第39話 血濡れの浴場

 恭太郎はわき目もふらずに進む。

 時折足を止め、首をかしげ、音に集中する。背後の将臣からはかすかな息遣いと袈裟が擦れる音しか聞こえない。恭太郎の集中を途切れさせぬよう、細心の注意を払っている。

 恭太郎には確信があった。

 あの女は確実にやっている。その屠殺場を探り当てるべくトイレにゆくと偽って中に入ったはいいが、如何せん手がかりとなる音が拾えない。将臣は、防音加工されている可能性が高いと言っていた。とはいえどこかに人がいれば、この耳が音を拾いそうなものだが。

 一階はあらかた探り終えた。あとは二階だが、そっちはおそらく愛河裕子のプライベートスペース。ほかの音を排除して上に集中してみても、人の気配はない。

 手当たり次第に扉を開いたってしようがない。おそらくは、容易に行けるわけもない。もしかするともう生きた人間はいないのかも────。

 猪突猛進に突き進んだ恭太郎の足が、ぴたりと止まった。

「将臣」

「ん?」

 将臣も止まっている。

 恭太郎がいまいちど、ドン、と地団駄をひとつ踏んだ。苛立ちからくるものではない。そのまま床に這いつくばった。

 耳の奥がざわついた。空洞だ。音がする。

 となりの将臣も、恭太郎のとなりに膝をつく。

「地下か」

「──前に僕があの旋律を聞いたのはどこだった?」

「レッスン室。……レッスン室?」

 将臣の顔がサッと蒼くなる。

 床にうつぶせた恭太郎が、背筋を使っていきおい良く跳ね起きた。将臣もゆっくりと立ち上がる。

「しまったな。真嶋さんがあぶない」

「大丈夫、あの女に彼女はころせない」

 踵を返す。

 レッスン室の場所はおぼえている。はぐれないよう、将臣の手をしっかと掴み、恭太郎は競歩の速度で一直線に目的地へ向かった。そのとき、家のなかにインターホンが鳴る。

「警察か」

「イワさんを置いてきて正解だったな。イッカの言語野は壊滅的だ」

 恭太郎はせせらわらった。

 インターホンはなおも鳴りつづけている。おそらくここの家主に、出るつもりはないだろう。恭太郎は駆け出した。迷わず左に曲がって玄関への廊下を突っ走る。いつの間にか将臣はいない。ヤツは、走ることと歌うことが大嫌いなのである。

 恭太郎はドアに飛び付くように開け放った。

 目の前には沢井ら警察諸氏と、うしろに岩渕、一花がいる。恭太郎はすぐに踵を返して駆け出した。

 オイコラ、と沢井の怒声が聞こえる。

「恭!」

「場所はわかってるッ。はやく!」

「チッ」

 雪崩のごとく刑事が駆け入る。

 レッスン室は深紅の絨毯がめくれてぽっかりと穴を見せていた。地下階段への入口である。脇には膝をついて中を覗く将臣がいる。足音を荒立てて沢井が懐中電灯で階段を照らした。

 うわッ、と一花が小さく叫ぶ。常人には見えぬものがたくさんいるのかもしれない。将臣は一花を止めた。

「一花は三國さんを待っていろ。協力者を連れてきたら、この下へ誘導してくれ」

「あいあいさーッ」


 沢井が先頭にたち、階段を降りる。

 つづいて森谷、恭太郎、将臣、三橋、岩渕。案外と中は広い。

 階段を下りた先に扉があった。恭太郎がいきおいよく開け放つと、目の前には壁と並行にそびえる鉄格子。内外をつなぐ鉄扉には、ついいましがた外されたらしいちいさな錠前がひっかけられている。

 臭いもひどい。

 奥から漂いくるソレは警察諸氏がよく知るものである。臭いの元はもしかしなくとも部屋中央に鎮座する猫足浴槽。浴槽からはパイプ管が伸びてドラム缶の底につながる。ドラム缶には蓋がされているが、ガワのそこここに赤黒いものがこびりついており、中身を容易に想起させた。

「ヴッ」

 臭いに慣れぬ岩渕はおおきな手のひらで口を覆う。

 浴槽のなかには赤黒い液体が、底から数センチほど溜まっている。


 薄暗い部屋のなか、浴槽の周りに青白い塊が浮かび上がった。沢井が懐中電灯で照らすと、その塊が裸体の女たちであることに気づいた。

 すぐさま森谷が鉄扉に手をかける。直後、


「さわるなッ」


 はげしい怒声が飛んだ。

 森谷の動きが止まった。ワンワンと反響する音が鎮まるのを待つあいだに、沢井は懐中電灯で鉄格子の奥をひととおり照らす。裸体でころがる女はおそらく四人。その奥、さらに暗がりにうごめく影を捉えた。

