第35話 助けてください
マインドコントロールはご存じですか──と言ったのは、少し前、一花から呼び出された岩渕だった。真嶋家へ史織と向かうと聞くや仕事の時間もずらして駆けつけたのである。彼は電話で言われたとおり自前のワゴン車で浅利家へとやってきた。
真嶋家へむかう途中、後部座席では一花と史織、恭太郎がみな頭を寄せてうたた寝している。運転手である岩渕はバックミラー越しに史織が寝たことを確認してから、先ほどのことばを発言した。
助手席に座る将臣がきらりと目を光らせる。
「マインドコントロール」
「はあ。浅利さんはご年齢にそぐわず賢くておられるから、ご存じかと」
「もちろん。最近じゃニュースでも聞きますしね。なかなかセンシティブな話題ですが、それがどうかしたんですか?」
「……マインドコントロールというのはやはり自分では気づけないものかな」
「そもそもマインドコントロールというのは、自己啓発系のトレーニング法としてポジティブなものだったんですよ。現代じゃすっかり詐術的なものを指すことばになっちまいましたが──岩渕さんがおっしゃるのはもちろん、後者の方ですよね。なにかお心当たりのある方でも?」
岩渕は口をつぐむ。
その視線がちらりと一瞬バックミラーに向けられたのを、将臣は見逃さなかった。
「……助けて、あげられるものでしょうか」
「脱却することならもちろん可能ですよ。コントロールされている人も、している人も、人間の意識はいつだって変容していますから」
「…………」
「ただそこから脱却するには、岩渕さんのように手を差し伸べてくれる第三者の存在は欠かせませんがね」
将臣の口角があがる。
ハンドルを握る岩渕の手に、力がこもった。
「……こんなこと、年下の貴方にお願いするのはおかしいかもしれない。でも……貴方がたなら信用できる。お願いします」
この母娘を、助けてやってください。
いつもは崩れぬ岩のような顔をくしゃりとゆがめて、岩渕はつぶやいた。
────。
──。
由紀子は手鏡を見つめながら、自身の半生を語った。
もともとピアノ教室で講師として勤めていた由紀子のもとに、生徒として通っていたのが当時高校生の向井伸二だったという。伸二は出会ったときから由紀子に惚れていたそうだが、由紀子は当時二十代後半。ピアニストの夢を諦めたばかりの彼女は、見合い結婚の話を前向きに推し進めていた。
結婚を知った伸二が迫り、そのまぶしい若さと熱量に根負けした由紀子はたった一夜だけの関係を持つ。その後は寿退社によって伸二とは会うこともなく、由紀子自身も生まれた史織が夫の子だと信じて疑わず──。
が、二人目を望んだ敬士だが一向に出来る気配がない。
検査を受けると、敬士が先天性無精子症であることが発覚。結果を聞きにきた由紀子だけがその事実を知ることになる。悩んだ末、事実は伝えずに彼へは後天性の無精子症だと嘘をついた。
「いまさら治療にお金をかけるより、史織をたいせつにしよう」
と言いくるめて。
それからは、自身の不貞の事実を胸に抱えながらの生活となった。自然と史織に対してはうしろめたさから強く当たり、敬士に対してはほかの女と不貞をしているのではと勘繰る毎日。
このままでは史織がピアノをきらいになってしまうと危惧した由紀子は、音大時代に先輩であった愛河裕子を頼り、小学生だった史織を任せることにする。
それ以降、真嶋家は愛河裕子と家族ぐるみで付き合うようになった──。
「でもある時から……夫が、やたらと史織のお迎えに行きたがるようになったんです。これまではピアノに関することはぜんぶ私に任せきりだったのに、どうしたんだろう──とおもって。それで夫が休日に外出するところについて行ったら、」
といって、由紀子はふたたび瞳から涙をこぼす。
そのまま胸を詰まらせてことばが出ない由紀子に代わり、声を聞いたか恭太郎があとをつないだ。
「愛河先生といっしょにいるところを見てしまった」
