第38話 堂々たる潜入
愛河邸の敷地を見るかぎり、来客はない。
幸いに、岩渕が運転する車は警察諸氏よりもはやく到着したようだ。敷地からすこし離れたところに停車させ、恭太郎と将臣、真嶋史織の三人が降車する。
車中で交わされた作戦は次のとおり。
まずは、午後四時からの通常レッスンを受けるために来た史織と、その練習風景を野次馬しに来た将臣と恭太郎──という設定である。レッスンのあいだにどうにかして愛河邸内を探る、という目的を、最低限の着地に据えた。無論、相手の反応如何によって応変するていどの作戦ではあるが。
着替える時間を惜しみ、黒衣の袈裟のまま降車した将臣にむけて史織が不安げな顔を見せる。
「あの……やっぱりお着替えした方が」
「いや。むしろ好都合かもしれない」
「は、はあ……」
「さあ行きましょう真嶋さん。あの人はもう、玄関の前でいまかいまかと待ちかねているようだ」
恭太郎は挑戦的である。
史織は、ふるえる指でインターホンを押した。恭太郎の見透しは正しい。音が鳴り終わるか否かのところで扉が開く。覗いた顔はとうぜんながら愛河裕子である。前回と同様に小花柄のワンピースを着用し、その目元はけばけばしくつけまつげが躍る。
「いらっしゃい、史織。どうぞ入っ────」
視線が止まった。背後に立つ恭太郎と将臣に、である。
その瞬間にっこり持ち上がった頬肉はスンと下がって、能面のごとき無表情で男ふたりを見据えた。その表情差分に背筋を冷やした史織がわずかに一歩、下がる。その肩を受け止めて、恭太郎はいやに大きな声で言った。
「やあ、すみません。また来てしまいました!」
「……史織。どういうこと?」
「あ──あの」
不機嫌だ。想像以上に。
すると将臣が大仰に肩をすくめた。
「家の用事で外に出ていた帰り、真嶋さんと行き会いまして。ピアノのレッスンに行くというのでここまでお送りしたんです。ほら、コンサート会場ではあんな、悪質ないたずらもありましたし」
史織はあれっという顔をした。たしか、前段の作戦ではレッスンについてきたという設定にしたはずだが。しかし恭太郎は大げさにうなずき、
「近ごろ物騒ですから」
微笑んでみせる。
裕子は、警戒心をわずかに解いたか。史織を見てふたたび口角をあげる。蜘蛛の足のようなつけまつげが瞳を隠した。笑んでいる、らしい。それにしても今日はひと際化粧が派手である。
「そう、ご苦労様でした。それじゃあ」
「──あっ。すみません愛河先生」
将臣がいやにあわてて呼び止めた。
「お手洗いだけお借りしてもよろしいですか?」
「…………」
あからさまに面倒くさそうな顔で一瞬宙を見上げた裕子だが、将臣の全身をざっと眺めるとようやく、
「ええ、どうぞ」
と踵を返した。
それから廊下の奥を指さす。
「この廊下を行って右に曲がった先の突き当たり。右手に扉がありますから」
「ありがとうございます。それじゃあ真嶋さん、おれたちはこれで」
「え、あ──」
不安げにさまよう手。
かまわず一歩踏み出す将臣の肩をがちりと掴んで、恭太郎が大きく言った。
「ばかめ。お前どうせ帰り道わからなくなるだろ。僕もいっしょに行く」
言ってから、史織と裕子に「こいつドが付くほどの方向音痴なのです」と説明する。
「大丈夫だよ」
「僕の家でもトイレの帰り道を迷って、最終的に地下のワイン貯蔵庫にいたのを忘れたか。僕は一生わすれない。だからいっしょに行く。僕らはトイレから出たらそのまま帰りますから、どうぞお気遣いなく。真嶋さんはレッスンがんばってください」
恭太郎はさわやかにわらって、革靴を脱ぎ、先陣を切った。
ちがう。聞いていた作戦とちがう。ぽつりと取り残された史織はゆっくりと裕子を見た。彼女はまっすぐこちらを見つめている。瞳の昏さに、ぞっとした。──もしかしなくてもようすがおかしい。
行きましょう、と。
背に手を添えられた瞬間、史織は自身の終わりをも覚悟した。
※
ほんとうに大丈夫ですか、と。
愛河邸のようすを探るため運転席の窓を開けて身を乗り出す岩渕が、問う。相手は助手席に移った一花である。いっしょについていくと言ったが、恭太郎から「たくさんいるだろうから」という理由で同行拒否された。そんなもんで一花は機嫌がわるい。
「なにがア」
「……真嶋とおふたり、別行動になってしまったようで」
「将臣の仕切りだからいーんじゃないの。あたしを置き去りにして、これで大丈夫じゃなかったらあいつらお尻百叩きの刑よ!」
「そう、ですか」
とはいえ、一花がここに残ったのにはほかにも理由がある。
