第34話 脈絡のない暴き立て
違うんだ、と。
フローリングに膝をついた伸二がつぶやいた。その手は自身を抱き、小刻みにふるえている。もともと大柄とは言えない彼の背中はみすぼらしく丸まってひときわ小さく見えた。由紀子はその背に終焉を見たのか、うなだれる。
周囲の家々から覗く野次馬はそのままに、外から窓の桟にもたれる恭太郎は将臣の手から手鏡をうばうと伸二に突きつけた。
「なにが違う。そこの運転席に、眠りこけた敬士さんを運んだのも、助手席の足もとに練炭炊いた七輪置いたのも、ついでにあのプレゼントを取り出したのも──ぜえんぶアンタじゃないか。警察が見逃しても僕の耳は聞き逃さない。アンタの言語化できない感情までぜんぶぜんぶ、浄玻璃鏡は受け取ったのだ。もうあきらめろ」
「ちが、ぼぼ僕は、ぼ、僕は……」
「信じられないならもっと教えてあげよう。アンタのことから話そうか。アンタは高校時代からピアノ講師の由紀子さんに岡惚れだった。しかし由紀子さん──は、当時見合い結婚だった。居てもたってもいられなくなって関係を持った。それで? ああ、由紀子さんも当初は知らなかったわけだ。じゃあそれは、ア。そう……それで知ったのか。敬士さんがむせ」
「ま、待って! 待って……」
由紀子はさけんだ。
泣いていた。頬に伝うしずくが、彼女の諦念をあらわしているようで、さすがの恭太郎も口をつむぐ。フローリングに座る腰をあげ、由紀子はゆっくりと顔をあげた。もっと見苦しく抗うものかと思っていたが、涙にぬれた彼女の顔は覚悟を決めたように、しかし肩の荷を下ろしたような安堵の表情であった。
将臣はうなずいた。
「まず、結論をつけます。向井さん、由紀子さん」
「…………」
「真嶋敬士さんの練炭自殺──これは、自殺ではありませんね」
「……お話しします。ぜんぶ」
由紀子がかすれた声でつぶやいた。
こんこん、と。
恭太郎がワゴン車の窓ガラスを叩く。運転席に座る人間がそれを合図にゆっくりと降りて来る。由紀子はびくりと身をふるわせた。が、そこから降りて来たのは八年前の死者──ではなく、岩のように固い腕で扉を閉めた岩渕竹生。ゆるりと視線をめぐらせて、場の状況を確認する。彼は浅利家からここまで一行を乗せて来た協力者である。
恭太郎はにっこりわらって岩渕の肩に手をまわした。
「中に入ろう。あんたもいっしょに来るんだ」
「自分も?」
「何しろってんじゃない。そばにいてあげたらどうかなって」
といって顎でしゃくった先には、部屋のなか、不安げにじぶんの身を抱く史織のすがた。岩渕はへたりこむ伸二や泣き顔の由紀子など目もくれず、一直線に窓へ歩いた。彼に気づいた史織の顔がパッと安堵に変わる。
「タケオくん!」
「大丈夫か」
「うん。私は、ずっと一花ちゃんがとなりにいてくれたから」
史織が一花へ照れ笑いを向ける。
一花はえへへん、と誇らしげにわらった。
リビングのソファーをすすめられ、恭太郎は躊躇なく座る。
この洋空間にはとんと合わない袈裟姿の将臣も、恭太郎のとなりに浅く腰かける。岩渕や一花、史織はすこし離れたダイニングチェアにそれぞれ座った。由紀子と伸二はカーペットの上に正座をしている。
それでアンタ、と恭太郎がとつぜん話しだした。
「嘘をついたんだな。旦那に」
由紀子が息を呑む。
脈絡もない話であったが、おそらくは彼女の声を聞いたうえでの話題なのだろう。由紀子は戸惑うことなくゆっくりとうなずいた。
「言えるわけありません。それを言ったら、史織があの人の子でないことがバレてしまう。それだけは避けたかった。だから検査結果もひとりで聞きに行ったんです、後天性だと伝えたらあっさり信じてくれた」
「でも結局聞かれちまったわけだ。八年前のあのときに」
「…………口喧嘩になりました。あの人はふだんめったに怒らない人だったけれど、あの日は、長年続いていたと誤解されたのもあって、さすがのあの人もすごく怒った。落ち着かせるために、とおもって私の睡眠薬をいれてビールを飲ませたんです。……」
「落ち着かせるため? だから殺意はないって?」
「は……いえ、どうだったかしら。いまおもうと──少なからずあったのかも」
「まあ今さら殺意の有無はどうでもいいのです。それで、アンタか。アンタが持ちかけたんだな」
とつぜん、恭太郎の目が伸二に向いた。
