第30話 見えるもの、在るもの

 古賀一花の家は、純和風の平屋家屋だった。閑静な住宅街に多くの洋式住宅が建ち並ぶなか、ここ一戸だけひときわ存在感を示している。史織はあこがれの暮らしを目の前に、なかば興奮したようすで家の外観を見つめた。

「すごい……素敵ね、イッカちゃんの家」

「入って。うち、ばあちゃんしかいないし、この時間ならもう寝ているとおもうから」

「お邪魔します──」

 ご両親は、とは聞けなかった。

 じぶんの家族事情も話さぬままついてきた上に、人様のことをズケズケと聞くのは憚られた。そんなこちらの遠慮に気付いたか、たまたまか。一花は靴を脱ぎ捨てて玄関框をあがる。

「うち両親がべつのとこに住んでんだ。お仕事いそがしいから、職場の近くに家借りてんの! べつに仲はわるくないよ」

「そうなんだ」

「史織ちゃんお夕飯食べた?」

「ううん、そういえば……食べてない」

「なんか食べる?」

 いろいろあるよ、と居間へ史織を座らせると、一花は台所へ行って冷蔵庫の中身を確認する。家のなかにただようかすかな醤油の香りが、妙に温かくて、史織の目頭がまた熱くなった。

 祖母が食べた残り物か、煮物と豚汁を運んでくると、一花はどっかりと腰を下ろした。

「史織ちゃんって和風が好きなのね。なんだかイガーイ」

「うん、そうなの。なんでか昔から」

「アッハ」

 と、とつぜん薄く笑う。

「お父さんの影響なんだ。うふふ、お父さんって柿が好きなの? 固いやつじゃなくってよく熟れた感じの」

「そ、そう。好きだった……どうして分かるの?」

「聞いてもないのに教えてきた。アハ、まだ時期じゃねーし。分かった分かった、柿の時期になったらお父さんに熟れた柿をお供えしてくれってさ!」

 と。

 来客者がいるのもかまわずごろりと居間にころがった一花に、史織は目が釘付けになった。やはりなのだろうか。あまり、そちらの世界を信じたことはなかったが──これはあまりに。

 史織が、自身のうしろを振り返る。なにもない。気配やら悪寒やら、そんなものもなにひとつ感じない。在るのは、自身の息づかいと一花が薄くわらう声のみ。

「父は、八年前に亡くなったの。職業は大工さんだった。うちの家も、父が勤めていた工務店で請け負って建ててくれたんですって。父はもともと日本庭園が好きだったから、結婚したら和風の家を建てたいとおもっていたらしいのだけど、ピアノ……母がピアノをしていたから、和風じゃご近所迷惑になってしまうってことで」

「うん」

「母は、ピアノ以外なにも教えてくれなかったけど──父はピアノ以外のことならなんでも教えてくれたの。私が高校生になることもだれより喜んで、新しい制服を着せてみせたら、何枚も写真を撮ってくれて」

「うん」

「――お父さん、いるの?」

 史織はことばと裏腹に項垂れた。

 一花はぼんやりと史織を見つめて、

「うん」

 とうなずいた。

 史織は膝に置いた拳に力をこめて、首を振る。初めは力なく、やがてだんだん激情的に。気付けば史織は泣いていた。

「見えない。見えないよ……」

「見えなくっていいのよ」

 さらりと一花は言った。

「だってもう、住んでる世界が違うんだもの。見える方がおかしいわ」

「でもイッカちゃんには見えているんでしょう! ずるい……ずるい。会いたいのに。私だってお父さんに会いたいのに。どこにもいない!」

「だからお父さんそこにいるってば。目に見えなくちゃ居ないものになっちゃうの?」

「…………だ、だって、でも」

「目に見えなくても存在するものだって、たくさんあるでしょ。ピアノが好きって気持ちは? お父さんが好きって愛情だって、あたしの目には見えないよ。無いのといっしょになっちゃうけどいいの?」

 めずらしく。

 一花が饒舌にしゃべる。すこし怒っているのか、寝ころがった上体をわずかに起こして、史織をまっすぐねめつける。その視線が怖くて史織は肩をすくめた。

「それは、──」

「目に見えるものがすべてじゃないのよ。大人はみんな否定するけど……いつか、いつかさア。じぶんがそっち側になったときにさ。居るのに、そんなもの居ないって言われるのスゴく哀しいとおもわない?」

