第六夜

第37話 親子の愛

 いつにないスピードでワゴン車が走る。

 助手席には史織が座った。止めたが、ともに行くといってきかなかった。後部座席に座る三人はだれひとり口を開かず、各々が物思いにふけている。妙な緊張感に、ハンドルを握る岩渕の手のひらが汗ばんだ。

 ふしぎな人たちだ、と岩渕はおもう。

 端から聞けば終始脈絡のない話だった。行きの車に乗ったときから、一花はとつぜん八年前の出来事を見てきたように言う。恭太郎はとつぜん相手の心情を要所々々に言い当てる。将臣は、それらつながりの見えぬ点と点を、線で結んだ話をする──。

「母の」

 ふいに沈黙は破られた。

 助手席の史織だった。彼女は先ほどまでの修羅場を越えてか、声色も表情も落ち着いている。いや、その瞳はわずかに虚ろか。

「あんなすがたは初めて見ました。愛河先生とは仲が良くて、先生をわるく言う母なんて見たことなかった。子どもながらによく慕っているなとおもって──でも。私は……なにも知らなかったんですね」

「由紀子さんはあなたを守りたかった。だから知られまいと溜め込んでいたんでしょう。……あなたが知らなかったなら、由紀子さんはあなたを守れていたということだ」

「でも──わ、私だってもう子どもじゃない。私を信じて、教えてくれたって」

「そうなったとしてもあなたは、聞こうとしなかったでしょうに」

 と、将臣が返した。

 びくりと史織の肩が揺れる。乾燥したくちびるが音を出さずにわなないた。岩渕がバックミラー越しに右端の将臣を見ると、彼はことばとは対照的におだやかな顔であった。

「あなたを責めているんじゃないんです。ただ、現実的にあなたたち母娘関係は半ば破綻していた。だからこそ、そこにつけこまれたのでしょうしね」

「…………」

「仕方ない。いくら自分が大人になったとおもったって、親からしたら、我が子というのはたとえ五十歳でも子どもだそうですから。……子の立場のおれが言うのもなんですけれど」

 といって、将臣ははにかんだ。

 後部座席まんなかに座る恭太郎が「何歳だオマエ」と、腕組みをしてふんぞり返った。

 ずっと静かなのは、反対端に座る一花である。素の顔がわらっているように見える彼女は、いまもぼうっと微笑みながら車窓を覗く。バックミラー越し、何の気なしにその目もとを見た岩渕の胸がぎくりと跳ねた。

 瞳に光る粒がある。

 おまけに、首は何度かうなずいている。まばたきの拍子にその瞳からポロポロッと涙がこぼれたが、彼女は拭いもせず、相づちを打つように再度うなずいた。

 となりの恭太郎は、なにを聞いたのだろうか。

 彼女を見もせずあやすように肩を抱く。一花はやがて声も出さずしずかに泣き出した。

 じわり、と。

 額に汗が滲む。岩渕はこういうとき、どうしたらよいのかわからない。事に気づいた史織も動揺し、ラジオをつけるべくセンタークラスターへ指を伸ばしたときだった。

「しいちゃん」

「!」

 一花の呼び掛けに、史織の手が止まる。

 頬に涙の跡を残した一花が身をのり出した。つられて助手席から出した史織の頸を、柔く抱きしめる。頬にさわる一花の睫毛がこそばゆい。

「い、イッカちゃ」

「お父さんね」

「えっ」

「あの日からずっとのそばにいたって。そばで見てたんだって。高校生の頃、よく旧校舎に忍び込んでピアノを弾いてたのも、寂しかったからなの知ってるよって。いつもお父さんどこにいるのって弾きながら泣いてて、でもその時もずっと、しいのとなりでピアノ聴いてたの」

「…………!」

「上手になったね、ここにいるよ、聴いてるよって……抱きしめてあげられないのがすっごくもどかしかったんだって。こんなに早くお別れするとおもってなかったから、だから、寂しい思いをさせてしまってごめんね、って──言ってる」

 一花の閉じた目尻から、またぽろりと涙が一筋。それは彼女の頬を伝って史織の頬をも濡らした。

 が、その頬はすでに濡れている。

 感情が吹き出すように、史織は一花からの一方的な語らいを聞きながら、嗚咽を漏らした。

 一花はゆっくりと身体を離す。

 しかしその両手は史織の頬に添えられ、双眸はしっかりと史織の瞳を見据えていた。

「お母さんのことは──恨まないでほしいんだって。あれは事故だった。いろんなボタンをかけ違えて、お互いに行き違っちゃっただけで、……お母さんがお父さんのことちゃんと愛していたことも、お父さんは知っているからって」

「……、…………ッ」

「お母さんのこと、赦してあげられる?」

 って聞いてるよ、と。

 一花は史織の額にコツンと額をつけた。涙や鼻水でぐずぐずになった史織が、苦悶の表情を浮かべてのち、かすかにうなずいた。

「──じ、時間は、かかるかもしれないけど……がんばる」

「…………。ありがとうだって」

 史織の顔から手を離す。

 しかしこんどは史織がその手を掴んだ。縋る目つきで、一花の手をぎゅうと握り、

「おとうさんっ……いか、行かないで……」

 と、なんとか声をしぼりだす。

 一花はちらと視線を斜め上に向けて、しばしの無言ののち、にっこりわらった。

「だいじょうぶよ。お父さん、またちゃんやお母さんのこと覗きに来るって。いつでもちゃんと見守ってるって、わらってるよ」

「…………」

「アッハ。あと、秋になったら熟れた柿は忘れずにってさ! そんなに好きだったの?」

「え。あ、あは。アハハ……」

 史織は破顔した。

 思い当たることがあって、何度もうなずく。それから何度も何度も一花に対して「ありがとう」と言った。

 奇跡を見た──と、岩渕はおもった。

 これほど晴れやかな彼女の顔を、ついぞ見たことがあっただろうか。母親とのわだかまりも父との別れも、何もかも赦し、受け入れて、いま彼女はかつてないほどの勇気に包まれていることだろう。

 感慨深く。視界が滲む。

 運転に支障をきたす、とあわててぬぐうと、背後から将臣が車窓を覗く顔をそのままに、つぶやいた。

「親子というのは──死んで、身体を失くしても、その想いは変わらないものなんだな」

「…………?」

「それなら子から親へもきっと──結局、願うはおなじなのだろうなあ」

 生きてても死んでても。

 見えても見えなくても。


(愛は、おなじ──)


 岩渕の鼻奥がふたたびツンとした。


 ※

 痛ッ。

 郵便物の整理をしていたら指を切った。人差し指の腹に赤い筋がぷっくり浮かび、赤い滴が溢れ出る。ジクジクと脈打つ感覚。やがて滴は指を伝って床へ落ちた。

 双眸は虚ろに一部始終を見届ける。

 血が月丘に。

 血が。

 血。

 だめだ。これはちがう。

 この血は求めていない。

 近ごろ周りが騒がしい。マリオネットのあの娘はいつからか糸が切れてしまった。また結び直すか……あるいはもう潮時なのかもしれぬ。ならばいまさら、誤魔化す必要もあるまいか。

 ボーン。

 ボーン。

 柱時計が鳴る。

 あと十分もすれば今日もあの娘がやってくる。


「♪────────♪」


 音楽を準備しよう。

 あの娘を迎える前奏曲プレリュードを。

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