第32話 鉛の壁をとっぱらえ
──真嶋敬士は他殺だ。
という真相を前に、史織は浅利家の客間にて呆然自失となった。
あの日、学校の音楽室で四十崎から声をかけられて、急ぎ向かった病院で告げられた父の自殺。ゆいいつ自分が心を開ける人だった。それは父も気付いていたはずなのに、なぜ自分を置いて先立ったのか。史織は父を愛していたからこそ、恨み、憎んだ。高校時代はとくに、大工仲間が話す父の話を聞くのも嫌になった。
でもそれが、もしも他殺だったのなら、どうだろう。まさかそんなことが。いやでも、しかし──。
将臣は対面のソファに浅く腰かけている。
「お父上の死はどなたから?」
「…………病院で、は、母から。母が第一発見者で、発見してすぐに救急車を呼んだそうなんですが。もう一目で手遅れなことは分かっていたと、あとで聞きました」
「そのとき他に家にいたのは?」
「母のほかにはだれも。当時はまだ、使用人なども雇っていなかったので」
「雇っていなかった? ではその、使用人の方はいつから」
と、将臣が眉をひそめる。
向井伸二のことであろう。史織はいま、思い出すのもイヤな顔だ。しかしその思いを振りきるように首を振って、顔をあげた。
「向井が使用人として雇われたのは、父が亡くなってまもなくのことです。男手がないとなにかと不便だという母の提案で──」
「それなのに、その検査結果ですか」
恭太郎。
一番突かれたくないところを指摘され、史織は全身を強ばらせてうつむいた。頬が熱くなる。あらためて自覚した瞬間、自分の存在が汚らわしいもののようにおもえて、猛烈に恥ずかしくなった。まるでおのれの存在が『罪』になったみたいだ。
史織の意図を汲んだか、将臣が恭太郎を肘鉄砲にて黙らせる。
「お母上と向井さんが、むかしからの知り合いというのは?」
「知りませんでした。雇われてからすぐにそういう仲にあることは、薄々気付いていましたけれど、でもまさか。……」
「なるほど。その辺りをはっきりさせれば、芋づる式に見えてくるかもしれないな」
「どうする」
「一花」
将臣の声が低くなった。
ひとつ離れたソファー席で、優雅に紅茶と茶請けのクッキーを食べる一花の手が止まる。
「立証は困難だ。事が数年前のうえ、引き出せても自白ひとつ。
「そこまで知っちゃってるのに、いまさらうやむやにする方が傷付くわよ」
「真実を知るばかりが正しいとも限らない」
「それを決めるのはあたしじゃない。ねエ」
一花はにっこり微笑んだ。
とろけるような甘い笑みは、史織に向けられている。
「私、私は……」
「一花の言い分も一理ある。真嶋さん、あなたはどうしたい?」
「…………」
そんなこと。
突然言われても困る。いまさら、知らなかった真実を突きつけられたところで、自分がそれを受け入れられるとも限らない。いま以上に心も身体もバラバラになってしまいそうになるかもしれない。生きてゆくのがいよいよ嫌になるかも。
だからといって一度開いた蓋をとじるのもまた、容易ではない。
(なによりいちばん哀しかったのは)
史織はきゅっと胸の前で拳を握りしめた。
口を開ける。はくはく、と息を食むばかりで音にならない。まるで喉がなにかで塞がっているかのように。将臣と一花は急かすことなく、史織のことばを待っている。
恭太郎はニッと口角をあげた。
「大丈夫だ。言ったろ、アンタが出したいアンタの音は、何物もかなわない」
「!」
「いい加減、その喉をふさぐ鉛の壁──とっぱらっちまえばいい」
あ、──。
とおもったのもつかの間、史織の双眸からは涙がこぼれた。とめどなく頬を伝う雫が熱く火照った頬を冷やす。涙がこぼれるたびにふしぎと胸の内は軽くなって、気付けば鉛の壁はすっかり消えて、史織の喉は声を出していた。
「お父さんが、私を置いて逝ってしまった事実が……なによりいちばん、哀しかった。いちばん納得いかなかった。だって、だってお父さんはそんなこと、私をあそこに置いてひとり、いなくなるなんてぜったいにしないって、私…………」
「うん」
一花が立ち上がる。
対面の将臣も、やさしげに笑みを浮かべて聞き届けた。
「分かりました。そういうことなら、おれたちも協力します。せめてお父上が自死でなかったことの証明を着地としましょう」
「そんなこと、でも……どうやって?」
「そこなんですよねえ、問題は。たかだか一介の大学生たちに出来ることなんてねえ。警察の方々にはこんなこと頼めないし──やっぱり心理戦でいくしかないかなあ」
