと浸食し始めていた。まるで、空を塗った布地にうっかり墨でも落としていくかのように。
このまま此処にいたら、自分も魔族の男のように肉塊になってしまうのか。それとも、虚無の空間に放り出されてしまうのか。僕は、来た道をひたすら走った。目指すべき場所は、自分がこの世界に入り込んだ場所。禁止領域――本来やってきた物語、“山小屋の怪”の世界に戻ることができる、あのロープの向こう側だ。
「はあ、はあ、はあ……!」
走りながら、少しだけ頭の隅が冷えていくのを感じていた。
恐らくこの異変は、悠斗が本を閉じてしまったことにより起こったものだろう。そうだ、確か夢本屋の店主は言っていたではないか。
『夢本の世界の広さは、物語の大きさによってまちまちだが。まあ、一つの巨大な空き地を一人ずつ借りているようなもので……一つの夢本の世界のサイズには限度があるわけだ。そして、その夢本同士の世界が、御隣り合わせでくっついていることもある。場合によっては、本当にギリギリの大きさで密着している。……ロープ一本飛び越えれば、別の夢本の世界に入り込んでしまうこともあるほどに』
――嫌だ、嫌だ、嫌だ!
『だから、絶対に禁止領域には踏み込んではいけないのさ。何故なら大空君、君は自分の名前で契約した本でしか出入りすることができないし、コントロールができない。自分の呪文で帰ることができるのは、自分の世界にいる時だけ。他の人の夢本の世界へ勝手に入ることはつまり、不法侵入と同じ……どんな目にあっても文句は言えないのさ。何度でも言う、絶対に踏み込んではいけないよ』
――そんなの嫌だ、絶対に……!
『もし、他人の夢本に入り込んで、相手が本を閉じてしまったら……君は永遠に、夢の世界に飲み込まれてしまうかもしれないんだからね』
――こんな場所に永遠に閉じ込められるなんて、絶対に嫌だ……!
転びそうになりながら、僕は城の廊下を走る。あちこち崩れたり穴があいているせいで非常に走りづらかったが、そんなことに文句を言っている場合ではなかった。とにかく一刻も早く、あのロープを飛び越えてて帰らなければ。
――くそくそくそくそ!悠斗のやつが、びびって本を閉じたりするから!僕がいるのに、逃げたりするから!
きっと悠斗は僕の存在に気づいていなかっただろうし、閉じたらこんな事態になるなんてことも知らなかっただろう。それはわかっていたが、八つ当たりせずにはいられなかった。どろどろに溶けて、黒い汚いスライムのように変化していく世界。こんなおぞましいものを見せられて、怒りでも持たなければ正気が保てそうになかったのである。
走り続けた僕の目に、あのロープが張られた廊下が目に入る。あと少しで安全なところに逃げられる、そう思った瞬間。
「――!」
景色が、壊れた。
まるで蟻地獄に沈んでいくように、廊下が奥から消失していく。熱せられた蝋のようになった床が、次々地面にあいた穴にどろどろと流れるように溶け落ちて消えていくのだ。
「や、やだ……」
ロープがちぎれる。
看板が、穴の中に飲み込まれていく。
「やだ、やだあああああああ!」
まるで巨大な重力に引っ張られるよう。僕の体も、うねうねと蠢き溶けていく廊下とともに地面の穴へと落ちて言った。
虚無の闇。永遠の、黒。
僕の絶叫は、その中に飲み込まれてばくりと食われるように消失したのである。
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