<5・誰カノ秘密。>
絶対してはいけない、なんて言われると興味を持ってしまうのが人間の性というものである。法律のように、犯したら警察に捕まるとか、死刑になるとか、そういう明確なペナルティがあるわけではないなら尚更に。
――昨日の本も面白かったけど。……普通に楽しむだけじゃ、ちょっと退屈になってきたのも事実だし。
あのロープの向こう。禁止領域とやらには一体何がああるのだろう。結局僕は散々迷った挙句、その日は一冊も本を買わなかった。どうしても、昨日“山小屋の怪”の世界で見た看板のことが頭からちらついて離れない。新しい本を買うより、あのロープの向こうをもっと調べてみたいという衝動に駆られて仕方なかったのである。
だってそうだろう。あの向こうが、まったく別の夢本に続いているなんてわくわくするではないか。確かに夢本一冊は高い価格ではないが、それでもお金を払っているのは事実である。それを、あのロープを飛び越えるだけでタダで体験できるかもしれないとなれば、ラッキーと思ってしまうのも致しかたないことではないか。
同時に。他人が“今まさに物語を体験している”姿とやらに興味を持つのも事実。主人公ではない外側から物語を見て見たい、なんて。そんな斜め上の楽しみ方が気になってしまうのも確かなことなのだ。邪道と言われれば、それまでかもしれないけれど。
――それに、他の人がどんな夢本を楽しんでいるのか気になるし。例えば……。
噂をすれば影、なんて的確すぎることを言ったのは誰なのか。
想像した途端、その人物は目の前に現れた。僕が本屋を出たところで、青海悠斗とばったり鉢合わせることになってしまったのである。
「げ」
「あ」
彼も、僕が夢本屋に出入りしているなんてことは知らなかったのだろう。眼鏡の奥で、眼を真ん丸にしている。
「……剣崎君、なんでここにいるの」
先に口を開いたのは、悠斗の方だった。たったそれだけのことだが、僕は妙にカチンと来てしまう。
「そ、それはこっちの台詞だし!なんだよ、何でここにいるんだよ、僕が見つけた秘密の店なのに!!」
「……別に、君の店ってだけじゃないだろ。俺も興味を持ったから通ってる、それだけなんだけど」
「絶対僕の方が先に見つけたんだよ、だから僕の店なんだよ!」
自分でも、滅茶苦茶なことを言っているのはわかっている。それでも、この少年相手にだけはどうしても譲れなかった。いわゆる、犬猿の仲というやつである。どう足掻いても仲良くなれる気配がない相手、というのが世の中には何人かいるもので、僕にとって悠斗はまさにそういう存在だったのだった。
彼はため息をついて、ひとつ。
「子供か」
そしてそのまま、僕の脇をすり抜けて本屋の中に入って行ってしまった。悔しいのは僕の方である。論破してやることもできず、逃げられた。流石に店の中まで追いかけていって喧嘩してやろうと思うほど非常識ではないつもりである。店主のおじいさんに迷惑をかけるのも申し訳ないから尚更に。
「なんっだよ、あのクソヤローめ!」
彼は店主のおじいさんと少し言葉を交わして、それから本棚の検分を始めたようだった。硝子ごしに見える横顔は相変わらず済まして見えた。それこそ、僕のことなどまったく気にしてないと言わんばかりに。それがまた、僕の地雷を踏んでいるわけであったが。
――ムカつくムカつくムカつくムカつく、ちょーぜつムカつく!
僕は地団太を踏みつつ、思ったのである。
――あいつはどんな本買うんだろうな。どーせ、ガキっぽかったりバカっぽかったり、ちょっとえっちなやつだったりするんだろ、きっと!
