第31話 宝泉寺へゆく

 それは唐突におとずれた。

 十年前、高校一年生にあがったばかりの史織が、昼休みに音楽室でピアノを弾いていたときであった。音楽室の重い扉がいきおいよく開け放たれ、当時の担任であった四十崎が飛び込んできたのである。彼は息を切らし、青ざめたようすで、しかしつとめて冷静に言った。

 ──君のお父上が、病院に運ばれた。

 と。

 史織の父、真嶋敬士は勤勉実直な大工屋で、近々独立も考えるほどにその業界では名の知れた人物であった。彼は、一人っ子である史織にたいそう甘く、ピアノの道を志すときも、ピアノの練習をサボったときも、いつだってあたたかく声をかけてくれた。四六時中、厳しい母とふたりきりでピアノ部屋にこもる日々の史織にとっては、数少ない父との時間がなによりも大切だった。

 しかし、学校を早退けしてたどりついた病院では、すでに父への死亡宣告がなされて久しかった。死因は一酸化炭素中毒──車内にて練炭を使用し、自殺を図ったゆえだと母から言われた。学校に連絡がいったときはすでに死亡していたそうで、あれは四十崎なりの精いっぱいの気遣いだったのだと、史織はのちに気が付いた。

 練炭自殺。

 長らく避けてきたその単語に、意図せずしていま、こうして向き合うことになろうとは。


 ──電話を切った一花は、それから就寝するときまで無言を通した。


 セミダブルのベッドに身を寄せあったふたり。部屋の電気を消したあと、一花がぽつりとつぶやいた。

「アンタはそうかもしれないけど……あたしはそれじゃ納得いかんの。わるいけど。黙って見てて」

 と。

 史織に対してのことばではなかった。いったい誰と──と、考えるうちに疲労感が押し寄せる。一花は、まだなにかと喋っていたようだけれど、睡魔に抗う気力をなくした史織はそのまま意識を手放した。


 ※

 翌日、史織が目を覚ますとベッドのなかに一花のすがたはなかった。寝過ごしたかとあわてて起き出す。部屋を一歩出たところで、ふわりと香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。焼き鮭だろうか。

 ぎしり、と鳴る床を慎重に渡って、居間へ。

 台所には割烹着を着た古式ゆかしい老女が、せわしなく朝食を作っている。一花の祖母だ、とおもった。

 あわててその背に声をかける。

「おはようございますっ」

 寝起きで声が掠れた。恥ずかしかったが、声を聞いて振り返った一花の祖母は、想像以上に柔和な顔で、史織を見るなり目もとをくしゃりと皺に埋めた。

「おはよう。あなたが史織さんね、さっきイッカに聞いたの。きのうは大変だったね」

「は、あ。あの……すみません。とつぜんお邪魔してしまって、こんな」

「いいのよいいのよ。来客があることには慣れてるの。いまだって、もう向こうに来てるんだから」

「え────?」

 向こう、と老女が指さす先には、昨日は入らなかった部屋がある。聞けば仏間と言うではないか。昨夜遅くに来訪したうえ、仏壇への挨拶も怠ってしまったのかと気付き、史織はあわてて仏間へと向かった。襖の奥から話し声がする。

 ──一花と、恭太郎?

 気のせいか、互いを怒鳴り合っているようにも聞こえる。取っ手に手をかけてから、開けるのを躊躇した。洋風の扉とちがって襖にはノックという文化はない。ひと声かけてからあけるものだろうか。慣れぬ文化にまごつく。いっそ一思いに開けてしまおうか、と額に脂汗が浮かんだときである。


「おはようッ」


 スパンッ、と。

 襖がいきおいよく開いた。目の前に立っているのはやはり、藤宮恭太郎。一花は、仏壇前の座布団に胡座をかいている。史織を見るや

「おはよオ」

 と呑気な笑みまで浮かべて。

「お──おはよう。ごめんなさい、お話の邪魔してしまった?」

「大したことじゃない。聞けば八割コイツのわがままだった。こちとらわざわざ早起きしてここまでやって来てやったというのに、だ。こんなことならせっかくの休日、電話なんぞ無視して惰眠を貪っていればよかった」