平身低頭に額を床へこすりつけていた彼の肩がびくりと揺れる。覚悟を決めた由紀子とは対照的にどこまでもみすぼらしい男である。恭太郎は将臣と目を見合わせてから「そうだろ」とふたたび問いかけた。
すると伸二は跳ねるように顔をあげた。
「そうだよ、でもしょうがないんだッ。あの日なんとなく思い立って十六年ぶりに会いに行った。そしたら、部屋まで上げてくれた。そこで史織ちゃんがほんとうは僕の子かもしれないってことを聞いた。そんなの聞いて正気でいられると思うか⁉ 十六年──あの頃の日々を足せば十八年だ! 十八年好きだった女とのあいだに自分の子がいると聞いて冷静でいられるほど、僕はおとなじゃなかった!」
「…………」
「でも、そしたらたまたまあの男が聞いていたんだ。僕はさっさと追い出されたよ。でもあのようすじゃ、由紀子さんに暴力をふるうかもしれないとおもった。危険だとおもったんだ。だから、」
「だから七輪と炭を買ってまたこの家に戻ってきた?」
将臣の声が静かに響く。
そうだよ、と伸二は興奮したようにつづけた。
「由紀子さんが『たすけて』ってメールをくれたんだ。僕だけが由紀子さんを助けてやれる。あの男から解放させてあげられるって! 家に来たらあの男は深くねむっていた。そのソファーにだ。だから由紀子さんに言ったんだ! ぼ」
「『僕らでほんとうの家族をやりなおそう』か。そんなこと言われてどうしてアンタも揺らいだんだ? そんなに不満だらけの生活だったのか?」
「……あの時。あの時は、私も舞い上がっていたんだとおもいます……伸二さんのことは心のなかにしこりとして、ずっとあったから」
「それでオマエがワゴン車の運転席に彼を乗せて、炭焚いて、ころしたんだな」
「そうだ。なにかわるいか? あの男は由紀子さんをたしかに苦しめていた。だから僕がたすけたんだ。世の中そんな家はごまんとある。ぼぼ僕は」
なおもつづける伸二の目は焦点が定まらない。
恭太郎はちらと由紀子を見た。彼女は肩を落としてうつむいたままうごかない。つづいてビー玉のような彼の目は将臣へと向けられる。将臣はわずかに憐憫の目で由紀子を見、手で伸二を制した。
「じつはね由紀子さん。われわれはここへ来るまでの道中、とある方から八年前のその時になにが起きたのかすべて教えてもらったんですよ。そのなかでひとつ確認したいことがあったんです」
「…………?」
「敬士さんが乗って帰ってきたワゴン車の助手席、プレゼントがありましたね。贈答用に包まれた小花柄のワンピース──貴女は気づかなかった?」
「え? いえ……あったのは知ってます。でもあのお店の包み紙だったから、私」
「彼は、記念日を祝うつもりだったそうですよ」
「き、ねんび……」
由紀子の瞳が揺らぐ。
となりで伸二が何事かをわめくが、恭太郎に頭を踏みつけられておし黙った。由紀子はもはやそちらには目もくれない。右に左にと眼球を泳がせて必死に記念日の意味を考えている。
その日は、と将臣があっさりと答えを口にした。
「敬士さんと由紀子さんが初めて会った日、だそうです。覚えていらっしゃいませんか? 敬士さん、あなたに一目ぼれだったんですってね。なあ、一花」
「ウン。アッハ、めちゃんこ嬉しそうに言ってたよ。聞いてもねーのに」
「────!」
「貴女のなかにどのような疑念があったのかは分かりません。でもそれは、杞憂なものだったんじゃないですか。あなたが抱えるたったひとつの後ろめたさが、……目の前にあるいろんなものを隠してしまった」
「そ、…………そんな」
将臣は恭太郎の手から手鏡を取り返す。
そのまま由紀子へ、鏡面を向けた。
「抱く幻想はもう終わりだ。すべてをまっさらにしていま一度御覧なさい。鏡に映るは、だれです?」
「あ、あ──」
「その方にすべて聞いてもらいなさい。決して、あなたを見捨てはしないお人です」
ささやいた将臣。
由紀子は手鏡にすがりつき、嗚呼──と泣き崩れた。
伸二や史織はただ、ただ、むせび泣く由紀子をただ眺めるばかり。洋間の壁にかかったアンティーク時計がまもなく午後二時を報せる。彼女の慟哭が落ち着くのを待つあいだ、ふと一花が部屋の隅へと目を向けた。
何が見えたか。
一花はひとり、得意げに親指を立てて見せた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます