第42話 お疲れさま

 ──ほんとうに麻里が帰ってきたとおもった、と。

 自身の過去を訥々と語る愛河裕子の顔は、さっきまでの狂気じみた笑みとはうってかわってひどくおだやかなものに変わっていた。彼女のなかで、もっともたのしい記憶なのかもしれない。

 しかし将臣には引っかかることがあった。

「音大の後輩である由紀子さんとは、ずいぶん親しかったそうですね」

「…………」

「かなり親密だった、と由紀子さんから聞きました。こんなガキに言うのは憚られたでしょうに、学生時代はあなたと肉体関係もあったと」

「古い話──姉妹制度で私がお世話していただけ。でもあの子は、なんだか変に私に憧れちゃって、勝手に私の言うことを聞いていた。心酔っていうのかしら。ああいう行為も、お世話とお戯れの延長だった」

 裕子はほくそ笑む。

 バイセクシュアルか──と、森谷は納得した。先ほど彼女が語った被害女性に対する行為も、旦那に不倫された反動というわけではなく、もともとそういう気質があったのだ。さらには学校という特殊な環境下での特別な間柄、戯れを越えた関係性が生まれたとしても不思議ではない。

「いつしか由紀子さんは、あなたの言葉が絶対だとおもうようになった」

「……ばかみたい」

「しかしあなたも、それを利用して由紀子さんを脅していた。史織さんのほんとうの父親について、敬士さんに口止めするのと引き換えに、史織さんをこの教室に通わせることを約束させた。それはなんのためですか? 史織さんと親子のような関係を築きつづけるため? あるいは」

「…………」


「あの方をつなぎとめるため──?」


 裕子の肩がぴくりと動く。

 その表情はかすかに強ばっている。図星だ、と沢井はおもった。

 将臣は話を変えた。

「敬士さんのことは信頼していた?」

「……由紀が『ころしてしまった』と言ってきたときは残念だった。あの人、とっても家族を大事にしていたから……」

「ともに由紀子さんへのプレゼントもえらんだそうですね」

「私がいつも使っているブティックを紹介して、ワンピースをお勧めしたわ。あの人それを買って──でも、その一週間くらいしたあとに死んじゃった」

「そのワンピースを取り上げた」

「だって」

 かわいそうじゃない、と裕子はくちびるをふるわせた。

 愛する人に尽くしたはずが、その人にころされた。

 そのプレゼントを受け取る資格などどこにもない──と、裕子は感情込めてうったえた。おそらくは自身の境遇にも重ねている。

「史織は父親がいなくなってますます殻を閉じるようになったわ。私には変わらず本音を打ち明けてくれたけれど、でも……気が付けばあの子は、いつしか竹生くんを頼りにするようになった」

 声がこわばる。

 その身がふるえる。

「竹生くんもまた、あの子を手厚く守ってやるようになった。私は、……」

 沢井には分からない。彼女がいまどのような感情のなかに在るのか。話が変わったことで幾分か顔色がましになった恭太郎は、ふいに、くるりとからだの向きを変えて鉄格子の外へと出ていった。軽快に階段を駆け上がる音が聞こえる。

 あの子は、と裕子はつづけた。

「どんどん羽ばたいていく。恋をして、年を重ねるごとにきれいになって、その若さで多くのファンも手に入れた。私があの子のころはそんなもの何もなかった。親に言われた結婚をして──好きでもない男の子どもを産んで、やっと家族になろうとおもったら棄てられた」

「…………」

「年を重ねるのが無性にこわかった。この世のすべてから置いていかれるような……史織を見るにつけ恐怖がわいた。どうしようと思ってもどうしようもない。どれだけ努力したって、抗えない。時間は平等にあるくせに、見目才能はえらばれた人間にしか与えられない。神に愛されなかった人間は──いったいどうして生きていけるの?」

 心の内を吐き出すように。

 呪文のように。

 彼女はよどみなくつぶやきつづける。

「けっきょくみんな、私になんか見向きもしない。年食った女なんか女でいる価値もない。白髪を見つけるたびに気が狂いそうだった。皺が増えるたび皮を剝がしてやろうかとおもった。年増な女は──若い子たちが恋をするのを傍から眺めるしかできないのッ。さっきだって、一目もくれずに……」

 この呪詛をだれが止められようか──。

 沢井と森谷、三國は互いに顔を見合わせ、古川はもはや沈黙し、一花はあらぬ方を向いている。その視線は鉄格子の先、上階につづく階段にあった。ふたりほど足音が降りてくる音がした。

