第22話 不可思議な痕跡

 翌日の早朝から、執刀医藤宮神来による司法解剖がおこなわれた。捜査一課担当刑事からは引き続き沢井と三橋が立会い参加する。

 遺体を前に、三橋がメモ帳をひらく。

「ガイシャの身元は佐々木茜、二十四歳。歯の治療痕より身元特定。遺体発見状況については……えー、ピアノコンサート中、いっしゅんの停電ののちに吊り照明からグランドピアノの屋根へ落下したものとおもわれます」

「……ピアノコンサート中?」

「はい。検視によれば、その衝撃によって背中の骨が数本イッてる可能性もある、と。あとは前回発見された中田聡美同様に着衣はなく、体表面の傷口はすでに乾燥。血痕はほとんど見受けられませんでした」

「…………またおかしな話ね」

 と、神来はマスクの下で顔を歪めて合掌をひとつ。司法解剖を開始した。

 ────。

 結論からいうと、背骨骨折を除けば中田聡美のときとほぼおなじ見解である、と神来は検案書を片手にもどってきた。

「胸元に大きく開いた縦一文字の傷から流血、失血死に至っています。死亡推定日はこちらも一週間以上は前ね。中田聡美とおなじ時期かもしくは……それよりも前ということも考えられるわ」

「連続殺人か──」

「ただひとつ気になることが」

 と、検案書を挟むバインダーから二枚の写真を取り出した。テーブルに並べられたソレには、司法解剖時の被害者の上腕部内側が撮されている。

 右上腕部、沢井が気づいた。

「なんだ……この」

「手指の痕、とおぼしき痣が見られるのよ。しかも手のひらの大きさを考えると推定十歳前後」

「ま、待ってください。失血死ですよね。生前につけられたものということですか。だって、体内にほとんど血液がないのに……痣、なんて」

「からだにはほぼ死斑が見られない。それなのに、この手指の痕だけくっきりと残っているのが──どうにも妙でね。そもそも十歳前後の子どもがこんな痕をつけられるものかしら。まあ、世界をさがせばいないこともないでしょうけれど」

 といって、神来はふうとため息をつく。

 そのとき三橋の携帯が鳴った。着信画面を確認した瞬間に彼女の眉がぴくりと動く。部屋の隅に移動しつつスマートフォンを耳に当てる。

「はい、三橋。大丈夫。……え? 吊り照明に指紋。うん、それで。…………、…………」

 次第に三橋の顔が強張ってゆく。

 検案書に目を通していた沢井だが、部下のようすがおかしいことに気づき紙をめくる手を止めた。向かいに座る神来も眉をひそめて電話を見守る。

 通話を終えてしばらく、三橋はぼうっとスマホ画面を見つめてから、パッと沢井のもとへもどってきた。その顔はめずらしく険しい。

「どうした」

「三國からでした。遺体が乗っていた吊り照明からコンサート参加者や講堂関係者ではない指紋が検出された、と鑑識課から連絡があったそうです。その……指紋の持ち主ですが」

「ああ」

「愛河麻里。昨日の、真嶋史織のそばにいたピアノ講師愛河裕子の娘さんだそうです。ただ、問題はここからで」

「問題?」


「その愛河麻里さんなんですが……十数年前に死亡しています」


 当時十歳で、と。

 三橋の目はちらりと神来へ向けられた。ハッと上腕部を写した写真に目を落とす。十歳前後とおもわれる妙な手形。いっしゅんにして三人の脳裏に現実から逸脱した考えがよぎった。

 が、すぐに沢井は首を横に振る。

「ばかばかしい。だいたいなぜ愛河麻里の指紋がデータベースに」

「十五年前、彼女は家のなかでの事故で亡くなったそうで。検視が入ったでしょうから──そのときに。三國たちが愛河裕子さんに事実関係を確認したところ、まちがいないと」

「だったら本当に、死人の指紋が出たとでもいうのか?」

「せ、先生。ないとは思いますが……たまたま他人と指紋が似ていたという確率はどのくらいなんでしょうか」

「指紋鑑定で見られる隆線が十二か所一致する確率はおよそ八百七十億分の一。現在の世界人口が七十億として、確率的にはほぼないと見ていいでしょうね。まったくないという証明は出来ないけれど」