人、それを偏見と呼ぶ。
わかっていても止められない時は止められないものなのだ。
***
昨日の時点で、“山小屋の怪”の物語は最後までクリアしていた。山小屋に辿りついた僕は、他にも迷い込んできた人達と出くわし、暫くそこで集まって助けを待つことになるのである。幸い季節は春なので寒くも暑くもないし、室内には食糧が大量に備蓄されていた。電気、水、ガスも通っているし、布団なども人数分以上に用意されている。一晩ここで夜を明かしても大丈夫そうだ、という話になったわけだ。
しかし、集まった人々と話しているうちに、少年は奇妙なことに気づくのである。彼等と自分達で、話がかみ合わないことがしばしばあったのだ。
ある者は、“お国のために、出征の列車に乗るため駅に向かう途中で道に迷った”と言い。
ある者は、“イラク戦争なんて、本当に恐ろしい話だ”と言い。
ある者は、“ポケベルの調子が悪い”と言い。
またある者は、“もうすぐスカイツリーが完成するらしい”とのたまうのである。
自分達は、ひょっとしたら同じ時代からやってきたわけではないのではないか。何か、時空が歪んでおかしなことになっているのでは。そう不安を抱き始めた時、山小屋に異変が起き始めるのである。誰かがしきりに窓を叩いたり、戸を叩いたり、春先なのに猛吹雪になったりし始めるのだ。
住人達は恐れから、ドアを開けべきという人間とそれはやめるべきという人間で別れて紛糾し――とまあ、こんなシナリオである。最終的に主人公であるエンヤ=僕は家に帰ることができるのだが、集まったメンバーのうちの数人はバケモノに喰われたりして悲惨な死を遂げるという物語だった。
最後までハラハラドキドキと展開が読めないシナリオで、小説で読んでもきっと面白かっただろうなと思うのだが。それはそれ、これはこれ。おじいさんの話を聞いてしまったら、物語の外に踏み込んでみたいなんていう気持ちも出て来てしまうわけで。
『だから、絶対に禁止領域には踏み込んではいけないのさ。何故なら大空君、君は自分の名前で契約した本でしか出入りすることができないし、コントロールができない。自分の呪文で帰ることができるのは、自分の世界にいる時だけ。他の人の夢本の世界へ勝手に入ることはつまり、不法侵入と同じ……どんな目にあっても文句は言えないのさ。何度でも言う、絶対に踏み込んではいけないよ』
――ちょっと覗くだけ、ならできないかな。
その晩も、僕は“山小屋の怪”の世界に入っていた。山小屋に辿りつくまでの、途中の坂。今日もやっぱり、絶対禁止領域!と書かれた看板とロープがある。その向こうを覗きこめば、相変わらず底の見えない深い崖が。
――確かに、不法侵入は良くないし、こっちの世界じゃないと帰れないのかもしれないけどさ。ちょっと覗いて、すぐこの物語に戻って来れば無事……なんてことないかな。
問題は、行ったら行ったまま戻ってこられない可能性があるということ。例えばこの崖を登って戻って来いと言われたら、正直自信がないのである。自分の身体能力は、小学生の中ではそれなりだという自負がある。ドッジボールだって結構活躍できる方だ。が、それはあくまで“小学生の中で言うなら”の話であって、大の大人と勝負できるほどの運動神経があるとは思っていないのである。それこそ、ロッククライミングなんて大人だって出来ない人はたくさんいるだろうに、子供の自分にできるかどうか。
しかも、スポーツで行われるそれとは違って命綱もないし、そのための装備も身に着けてないのである。僕が躊躇う理由はほぼそれだけだった。確実に戻ってこられる保証があるのなら、いつでもチャレンジして見せるというのに――。
――この崖も、ただのイメージってだけで、実際は崖じゃない可能性もあるけど……。
そんなことをつらつら考えながらロープの向こうを覗きこんだ、その時だった。
「え?」
暗い暗い崖の底に、異質なものが動いたのが見えた。僕は眼を見開く。少しハネたような特徴的な髪型、丸い眼鏡。顔ははっきりと見えないが――あの服装。今日まさに教室で、夢本屋で見た悠斗と同じ、緑色のパーカーではないか。
――まさか?
暗い崖の底に、悠斗の姿がちらちらと見えている。その手には、何か棒のようなものを持っているのが見えた。否、棒ではなく、何かの剣だろうか。
――あいつ、あんな澄ました顔しておいて、実はファンタジー系の小説好きだったりすんの?ていうか、もしかしてこの世界の隣の夢本って……その本を今読んでるのって……!
このロープを越えた向こう、崖の底にある別の世界。その本を今開いているのは、他でもない悠斗なのではないか。
気になる。
彼がどんな物語を楽しんでいるのか。チート無双系のラノベだったり、モテモテハーレム系の話を見ているのなら鼻で笑ってやりたい、そんな悪戯心が芽生えた。そしてぐっと身を乗り出した、その瞬間。
「!?」
ずるり、と足が滑った。地面がぬかるんでいて滑りやすくなっていたことをすっかり忘れていたのである。
「わあああ!?」
ロープを飛び越えて、崖下を転落する寸前。僕はギリギリのところで、崖のはしっこを掴んでいた。パラパラと土塊が顔に落ちてくる。まずい、と背中に冷たいものが走った。確かに、隣の世界を見てやるかどうか、心が揺れていたのは事実である。しかし、戻ってこられる保証がないなら、挑戦するのは危険だろうということもわかっていた。このまま、禁止領域の崖に落ちてしまったら自分はどうなってしまうのかわからない。本当に帰れなくなってしまったら、と思うとまったく洒落では済まなかった。
――な、なんとか這い上がらないと……!
しかし、右腕一本ではどうしても力が入らない。そうこうしているうちに、ロープにぶら下がったままの看板がゆらゆらと揺れた。
『コノ先、進入禁止領域。絶対ニ、入ルベカラズ』
こちらを向いた看板の文字。
その下に、真っ赤な文字が追加されていく。
『入 ル ナ ト 言 ッ タ ノ ニ』
ぶちん、と音がして看板を吊っていたロープが千切れた。僕の顔目がけて看板が落ちてくる。
「あ、あああああああああああああああああ!!」
衝撃で、崖から手が離れてしまった。僕は絶叫しながら、真っ暗な崖下へと転落していったのである。
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