第40話 協力者

 ドラム缶の蓋をめくった森谷が、低く唸った。

 つい先刻まで息があったであろうもうひとりの女性遺体が、詰め込まれていた。膝を抱えた状態ゆえ傍から見ると分かりづらいが、腹部に裂傷があることが確認できた。そこから流れた血が、底につながるパイプ管を通って浴槽へ流れる仕組みらしい。三人目の被害者が出てしまったことへの無念と、怒りがこみ上げる。しかしそれ以上に湧き上がるのは恐怖だった。

 狂気、である。

 ぶるりと身をふるわせて、森谷はドラム缶から後ずさった。しかしその真後ろにいた恭太郎にぶつかる。

「おっと──こら。殺人現場でうろちょろすな」

「ずっと水の音がうるさかったんだ。こういう仕掛けだったのか」

「水?」

「僕の鼻がこの耳のように過剰なら、きっとあの人からたちのぼる血の臭いにも気付いたのだろうな。これだけの血だまりに身を浸していたのなら──」

 と、恭太郎は血だまりの浴槽をまじまじと覗き見ている。

 まったくどういう神経をしているんだか。いや、それを言うなら愛河裕子に対してこそふさわしいのだ。血を集めて溜めるなんて、およそ常人が考えるような所業ではない。

 三國がこの場にいたら目を輝かせて現場検証をすることだろう。

 手錠をかけられてうなだれた裕子は、いまだ捕獲してからひと言も声を発さない。事情は取調室で聞くにせよ、聞きたいことは山ほどある。応援が来るまでのあいだにすこしでも聞き出しておくべきだろう。

 森谷は裕子のそばに膝をついた。

「愛河さん、どうしてこないなことを」

「…………」

「ドラム缶のなかに女の子がおった。被害者はこれで三人、みんなアンタがこうやってころして、血ィを搾り取ったんやな?」

「…………」

「女の子たちはどうやって集めたん?」

「…………」

「…………」

 だめだ。

 らちが明かない──と森谷が天を仰ぐ。するととなりに袈裟姿の将臣がやってきた。新大学生というに、この衣装を着ると一気に大人びる。将臣は袈裟がよごれるのも厭わずに床へ膝をついた。

「儀式の効果は如何程ですか」

「…………」

 ゆらりと裕子の首が上を向く。

 将臣と目が合った。

「かの女吸血鬼バートリーの若返り儀式を、よもや現代日本で見ることになろうとは思いませんでしたよ」

「あ、は。ふ、ふふ……」

「処女のみなさんに、美の源として協力いただいた儀式ですから、さぞその労力に見合った結果は得られたのでしょうね」

「見て分からない?」

 裕子はうっそりわらう。

 そのまま、先ほど沢井が肩にかけた背広をぱさりと落とし、自身の裸体を見せつけた。これが薄暗いベッドルームだったならば、受け取る印象も大いにちがうのに──と森谷は内心で落ち込む。現実は鉄格子に囲まれた牢屋であり、さらにはその素肌すら血液にまみれているのだから。

 しかし将臣は彼女が見せつけるからだへは一瞥もくれずに、裕子の顔にむかってにっこりとほほ笑んだ。

「そうですね。初対面のときは、ずいぶんお若い方だなあとおもいました」

「そうでしょ。あはは! そう、そうなの! そ」

「若く有りたかった? なぜ?」


「若い女に旦那をとられたんだ」


 恭太郎。

 裕子の背後から口を挟んだ。これまで淡い微笑みを絶やさなかった裕子の顔が一気に無表情へと変わる。しかしこの無神経な男はかまわずつづけた。

「ああ、先生の教え子だったのか。肌がきれいだのみずみずしいだのと若い女に睦言ささやいて──女房には言うに事欠いて『子どもを産んだ女は女に見えない』ときた。ずいぶん人格の削れた男と結婚したのですねエ」

「は。あ────ァ」

「なるほど、そこから若さに執着を……しかしずいぶん時間が空きましたね。娘さんを亡くされたのは十五年前。それ以前に離婚は成立なさっていると聞いています。しかし儀式をおこなったのはここ数か月の話でしょう? きっかけが、あったのですか」

「…………」

 もはや抜け殻だった。将臣の質問に答える気力もないらしい。が、その胸の内では彼女なりに多くのことがせめぎ合っているようで、それらを聞き届けた恭太郎が代わりに口をひらく。