 一拍置いたのち、将臣が言った。


「愛されたかったのですね。──岩渕さんに」


 シ、ン。

 鉄格子に囲まれた空間で、この上ない静寂が辺りを支配した。

 ワンテンポ遅れて階段にすがたをあらわしたふたつの影。恭太郎と、岩渕であった。彼は先ほど負傷した肩を押さえて、呆然とした顔をこちらに向ける。どうやら将臣のことばは届いていたらしい。

「え?」

 岩渕と裕子の視線が絡み合った。

 直後、彼女は我が身を抱いて身をよじる。

「いやっ……やめて、見ないで!」

「せ、先生」

「いやだ。いや──」

「あなたが中田聡美さんの遺体を、古川さんに命じて外に棄てさせたのも、中田さんがいつぞやのタイミングで岩渕さんと口をきいたからではないですか?」

「やめてッ。ころ、……おねがいころして。殺してェッ」

 裕子は乱れた。

 先ほどまで肌を濡らしていた血はあらかた渇き、ところどころにヒビが入って、それはもう醜い様相を呈している。警察諸氏はもちろんのこと、恭太郎も、一花も、そして岩渕も──その一糸纏わぬ哀れなすがたを前に、見つめることしかできない。

 ただ、将臣は眉をつりあげた。

「そんな簡単に死なれては困る」

 めずらしく怒っている。

 森谷がギョッと若き賢僧を見つめる。

「あなたには生きて監獄に入ってもらわなきゃ。バートリーの模倣犯ならなおさら」

「……ど、どういうことだ」

 沢井が目を見開く。

 口元をゆるめて、将臣は言った。

「バートリー伯爵夫人は、少女たちを閉じ込めていた牢獄のなかでひとり生かされたそうです。窓がふさがれて真っ暗ななか、そこに食事だけを入れられた状態で──彼女にとって最上の苦しみを与えられた」

「最上の苦しみ?」

「ただ、老いること」

 わらった彼の顔はあくどい。

「いや──ァ」

「あなたは先ほど、真嶋さんに対して『若さで多くのファンも手に入れた』と言った。彼女にファンがついた理由が若さにあると思っているのなら──あなたには一生、真嶋さんにも、岩渕さんにも届かない」


「いやだッ、いやァ! ころしてェッ。ころせえ!」


 血にまみれた頬を、彼女の涙が幾筋も洗い流してゆく。

 沢井はふたたび彼女に自身の背広をかけて、手錠をかけられた腕を引いた。裕子はがくがくと足をふるわせて慟哭する。将臣はわずかに乱れた袷をととのえて、細く長く息を吐いた。

 三國が古川を立たせて上階へ。

 つづいて恭太郎と岩渕。なおも暴れる裕子に沢井が苦戦し、森谷が手を貸そうとしたときである。ふいに森谷の腕を一花がつかんだ。

「ん?」

「ちょっとまって……」

「イッカ──」

「約束したから」

 と、森谷の返事も待たずに一花は裕子の前に躍り出た。

 なんとか裕子の腕を締めあげて歩き出そうとした矢先のこと、沢井は「コラ」と声を荒げる。しかし一花はめげずに一歩近づいた。

「麻里ちゃんから」

「…………」

 裕子は、振り乱れた髪の隙間からぎょろりと一花を見据えた。

 すぐさま森谷が一花のそばにつき、沢井は拘束の腕を強める。

「お外の花壇──チューリップの球根を植えたのおぼえてる?」

「!」

「ママぜんぜんお世話をしないからもう球根腐っちゃっているよって。だからつぎ植えるなら麻里は朝顔がいいって、言ってた」

「ま、……麻里」

「それとね、ママのつくったほうれん草のキッシュが食べたいんだって。だからいずれ作ったときに、麻里の分もよそってねって」

「あ────」

「それから、ママ。麻里を生んでくれてありがとう。そばにいてあげられなくって、ごめんねって──麻里ちゃん泣いてたよ」

「ま、麻里……まり、麻里い」

「ねエ……あんまり死んじゃった人、悲しませないで。あたしたちは生きているから自分でどうでも楽しめるけど、もう逝っちゃった人は、遺された人たちを見て一喜一憂するしかないんだから」

 ふてくされたようにつぶやいて、一花は閉口した。

 ぱちりと一度したまばたきによって彼女の瞳からぽろりと涙がひと粒。その涙を見て、つい今しがたまで殺せとわめいた哀れな殺人鬼は、喉奥から絞り出すようにひと言、

「ごめんね麻里……」

 とつぶやき、おとなしく連行された。

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