<2・子猫ノ冒険。>

 目を開いた瞬間、あっけにとられた。

 この退屈に見えた世界に、魔法は本当に存在するのだ――それは既に確信していたが、だからといって望んだ夢を見られるなんて本が実在することを完全に信じたわけではなかったからである。

 まだ、二割くらいは僕も疑っていた。普通の小学六年生よりも賢い自負があったから尚更に。けれど、実際は。


「すご……」


 言われた通りの呪文を唱えて、本を布団に入れて寝た。それだけで、気づいた時僕は本当に、見慣れない部屋の中にいたのである。否、茶色の高い壁に囲われたこれは、段ボール箱の中だろうか。


「はじめまして、チェミー」


 上から、二本の腕が伸びてきた。僕は抱き上げられて、女の子に頬ずりされる。その動作で、僕が小さな女の子の手で簡単に持ち上げられてしまうほど、幼い子猫になっているという事実に気づいたのだった。

 間違いない。あの本屋さんにプレゼントされた本――『まるまるねこ、チェミーの冒険』の世界だ。僕は本当に、あの物語の主役である黒ブチの猫変身してしまったのだ。


「僕、本当は人間だよ?」


 一応、口にしてみた。僕の耳にはちゃんとした言葉として聞こえていたが、やはり女の子には“にゃあ”としか伝わっていないらしい。可愛い鳴き声ね、とツインテールの小さな女の子は笑った。


「私、さよりって言うの!よろしくね、チェミー。私があなたの、新しいママになったのよ!」


 ちょっとおませな喋り方をする彼女は、多分小学校に上がったばかりくらいの年だろう。僕のために用意したという子猫用のウェットフードを食べさせてくれた。猫のご飯を食べるなんて!とちょっとぞっとしてしまったが――そこは、絵本の物語の補正がかかっているのか、ちゃんと美味しく感じて安心することになる。ちょっと薄味だったが、マグロのタタキのような味だ。そういえば、猫用の缶詰は人間が食べても結構美味しいらしい、なんて話も聞いたことがあったような。機会があったら試してみようか、なんて少しだけ思った。僕の家にも猫がいるからだ。子猫ではなく、家の中を元気よく逃げ回る超絶元気な成猫だったが(年齢で言うと立派なオッサンなはずなのに、何故あいつはあんなに元気なんだろうか)。

 窓に映った僕の姿は想像以上に小さくて、少々不安になってしまうほどだった。こんな小さな猫が普通に猫用のご飯って食べられるもんなんだっけ?ミルクの方がいいんじゃないの?と少しだけ頭をよぎったがスルーすることにする。どうせ、架空の世界だ。リアルとは違うところがいろいろあっても別におかしなことではない。一種、ファンタジーだと思っておくことにしようと決める。


――そういえば、この本の絵。パラ見したけど、結構ファンタジーなところ多かったなあ。


 もし危険なことがあれば、その時さっさと夢から醒める呪文を言えばいいだけのこと。僕はひとまず、本の物語にあった通りに事を進めてみることにしたのだった。この先に、楽しいイベントが待っていることを知っていたから尚更である。

 まだ幼いさよりちゃんは、チェミーのお世話を自分でするのだとはりきっている。そして、親もそんなさよりちゃんの頑張りを見守るつもりでいるのだが。

 いかんせん、親も子も結構抜けているのだ。思った通りと言うべきか、その夜ケージの中で寝ていた僕=チェミーはケージの鍵が開いていることに気づくのである。早々に、さよりちゃんが鍵のかけ忘れ、という超初歩的ミスをしてしまったのだ。

 ついにで、リビングをとことこ歩いていくと、庭に出られる窓の鍵もしめ忘れたまま。この親にしてこの子ありと言ったところか、こちらは母親の失敗である。僕はこれ幸い、とその窓から外に飛び出し、脱走を図るのだ。

 そう、そして。めくるめく不思議な冒険をすることになるのである。


「あったあった、ここだここ!」


 僕は庭の隅に空いていた穴に、するりと小さな体をすべり込ませるのだった。僕が本の絵で把握しているのは、この後の展開まで。そう、この穴から落ちた僕は、カラフルな風船がたくさん浮かぶファンタジーな世界にやってきてしまうのである。

 そして、最初に落ちた場所がまさかの――。


「やったあ!絵にあった通り、お菓子の家だあああああ!」


 そりゃ、テンション上がるというもの。ヘンゼルとグレーテルの物語を一度でも読んだことのある人ならば、想像したことがあるだろう。現実にお菓子の家があったらどれほど楽しいだろう、おなかいっぱいお菓子を食べまくることができたらどれほど幸せだろうか、と。

 僕は落下早々、クッキーで出来た屋根にかじりついた。ありがたいことに、甘いクッキーに飽きたらおせんべいでできた煙突もある。さらにチョコレートでできたドア、ドーナツでできた窓などまさに夢で見たままのお菓子の城だ。猫ってこんなに糖分取っていいんだっけ?なんてツッコミは野暮というもの。僕は、夢中になってお菓子の家を食べ続けたのだった。

 この後は、本を見ていないから何が起きるのか知らない。でもこれがヘンゼルとグレーテルに出てくるお菓子の家ならば、家主は魔女である。見つかったら最後、雷が落ちるでは済まないだろう。

 つまり、僕がするべきことは。


――魔女に見つかるまでの、時間のしょーぶっ!食べて食べて食べて、好きなだけお菓子を食べまくるのだ!!