「娘の血」

「…………」

「あのとき、このヒト自分で脚立をたおした。娘はそのせいで落ちて死んだんだ」

「ちがうッ」

 裕子はバッと顔をあげた。

 充血した目玉をむき出しに、恭太郎をにらみつける。乾いた血によってカピカピに固まった髪を振り乱す彼女の顔は血みどろなのも相まってまさしく赤鬼のよう。が、恭太郎の目はそんなもの映さない。

「ころすつもりはなかった? でもたおしたんだろう。頭から落っこちた。その拍子に頭を金属にひっかけて皮がめくれたのか。血が舞って、……頬に浴びた」

 言うにつけ、彼の顔は嫌悪にゆがむ。

 将臣がつづける。

「その部分が、若返ったのですか?」

「……あ。ァそう。そうよ。そう! 艶が出て──皺もなくなって!」

「…………」

 哀れというべきか。

 森谷はもはや口を挟む気力もない。『若さに執着』と将臣はまとめたが、これが単なる執着で片づけられようか。老いに恐怖したとして、ここまでの大舞台をあつらえてさらには若い娘たちをかどわかすという奇行に走るなど正気の沙汰ではない。これではまことに、中世ヨーロッパに生きた女吸血鬼の再来だ。

 若き僧侶見習いは長いまつげを伏せた。

「エリザベート・バートリーのことはどこで?」

「…………」

 裕子の目が泳ぐ。

 思い出しているのか、あるいは考えているのか。答えに待ちきれず恭太郎が吐き捨てた。

「心のお医者。半年前、待合室の風聞で耳にした」

「心の」

「娘を亡くしてからそういう医者にかかっていたんだと」

 もはや、だれとだれが会話しているのかも分からない。

 森谷に出来ることは、この会話を一部始終聞き届けることだけだった。将臣はつづける。

「半年で、何人分の血を浴びたんですか」

「…………」

「──五人、いや六人? ……もっとかな」

(なに⁉)

 森谷の腰が浮いた。

 これまで発見された被害者は二名、先ほどドラム缶のなかにいた新たな被害者をくわえても把握できた人数は三名だ。視線を地下牢全体へと流す。奥の暗がりではさっきから妙にしずかな沢井が身を屈めてなにかしていた。

 こちらの話を遮りたくはない。足音を忍ばせて、沢井の方へ一歩踏み出した森谷はすぐに立ち止まった。ちょうど沢井がこちらに来るところだったからである。白手袋がはめられた右手には、血濡れのラジカセが下がっている。

「……龍クン。なんやそれどこにあった」

「鉄格子の裏。いっしょに干からびた遺体が三体ころがってたぜ」

「三体──ろ、六人や!」

 おもわず若き僧侶に目を向ける。

 将臣は険しい顔のまま、なおも裕子へ問いかけた。

「うかつでしたね。なぜふたりを外に棄てたのです? ここに放置しておけば、いましばらくは見つかることなく美容のお手入れが出来たでしょうに」

「臭かったのよ。……腐ってくるんだもの」

「くさ、」

 おもわず声をあげた森谷を手で制し、沢井がこの会話に参加した。

「だが三人はそこに居る。どうしてあとのふたりだけ外に棄てた? 中田聡美と佐々木茜だ。知らねえとは言わせねえぞ」

「中田──ああ、あの家出していた子。あの子はだって……」

 言いかけて口ごもる。

 一同の視線は自然と恭太郎へと向けられた。彼の顔は、これまでにないほど嫌悪に満ち満ちている。きっとこの場にいるだれよりも、この女に対しての解像度は高く、それゆえ嫌悪も強いことだろう。つくづく酷な体質だ、と森谷は同情した。

 理解しきれぬ表情で、恭太郎はつぶやいた。


「口を、きいたからだそうだ」


「なに?」

「僕に──この女はわからない」

 とうとう恭太郎がさじを投げた。

 一歩、二歩と後ずさり、それからいっさい口をつぐんでしまった。しかし将臣はつづける。

「では、あのコンサートホールに落ちて来たのは?」

「あれは私じゃないわ」

 暗澹たる瞳の奥がギラリと光る。

 ギリリ、と噛みしめられた彼女の下唇から血が垂れる。もはや血みどろの顔ゆえ、その血はすぐに混ざってしまう。

「裏切ったのよ。やっぱり男なんか、信じるものじゃない。男なんか──」

「男?」

 と、森谷が聞き返したときだった。


「お待たせしました、ご要望の方ァお連れしやしたぜ」


 地下牢内に聞きなれた声が響いた。

 三國貴峰。──そのとなりには一花と、後ろ手に手錠をかけられた古川がうつむきがちに立っている。

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