「…………おお!」
とつぜん恭太郎が瞳を輝かせた。
将臣の考えを聞いたらしい。キャアハハハと豪快にわらって、
「いいよ。それでいこう」
「いや、冗談だよ」
「閻魔の鏡だろ。もっとも楽な筋書きだ」
「…………だろうね」
覚悟を決めたか、怪訝だった将臣の顔に光明が差す。
「なら、すこし真嶋さんにもお手伝いいただこうかな」
「わ、私?」
「大丈夫。そう難しいことじゃありませんから──」
といった将臣の笑みは、これまで見たことのないほど凶悪だった。
※
由紀子は居間から玄関前までの廊下を行ったり来たりしている。
そわそわと落ち着きのないそのようすに、向井伸二は苦笑した。そっと彼女の肩に手を触れて居間のソファへ座らせす。
「落ち着きなよ。史織ちゃんのお友達から連絡があったんだろ?」
「そうだけど……いままでこんなことなかったから」
「それは、でも。ほら、あの書類を見たからじゃないのかな。床に散らばったままだったし、多少動揺していたんだとおもうよ。置きっぱなしにしていた僕も軽率だった。ごめん」
「だいじょうぶよ。きっとあの子ならわかってくれる」
と言った由紀子の顔はしかしぞっとするほど青白く、およそ『だいじょうぶ』と思っている顔ではない。現在時刻は昼の十二時。昨夜に電話がきたきり音信不通の娘が心配で、由紀子は朝の九時からこうして家のなかを動き回っていた。
ピンポーン。
チャイムが鳴った。
由紀子が跳ねるように立ち上がる。しかしそれを抑えて、伸二はインターホン画面を覗いた。史織が浮かない顔で立っている。昨日夕方に見かけたときと恰好が同じなところを見ると、ほんとうにあれからすぐ着の身着のまま家を飛び出したのだろう──と伸二はおもった。
「おかえり」
インターホン越しに言うと、史織はぎこちない笑みを浮かべた。めずらしい。彼女が伸二に対して笑みを向けることはほとんどなかった。伸二はホッとする。血のつながりがあると分かったことで、心を開き始めたのかもしれないとおもった。
由紀子が玄関へ出て扉を開けた。
インターホン越しに見えた史織がそのまま、そこにいた。彼女はうっすらと笑みすら浮かべて「ただいま帰りました」と頭を下げる。
「史織さん。あなた……心配したのよ!」
「ごめんなさいお母さん。携帯電話を部屋に置きっぱなしにしてしまったの」
「ええ見たわ。だからきのうもご友人の携帯から連絡したのね」
「はい。あの、それでその友人がここまで送りにきてくれて」
といって史織が身体をずらした。
インターホンの死角の位置に、赤いベレー帽をかぶった女の子が立っている。あまり理知的とは言えないが最低限の清潔感は備えている。おもえば史織の友人関係などほとんど聞いたことがなかった。由紀子は訝しげに女の子を見た。
「こちらが古賀、さん。史織さんとはどういう関係? 愛河先生のところの方?」
「いいえ。彼女はその、白泉大の生徒さんなの。四十崎先生つながりで知り合って」
「あらそう」
と、由紀子の顔がパッとあかるくなった。
白泉大ならば少なくとも馬鹿ではない、という安堵感が顔に出る。家のなかへ迎え入れようかと彼女──古賀一花へ手を伸ばしたとき、彼女はにっこりわらって淑やかに腰を曲げた。
「昨夜のお電話ではお世話さまでした。おじさまの具合はもうよろしいのかしら」
「…………!」
瞬間、由紀子の手が止まる。
いやな汗が背筋を流れた。まもなく家のなかから伸二が顔を出したことで、滞りなく一花を家のなかへと招き入れることになったわけだが、由紀子の足は玄関から動かない。史織が小首をかしげる。
「お母さん。どうしたんですか」
「史織さん、あの古賀さんという方すこしおかしいのじゃなくて? 昨夜の電話のときから訳の分からないことを言って」
「訳の分からないことって?」
「私はきのう車中ひとりで電話していたのに、おじさんの咳が聞こえるとか言って」
「どうなさったんです、お母さん。昨日の電話はスピーカーで聞いていたけど、たしかに咳をする男性の声が聞こえたわ」
「……え?」
「向井さんがしていたのじゃないの? いっしょに出かけていたじゃない」
「…………いえあの時はもう帰って、……い、いえ。そう、だったかしらそういえば」
由紀子は口角をひきつらせた。
痩せぎすの顔をキッとあげてぎょろりと周囲を見回してから、史織を中へ入れて早々に玄関扉を閉めた。
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