第33話 浄玻璃鏡に尋ねましょう
伸二は一花を手厚く歓待した。
めずらしく史織が友人を連れて来たことがうれしいらしい。一花はといえば出されたクッキーやらパウンドケーキやらを、目を輝かせて食べまくる。彼女のそばにぴったりと寄り添ったまま離れない史織も心底たのしそうに笑っている。それもまた印象評価にプラスしたようで、伸二は一花に対してすっかり心をゆるしていた。
対する由紀子はすこし遠い。
青い顔で一花をにらみつけ、そわそわとどこか落ち着かない。
ひとしきりお菓子を食べ終えた一花はふと伸二を見つめた。
「おじさま──」
「なんだい」
「そういえばもうお身体の具合はよろしいの? 昨夜とっても咳き込んでいらしたけれど」
「咳…………?」
「そ、そのことはいいのよ古賀さん。それより」
「そうだわイッカちゃん、私の部屋へ行きましょう。ピアノがあるの、すこし聴いていって」
「いいの? 聴きたアい」
可憐な女子大生ふたりはいきおいよくソファから立ち上がる。
伸二はそのようすもまぶしそうに目を細めたが、由紀子はきびしい表情で
「待って」
と、史織の腕をつかんだ。枯れ枝のような細腕からは考えられないほどに強い力である。
「史織さん。あなた今日のレッスンは何時からです」
「午後四時からです。時間はまだ十分あるわ」
「でもその前に大事なお話があるときのう言ったでしょう。古賀さん、わるいんだけれど今日は遠慮していただけませんかしら。家族のことで、これから史織と話が」
「アッ」
聞いているのか、聞いていないのか。
一花は呑気な声をあげて由紀子の声を制止する。のったりと由紀子、伸二、それから史織を見てにんまりわらう。
「家族のことって、お父さんのこと?」
「そ、」
「そうなんだ」
伸二が答えた。声がわずかに弾んでいる。
いつの間に用意したのか、その手にはきのう史織が投げ捨てた淡い青の封筒があった。史織の顔がゾッと青ざめる。が、一花が史織の手を握った。しかしその目はまっすぐ向井伸二へと向けられている。
「図々しい人オ。いのち奪った挙句、父親って肩書まで奪うつもりなの?」
「な、」
「ちょっとどういうつもり⁉」
由紀子がさけぶ。
が、一花は気にせずつづけた。
「“由紀ちゃん”はあの時も今みたいにぷりぷり怒ってた。夜通しお仕事だったから疲れていたけど、はやく帰ろうと黒のワゴン車飛ばしてさーア。きっと帰ったらプレゼントを渡そうっておもって……」
「…………」
「でも、帰ったら彼がいたの。“由紀ちゃん”の部屋でコソコソふたりで話してた。こうやって」
一花は耳をそばだてるそぶりをする。
「ドアの隙間から聞いちゃった。ふたりのないしょ話……それからはもう、彼を家から追い出して、それでとっても傷ついたもんだから“由紀ちゃん”にひでーこといっぱい言っちゃって。とにかく頭んなかぐっちゃぐちゃだったからお酒を飲んだ。そうしたらねむくなって、寝ちゃったの」
一花は伸二と由紀子を交互に見た。ふたりの顔はいまにも卒倒しそうなほど青ざめている。先ほどまで伸二の手中に大事そうに握られていた青い封筒も、彼の手から床へ落ちた。
「けっきょく、そのまま目覚めることはなかったんだけど……」
と。
一花の恨めしい声が揺れる。その時だった。
由紀子と伸二が絶叫した。ふたりの視線はリビングルームの大窓から見える広い駐車場。レースカーテンの隙間から、一台の黒いワゴン車が停まっているのが見えた。スモークガラスによって顔は見えないが、運転席には大柄な男がひとり、うつむいて座っている。
ふたりはがくがくと膝を揺らし、挙句フローリングに尻もちをついた。
一花は、侮蔑と嘲りに満ちた顔でふたりを見下げる。