まもなくやってくるであろう沢井たちをみちびくためだ。この通りで待ち伏せれば、かならず分かる。突入前に警察へ情報提供をする役目なのである。
一花がぼうっと通りを眺める。
時折ふっと視線を一点に集中させることがある。彼女の目にはいま、何が映っているのか──と岩渕は手持無沙汰ゆえハンドルにもたれた。
「イワさんってさあ。……」
いつの間にか一花の視線は岩渕に向けられている。
岩渕はハンドルから身を起こす。
「はい」
「
「…………」
「でも困ったときしかそばにいないのはよくないよ。あの古川ってヤツ、まんまとチョーシづいてるじゃん」
「……古川さん」
「そうよ。しいちゃんが困ったときだけじゃなくって、嬉しいときもたのしいときも、イワさんがそばにいてあげたらいいのに」
一花はぷう、と無意味に頬をふくらませた。
そばにも何も──と、岩渕は困惑した。元来の口下手も相まってなんと返すべきか考える。しかし一花は岩渕の返答を待たずにつづける。
「だってもう親公認だよ。しいちゃんのオトンがタケオくんよろしくって言ってたもん」
「……え⁉」
「死人の言葉ってなかなかメーワクよねエ。重いもんね、イロイロ」
「い、いまは?」
「しいちゃんのオトンはいないよ。代わりに、女の子はいるけど」
岩渕には見えない。
いずれにしろこの世のものでない存在は依然として近くにいるらしい。特別苦手なわけではないが、得体の知れぬ存在というものへの畏怖はぬぐえない。
そばを車が通った。助手席の一花がアッと窓にべったりと頬をつける。
「来たきた」
「警察」
「そうっ」
言うなり一花は車を飛び出して、愛河邸内へ入ろうとするセダンに駆け寄った。おもわず岩渕も車から降りてそばに寄る。遠慮もなしにバンバンと後部座席窓を叩く一花におどろき、動きを止めた車。ほどなく降下した窓から森谷が顔を出した。
「あぶないやろがい!」
「まってまって。車、停めてもいいけどまだ入んないで」
「んあ?」
「まだ待って。あたしの話聞いてから!」
「…………龍クン」
森谷は顔をひっこめてとなりを見た。沢井がおもむろにドアを開けて降車する。龍さん、と表情が華やぐ一花を一瞥するなり、その頭に拳骨をひとつ。
「あだァッ」
「あぶねえから走ってる車に触るんじゃねえ!」
「だって……」
「で、なんだって。あとのふたりはどうした」
「だから、いま中に入ってる」
「はあ?」
「恭ちゃんの耳で探してるの。将臣がトイレってゆって」
「…………」
沢井の顔が極限にしかめられた。運転席の三橋がぐっと顔を出す。
「つまりアンタたちだけで乗り込んじゃった、ってこと⁉」
「そうともいう」
森谷さァん、と三橋が情けない声で後部座席を見た。
「おたくの子たちどうなっちゃってんですかァ!」
「オレの子ちゃうわ! ほんで、中にはほかにだれがおんねん」
「しいちゃんと愛河センセー。でももっといるかもしれないから、それを恭ちゃんが探すために中入ったのよ。もうひとりは? 連れて来てないの?」
「そっちは三國に任しとる」
と、森谷も向こうのドアから降車する。
頭を掻きむしりながらルーフ越しに沢井へ苦笑を向けた。
「任意同行でしょっ引こ思たけど、ワンチャン現逮にかけられそうやで」
「ガキの仕切りに頼るってか。気に入らねえな──で、話ってのは?」
「あのセンセ、マイルドコントしてたらしくって。しいちゃんのオカンもそれの当事者になっててねーっ。しいちゃんのオトンを殺したことで脅されちゃって、しいちゃんが人質、みたいな」
「…………」
あまりの不出来な説明に三橋は絶句。
沢井も自嘲まじりにつぶやいた。
「さすがの将臣も焦ってるみてえだな。よりにもよって説明係にイッカを残すとは」
が、すかさず岩渕がフォローをいれる。
「端的にいうと愛河先生は、真嶋史織に執着している。──真嶋が、あぶない」
「……よくわかった」
沢井が駆けだす。つづいて森谷。
あわてて三橋も降車し、あとを追った。最後に岩渕がつづく。行きかけて足を止めた。一花が花壇の辺りを注視したままうごかない。その目に映るは本人のみぞ知り、岩渕にはなにを見ているのか見当もつかぬ。
──おねがい。
──ママに伝えて。
声の主は花壇の横にぼうっと立っている。一花の胸に流れこむ彼女の想い。
逆縁した娘が遺した母を想う、突き刺すほどの愛情をうけた一花は、顎を引くようにうなずいた。
古賀さん、と岩渕が問いかける。
「分かったよ。ちゃんと伝える」
「…………」
「行きましょ。最後だ」
一花に迷いはない。
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