「……ブティックに入ったのを見て、そういう関係なんだとおもったら、その瞬間からなんだか、裕子さんへの信頼感もなくなって、居てもたってもいられなくて──」
これが事件の一週間前。
このときに芽生えた些細な殺意が、その一週間後、かつての情夫と再会したところで勘違いに勘違いが重なった挙句、とうとう発露してしまったのである。将臣はうなずいた。
「敬士さんは、部屋で話すおふたりの話を聞いて、おふたりが長年不倫関係にあったと勘違いしてしまった。でも由紀子さんもそのとき、敬士さんが不貞を働いていると勘違いしていたため、怒った敬士さんに怒りが沸いた──どの口が、ってな感じでしょうか。向井さんの目的はもともとひとつ、由紀子さんの奪取ですからこの仲たがいは都合がいい。結果、衝動的な偽造自殺へ……」
「でも、だって勘違いなんて、そんな」
「岩渕さん」
ふいに将臣が呼んだ。
ぼうっと椅子に腰かけていた彼が、すこしおどろいた顔で視線を将臣へ向ける。まさかこの話の流れで自分に振られるとはおもっていなかったゆえであろう。将臣の顔はおだやかだった。
「愛河先生が真嶋敬士さんと不貞をはたらいていた、と感じたことはありますか?」
「……じ、自分は」
わずかにうろたえる。
愛河家は月に一度の訪問のほか、裕子の病院の送迎や男手が必要なときに声がかかった場合に出向くくらいのもので、長年通っていながらそれほど観察したわけではない。が、しかし──。となりに座る史織がまっすぐ岩渕を見つめている。その瞳を信頼で満たして。岩渕はキュッとくちびるを噛みしめてふたたび将臣を見た。
「なんだかんだ、あの方とは仕事で十五年以上の付き合いになります。その年月見てきたなかで言うと、それはありえないかと。愛河先生は連れと離婚されてから、輪をかけて男性不信のふしがありました。真嶋の旦那さんは、見かけるかぎりはいつも門前まででした。それでも立ち話をするていどには、先生も旦那さんには心を開いていたようで……それというのも、旦那さんがご家族を第一に大切にされる方だったからこそ、かと」
「…………!」
由紀子の目が見開く。
そのようですよ、と将臣が憐憫の目で由紀子を見下ろした。
「助手席にあったプレゼント。あれは事件の数日前、妻に贈り物をしたいが自分にはよくわからない、と愛河先生に相談していっしょに見繕ってもらったものだそうです。先生なら学生時代から妻をよく知っているだろうから、と」
「うそ────」
「アッハ」
ふいに一花がわらった。
「愛河センセーに言われたんだって。家族円満でいたいなら、もっと子どもの趣味に興味を持て、ピアノにすこしでも関わってみたらどうかって。ねーッ」
壁の隅、観葉植物にむかって笑む一花。
将臣はこっくりうなずき、ソファーから腰をあげると一歩、床を擦るように踏み出して由紀子のそばに膝をついた。袈裟の袖から伸びる白い手はやさしく由紀子の肩に置かれる。
「そのプレゼント、どうしたんです?」
「…………」
「捨てたのですか」
「いいえ……いいえ! 捨ててない。そんなことできるわけない!」
ではいまどこに、と将臣の声が尖った。
由紀子は手のひらで顔を覆い、嗚咽混じりに言った。
「あの人の──」
「言ってみろ!」
恭太郎がとつぜん怒声を飛ばした。
「娘も旦那も自由も、子種のネタひとつで脅し尽くしてアンタから根こそぎ奪っていったそいつの名前を、いま、ここで!」
「は──ァ」
「旦那からの最期のプレゼントを、アンタから取り上げたのはどこのどいつだ!」
「あ、愛河裕子さんよッ────あ、あああ」
うわあア、と。
由紀子は全身をふるわせて泣き出した。
この場にいるだれもが、彼女が告げた名前の人物を、彼のことばの意味を、頭に思い描けずにいる。
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