「…………」

「目に見えなくても居るのかも……って思うくらいが、みんな幸せなんじゃないのかしらって、あたしはおもう」

 と、ようやく身体を起こした一花は、史織の左肩辺りにむかって微笑んだ。


 飯が喉を通るようになった。

 煮物のじゃがいもをひと口食べると、史織の頬はほころんで、つづく人参にも端が箸がのびる。気付けば出された料理はすっかり食べ尽くして、史織の腹は適度なほどに満たされた。済んだ食器を重ねながら一花がわらう。

「お腹があったまると気分落ち着くんだって、前に将臣から聞いたの。どう?」

「とっても落ち着いた。ほんとうにありがとう、イッカちゃん。ごちそうさまでした」

「お粗末さまア。あたしが作ったわけじゃないけどね、アハハッ! ついでに泊まっていってよ。帰りたくないんでしょ?」

「イッカちゃんって……ふしぎ。私まだなんにも言ってないのに、なんでも分かっちゃうんだもん」

 と、ほくそ笑む。

 すると一花はちがうよと首を振って、

「聞いてもないのにあーたのお父さんがいろいろ教えてくれるの」

 ケタケタわらった。

 聞けば、彼女が中華屋から出ようとした頃から、史織の父親と名乗る男が“どうか娘を助けてほしい”と言い寄ってきたという。初めはなんのことやらとおもっていたが、男が勝手に話す内容を聞くにつれ、これはただ事ではないのかもしれない──と思い、この家まで送ろうと車を走らせていた刑事に頼んで、適当なところで降ろしてもらったのだとか。

 説明もそこそこに降りてきた、と聞くと史織は不安げな顔をした。

「刑事さん、心配しているんじゃない?」

「平気よ。あとのことは将臣と恭ちゃんにお任せしちゃったもんねーっ」

「……おもえば藤宮くんも、なんにも言わなくても分かる人だったかしらね」

「そオ。ね、大丈夫。それより史織ちゃんの方がだいじょばなくない?」

「えっ」

「携帯ないんでしょ。おうちの人に連絡、しなくていいの?」

「あ、……」

 忘れていた。

 おもえば、動転した拍子に飛び出してきたのだ。玄関の鍵を閉めるのも忘れたような気がする。いちおう固定電話番号や母の携帯番号は把握しているが、いま、電話をかけて彼らの声を聞くのが怖かった。せっかく落ち着いたこの気持ちがふたたび混沌に沈んでしまうのが怖かったのである。

 一花はふうんと鼻をならして、スマートフォンを取り出した。

「番号入れて」

「えっ?」

「あたしが話しておいたげる。ほら」

「う、うん──」

 言われるがまま番号を入力。

 これは母の携帯の方だ。万が一固定電話に連絡して、あの男の声を聞くなど冗談じゃない。入力したスマートフォンを一花へ手渡すと、彼女はさっさと発信ボタンをタップして、耳にあてた。

 トゥルルルルル。

 トゥルルルルル。

 三コール目に差し掛かったところで、電話はつながった。一花がパッと口角をあげる。

「もしもし。アタクシ史織さんの友人で古賀一花と申しますが……」

 おどろいた。

 一花がまともに挨拶をしている。それはそれとして、電話の奥からはすこしヒステリックな女の声が漏れ聞こえた。もしかしなくても由紀子の声だろう。断片的に聞こえただけだが「史織はいまどこにいるのか」という詰問である。史織は自身の母親が猛烈に恥ずかしくなった。

 しかし一花は動じない。

「いまアタクシの家に泊まりに来ておりますので、ご心配なさらず。え? ウン。あ、ハイ。先ほど夕飯も食べ終わったばかりです。これからちょっと花火でもして、寝ます。とりあえず明日には帰るそうですので」

「…………」

「エエ。ハイ、それじゃあ────あ!」

 と。

 一花はぼうっと史織の左肩辺りを見つめる。やがて、なにを思いついたか声色をひそめてつぶやいた。

「うしろでずっと咳をしてるオッサン、大丈夫ですか? 換気がわるいのかしら」

 電話口がいっしゅん静まり返った。

 史織には意味がよく分からない。漏れ聞こえるかぎり、そんな男の存在は聞こえないからである。しかし一花の顔はひどく悪どいものに変わって、やがてその顔からはいっさいの笑みが消えた。


「お車でしょ。密室で炭なんか焚いちゃだめよねエ。どうぞお大事に」

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