「“しい”ちゃん」
「…………え?」
「冥府の案内人が、やってきたよ」
シャッ。
音を立てて一花がカーテンを全開にする。
ふたたび響いた由紀子の悲鳴。
史織の肩も、跳ねる。
なぜなら窓の前に、袈裟をまとい網代笠をかぶった雲水と、半歩うしろに下がったオリーブ色の髪をハーフに結う美麗な男が立っていたからである。
一花はそのまま窓をも開けた。
雲水の顔は網代笠に隠れて見えない。美麗な男は、ビー玉のような瞳をすうと細めて、由紀子と伸二をだまって見下ろしている。由紀子は現状の様相にひどく怯えると、
「ど、どなたです……!」
と目前の僧侶にさけぶ。
彼は網代笠の縁に手をかけ、ちらと瞳を覗かせた。
そしてワゴン車へと右手をひらく。
「この場の時を──八年前に戻しにまいりました」
微笑とともに。
────。
警察を呼びますよ、と。
真っ青な顔でさけんだ由紀子にたいして、袈裟をまとった将臣はたじろぐどころかさらに微笑を湛えて黒いワゴン車を指さした。
「なにをそう怖がっておられます。あの日、あの時、この場所で──あなたが犯した業に問題でもあったのですか?」
「アンタ頭おかしいんじゃないのッ。だれか、だれかァ!」
と、錯乱する由紀子の腕をつかむ手。
将臣の横を二歩すすみ、窓の桟を越えて、恭太郎が端正な顔をぐいと由紀子へ近づけた。その迫力に由紀子の喉がひゅっと鳴る。となりの伸二は、そんな由紀子などおかまいなしに目を見開き、口の端からよだれを垂らしている。
恭太郎の視線が、ゆっくりと伸二に移った。
「アンタが持ちかけた話か。助手席の足もとの七輪も、炭も、シナリオも──ぜんぶこしらえたってわけだ」
「な。な…………」
「由紀子さんのため? そんなに好きなのか、彼女のこと。……ああ、アンタがもともと教え子だったのか。そりゃあずいぶんと長い片思いだったのだねエ」
「う、あ」
「なんなのッ。なんなのよアンタたち!」
「あなたも貴女だ。馬鹿なのか? そんなに敬士さんに不満があったのなら、もっと直接ぶつけてやりゃあよかった。そうしていたらそんな──いらぬ誤解も余計な脅迫だってなかったのに」
「!」
由紀子が閉口した。
代わりに伸二が狂乱する。先ほどまでのおだやかな顔はどこにもなく、声をひっくり返してさけぶ。
「帰れ! か、帰れッ……いったい何様のつもりで!」
「何様のつもりはこっちの台詞だ」
と、恭太郎の声に怒気がこめられた。
空気はいっしゅんにしてピリリと凍り付く。が、恭太郎は二の句を継ぐ気はないらしい。ちらと将臣をにらみつけて顎でしゃくった。つなげろと言いたいらしい。
この八年間、と将臣はつぶやいた。
「……ある少女はずっと泣いていた。たいせつな人を亡くしたからではない、大切な人に置いていかれたと信じたからです」
「────」
由紀子の目が見開かれる。その瞳孔が、背後の史織を捉える。
「しかし今になって彼女の知る真実にヒビが入った。ただ、新たな真実は少女にとってあまりにむごい……世の中、真相を知るばかりが幸せとも限らない。それでも少女は願った。ゆえにぼくらが来たのです。少女の、八年分の涙を止めるために」
将臣の声はよく通る。
それゆえか、あるいは先ほどの由紀子の叫びを受けてか。近隣の家から幾人かが顔を出してきた。その野次馬のなかにはスマートフォンを構えだす者もいる。しかし将臣はこの視線を待っていたかのように口角をあげ、懐からちいさな手鏡を取り出した。
「いまここで、浄玻璃鏡にでも尋ねるとしましょうか」
と、由紀子を見据えて。
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