 食い意地が張っていると言いたければ言え。

 現実では絶対できないこと、やったら叱られることをやるのは本当に楽しいのだ。学校でも家でも、それなりに成績優秀な優等生キャラで通っている自負があるから尚更に。




 ***




「どうしたんだよ、大空。嫌にご機嫌じゃね?」


 翌日。

 僕はほくほくした顔で登校していた。クラスで一番仲良しの友達であるれんが、微妙に引いた顔をして話かけてくる。


「スイルの最新刊、手に入らなかったって言ってなかった?それともアマゾンかなんかで見つかったの?」

「え?……あ、いやそっちもチェックしたけど駄目だった。完全に入荷待ちの状態。電子書籍ならオッケーらしいけど、やっぱあのシリーズは紙の本で欲しいしさあ」

「じゃ、なんで」

「別件別件。ちょっと面白いもの見つけただけー」


 昨夜。

 僕は猫のチェミーの姿で、ファンタジーな世界を好きなだけ冒険したのだった。お菓子の家を堪能しまくっていると、思った通り魔女が登場。箒を持って、僕を追いかけてきたのだった。ヘンゼルとグレーテルの童話と違うのは、猫の僕はその魔女から辛くも逃げおおせたということだろうか。正確には、逃げようとして川に飛び込んだら流されてしまい、そのまま川下まで一気に流された結果魔女から逃げることに成功したというだけなのだが。

 そこで僕はなんと、桃太郎の家に拾われることになるのである。おじいさんとおばあさんは、巨大な桃と一緒に流れてきた猫に大層驚いていた様子だった。そして、桃を割ると中から桃太郎が出現。桃太郎と一緒に、猫のチェミーも一緒に成長していくことになるのである。――まあ、ファンタジーの世界での時間と現実世界の時間の流れは違うようで、桃太郎が立派な青年になった時まだチェミーである僕は子猫のままであったわけだが。

 桃太郎は鬼退治に行くというので、僕も彼についていくのだが。なんと、森を通った時にカラスの集団に襲われ、逃げ惑っているうちに桃太郎とはぐれてしまうのである。一匹だけでどうにか辿りついたのは、森の中の小さな小屋。そこでは白雪姫と七人の小人が楽しく暮らしていましたとさ――という流れだった。

 まあ、要するに。

 グリム童話やら昔話やらがごっちゃになった奇妙な異世界を、子猫のチェミーが大冒険するというなんとも壮大な物語だったというわけである。

 結局呪文を唱えることなく、僕は物語を最後まで堪能した。気づいたら目覚まし時計の甲高い音が響き渡り、僕は猫ではなく人間の姿に戻って、自分の家の布団で寝ていたわけである。


――確かに、夜……本の内容をちらっと見て、その中身を想像しながら寝たのは確かだけど。


 だからって、あんなに忠実に絵本の世界が再現される、なんて。さすがにあれが、“自分が妄想したからたまたまそれっぽい夢を見ただけ”なんてこともないだろう。絵本の中の絵柄を、“さよりちゃん”や“桃太郎”といったキャラクターが忠実に再現していた気がするから尚更である(もちろん、僕=子猫のチェミーもだ)。


「え、面白いことってなになに?」


 そんな僕の言葉に、廉は興味深々といった様子だ。


「俺もスイルは紙で欲しいし、ていうかお小遣いもそんなにねーし、電子書籍買うのは我慢しようと思っててさー。それまで楽しみがお預けなわけですよ。なんか他に面白いもんがあるなら教えてくれよ、ねえねえねえ」

「えー、どうしようかなあ」

「なんだよ、いーじゃねえか。友達だろー」

「ふふーん」


 焦らしまくっているものの、僕は正直廉に教えてやるべきかどうか迷っていた。夢本屋。他にはどんな本があるのだろう。どんな楽しい夢が見られるのだろう。今日も絶対行くし、なんならお年玉を下ろすことになってでもバンバン本を買いまくってやろうと思っているほどだった。さほど興味がない、子供っぽい童話でさえあんなに楽しめたのである。それこそ剣士になってドラゴンと戦ったり、名探偵になってカッコよく推理したり――そういったポジションを体験できるなら、もっともっと面白いに違いない。

 言うなれば、非常に簡単でリスクのない異世界転生のようなもの。

 しかも、本は使い切りではないようだ。その気になれば何度でも物語を追体験できるだろう。正直、そんな楽しみを他の奴に教えていいものか、なんてことを思っていたのである。要するに、自分だけの趣味として独占してやりたかったのだ。


「ねえ、そこの二人。邪魔なんだけど」

「う」


 と、楽しく喋っているのに水をさすように、冷たい声がした。僕は振り向き、途端しょっぱい顔になる。眼鏡をかけた、このクラスで一番成績がいい少年――青海悠斗おうみゆうとだった。正直言って、僕が非常に苦手としている少年である。いつも済ましていてクール、愛想の欠片もない。それでいて、女子には“子供っぽくなくていい”とやたら人気がある。そりゃ、仲良しでない以上面白くなくても当然なのである。


――んだよ!もっと言い方ってもんがあるだろ、言い方ってもんが!


 確かに、彼の席のすぐ近くで騒いでいたのは事実だ(僕の席が悠斗の席の斜め後ろだからである)。だからって、いきなり邪魔、と言われたら不快に思うのは当然だ。


「べー」


 僕は何食わぬ顔で席についた彼の背中に向けて、あっかんべーをしてやった。


――ふーんだ。廉はともかく、あいつにだけは夢本屋のこと絶対教えてやんねー。


 ガキだと言いたければ言え。

 なんだかんだで、僕も小学生なのだからしょうがない。

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