 声の主であろう。

「……愛河、先生」

 岩渕の声がふるえた。

 明かりが裕子を照らし出す。そのすがたに、一同が絶句した。

 赤鬼がいる。

 真っ赤なワンピースをまとっているのか、いや、彼女は全裸だった。しかしそのからだは人の体表面はおよそ似つかわしくない色で染まっているのである。とにかく、赤い。顔も肩も胸も腹も──ぜんぶ。

 それだけではない。彼女の腕のなかでぐったりと身を横たえる女がいる。こちらも同様に着衣はなく、しかし裕子とは対照的に青白い裸体がぼんやりと闇のなかに浮かぶ。が、岩渕がその顔を見た瞬間、さけんだ。

「史織ッ」

 声が反響する。

 躊躇なく、岩渕が鉄扉を蹴り飛ばした。ガシャアンと大きくふっ飛んだ鉄扉はものすごい音を立てて牢屋のなかをすべってゆく。そのまま勇み足で入ろうとした岩渕に、ふたたび裕子がさけんだ。

「男は動かないで!!」

「史織ーッ」

 かまわず中へ入ろうとした岩渕を、三橋が止めた。

 愛河裕子の方を顎でしゃくる。腕のなかの史織を抱きしめながら、その右手には小型ナイフが握られている。これ以上彼女を刺激すると人質となっている史織の身があぶない。

 三橋からの無言の牽制をうけ、岩渕は下唇を噛みしめた。

 代わりに鉄扉をくぐったのは三橋だった。

「ではわたしが失礼します。愛河さん」

「…………」

「女ですから構いませんね?」

「あなたは、私が求めているものじゃない──」

「貴女が求めているのは処女の血ですか? なら」

 三橋は背広を脱ぎ捨ててワイシャツの袖をまくる。

 それから、足元にころがっていた鉄扉の残骸を手に取り、自身の手首に押し当てた。

「一児の母であるわたしの血を浴槽に混入させたら、貴女はどうなるんでしょう」

「やめてッ。ダメよ!」

 裕子が身を乗り出す。

 その拍子にナイフは史織の首もとからはずれ、膝上から史織がわずかにこぼれた。岩渕はその瞬間を見逃さなかった。大柄な身体を鉄格子のなかに押し入れて猛然と駆ける。裕子がふたたびナイフを構える間もなく岩渕は史織を奪還。その手中に掻き抱く。

 血にまみれた裕子の表情がみるみるうちに歪んだ。まるで泣きそうな子どものように。

 将臣がさけぶ。

「岩渕さん、あぶない!」

「!」

 背中を丸めて史織を守る体勢に入った岩渕の肩に、裕子のナイフが突き立てられた。すかさず三橋がその手を取り、床に抑えつける。血濡れのからだを押さえたために、真っ白だった三橋のワイシャツがみるみるうちに真っ赤に染まってゆく。一見すると三橋の右半身が重傷を負ったよう。

 しかし傷を負ったのは三橋ではなく岩渕だった。

 彼は突き立ったナイフをそのままに、史織を姫抱っこしてゆらりと歩き出す。あわてて森谷が史織を受け取ろうと駆け寄るが、彼はそれを拒否して、自身の手で鉄格子の入口までもどってきた。

 見届けた沢井が、すぐさま三橋の援護に入る。

 が、裕子は意外にも無抵抗であった。床に抑えつけられたままぴくりともうごかない。

「愛河裕子、十六時十分──傷害で逮捕」

 三橋が手錠をかける。

 沢井はホッ、と息を吐いてから三橋を立たせた。ついでに手首に傷がないかも確認する。

「どえれえ恰好だな」

「おろしたてのワイシャツだったのに、散々です」

 憎々しげに裕子を見下ろした。

 彼女は、呆けている。無線で応援を飛ばした沢井は、自身の背広を彼女の肩にかけてあらためて牢屋内を見回した。とにかく血の匂いがきつすぎる。取り急ぎは意識不明の女性四人の保護からか──と浴槽の周囲を見るも、そのすがたはどこにもない。どうやら森谷が主導して恭太郎たちに手伝ってもらったようだ。

 岩渕と史織もいないところを見ると、上のレッスン室へ連れて行ったらしい。

 想像どおり、階段から森谷を先頭に将臣と恭太郎が降りて来た。

「女の子たちはみんな無事やったで。救急呼んださかい、それまで上の部屋に寝かしとる。一花もいてるしな」

「岩渕さんは」

「彼も肩を負傷したんで、史織ちゃんのそばで待ってもろてる。ちゅうか、離れようとせんもんで仕方なく」

「そうか」

「それならわたし、被害者たちのそばについてます。一花ちゃんだけに任せるわけにもいかないですから」

 三橋は背広を片手に、血濡れのかっこうのまま軽快に階段を駆け上がっていった。

 ──残るは検分である。

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