「アッハ……でも聞いたからには、動かなきゃねーっ」

「まったくだ。このまま惰眠を貪ったってちっとも気持ちよくない。なによりアンタのお父さんが不憫ですからね!」

 と言って、恭太郎は史織の肩を強く掴んだ。

 分からない。

 寝起きによる頭のかすみはすっかり晴れた史織だが、このふたりのなかで、いま何事が進行しているというのか。父が関わっていることなのか。聞きたいのに、史織の口はパクパクと開閉するばかりで声にならない。昔からこうなのだ。肝心なときに、この口はいつも音を閉ざす──。

 が、恭太郎はウンウンと二度うなずき、史織に対してニッコリと笑みを向けた。

「そう焦ることじゃない。アンタが思うとおり、アンタの親父に関することには間違いないが、これから為そうとしている事の輪郭自体はまだぼんやりだ。なぜならいまここに将臣がいないから」

「浅利さんも関わっているんですか?」

「このあと、無理矢理にでも関わらせに行く予定です。でもなぁ。アイツ嫌がるだろうなぁ。今日は安息日なのになぁ」

「嫌がろーがなんしよーが将臣に拒否権はないの。安息日なんて他の日にずらせばいいんだから。いーい?」

 あたしの仕切りなのよ、と言って一花がパッと立ち上がる。史織の背中を押すように手を当てて、仏間から居間へ移動した。恭太郎は大仰に肩をすくめてあとにつづく。

 味噌汁の匂いが台所からただよい来る。

 やがて、戸惑う史織を挟むように彼女の両脇へ一花と恭太郎が並ぶと、

「まずは飯を食べよう。話はそれからだ!」

 といってそのまま食卓へと向かった。

 

 住宅街のなかにぽっかり開いた異空間がある。

 鎮守院宝泉寺──江戸時代に創建されたという由緒ある寺院こそ、浅利将臣の生家であるという。鎮守院とは正式名称ではなく、当寺に付された役目を示すため幕府が名付けたものだとか。ゆえにふだんは単に『宝泉寺』あるいは『宝泉さん』などとして地域に親しまれている。

 一花の家からは電車で数駅。

 小ぶりな山門を通り、境内を進む。隅に釣られた梵鐘を横目に石張参道を歩くと、目前に待ち構えた木造本堂にたどりつく。『浄財』と書かれた賽銭箱の奥、格子窓のなかへと目をこらすと、うっすらと見えた大きな仏像と、四方に置かれた仏像の計五体を確認できた。ほう、と感嘆の息を漏らす。そのとき。

 キロリ。

 と、本尊であろう大きな仏像と目が合った気がして、史織はあわてて身を引いた。

「当寺の釈尊は、たまに目玉がうごくと言われることがあるのですよ」

 と。

 史織の背後から声をかけられた。おどろいてふり返ると、袈裟姿の将臣が柔和にわらって立っていた。そのうしろには不服そうに頭をさする恭太郎のすがたが見える。史織が仏像に気を取られているあいだに、将臣となにかを話して怒られたらしい。

「すみませんね。こいつらが暴走して、わざわざこんなところまでご足労を」

「いえ! こちらこそ朝早くからとつぜんごめんなさい。あの、でも正直なところ、私もいったい何が何だか分からないまま来てしまっていて」

「そうでしょうとも。こいつらの辞書に『説明』という単語はないんです。簡単に言ってしまうと……真嶋さん」

 将臣はようやく視線を史織へ向けた。

「あなたのお父上の死因が自殺として片づけられたことに、一花がどうも納得いかないと怒っている」

「え?」

「一花は聞いたんでしょう。お父上から死の真相を」

「…………」

 真相、とは。なんだ?

 ──あたしはそれじゃ納得いかんの。わるいけど。黙って見てて。

 昨夜のベッドで一花が言ったことばを思い出した。

 なにに対して納得がいかないのか、その時は意味がよくわからなかった。しかし……。史織が一花を見る。彼女はいつもどおりの眠たそうな顔で史織を、いや、史織の左肩に対して笑みを浮かべていた。

 なんとなく左肩に触れてみる。とくに、どうということはない。

 将臣はつづけた。

「それで癇癪を起こした一花が恭を朝から呼び出してわめき散らした。しかし話を聞けばそうそう見過ごせない。何をどうするか考えるのは自分たちの仕事じゃないから、あなたを連れてここまで遥々やってきた──現状はそんな流れだとおもいます」

「司法が見逃して本人がゆるしても、あたしは見逃さないしゆるさない」

「い、イッカちゃん」

「まかせときなって」

 と。

 いつになく楽しそうな一花を前に史織は困惑し、将臣は眉間をもみ、恭太郎は快活にわらった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る