「は、八百……じゃあやっぱり、照明についていた指紋は愛河麻里さんのものだったと見て間違いなさそうですね」

 と、沢井を見る。

 その顔があんまり歪んでいたので、三橋はぎくりと肩を揺らした。彼は警察内部のなかではわりと柔軟な男である。凝り固まった思想もなければ現実至上主義を説くこともない。外にはくわしく出せないが、たまに発生する不可解な事件を担当するときだって、なるべく先入観を捨てた捜査をするのである。

 そんな彼がいま、真っ向から現れた心霊事象を前に困惑している。

「一応確認だが、その愛河麻里として登録された指紋が別人のもので、指紋の持ち主が生きているという可能性はねえのか」

「藤宮先生のおっしゃる通り『ない』という証明は出来かねますが、それでもほぼないといって間違いないかと。そもそも、昨日の現場にいた人間たちの指紋をすべてとってなお、その人たちとはひとりも合致しなかったんですから」

「…………クソッ。これじゃあホントに──」

「捜査一課の刑事さんも大変ね。死人も相手にしなくちゃならないなんて」

 と。

 神来はバインダーに二枚の写真を戻した。

 そのまま沢井に押しつけて、自分はマグカップにコーヒーを注ぎ入れる。その顔はいつものツンと尖った表情とはうって変わってすこし楽しそうですらある。

 コーヒーはあくまで自分用。神来の、ごくりと液体を喉奥へ送る咽頭の動きを憎々しげに眺めると、沢井はがたりと立ち上がって検案書を三橋へ流した。

「ばかやろう……死人は専門外だ。いくぞ三橋」

「は、はい。藤宮先生ありがとうございました!」

「がんばって」

 なぜか上機嫌な神来に見送られ、ふたりは法医学教室をあとにする。

 このあとどうするか──と相談をしかけた三橋だが、沢井が腕時計を確認するや歩行スピードをあげて車へ向かうので、聞きそびれて運転席のドアを開けた。しかし沢井は「いい」と、三橋を助手席へと追いやった。運転したい気分らしい。

 これから、と三橋がシートベルトを装着する。

「森谷さんたちと合流しますか?」

「むこうはいまなにやってる」

「さっきまで佐々木茜の遺族と接触していたみたいです。おそらく今ごろは、所轄たちと協力してきのうの運営スタッフたちへの聞き込みに行っているかと」

「運営スタッフってなァ一か所に集まってんのか?」

 ハンドルにもたれる沢井の顔は浮かない。

 ええ、と三橋はすっかり元気な顔でメモ帳をめくる。

「ふだんはレンタルスペースで作業しているそうです。そこの住所入れます?」

「いや。代わりに愛河家の住所を入れてくれ。娘さんについて話が聞きてえ」

「了解」

 三橋はうれしそうにナビを操作した。


 ※

 愛河邸前。

 一軒まるまる家が建つであろう広大な敷地の駐車場と、その奥にそびえる洋館に、三橋は感嘆の悲鳴をあげた。ところどころに置かれた鉢植えを倒さぬよう、慎重に駐車場へ入ったとき、すでに停まっていたワゴン車から数人の人間が降りてくるところだった。このワゴン車も降りてきた顔ぶれも、沢井と三橋には見覚えがある。

「なっ……お前ェら」

 と、苦虫を嚙み潰したような顔で彼らを見た。

 ──藤宮恭太郎、古賀一花、浅利将臣。

 ほかにも、ワゴン車の持ち主である岩渕と真嶋史織のすがたもある。

「龍さんッ!」

 恭太郎と一花はパッと笑みを浮かべて沢井の懐に突っ込んできた。

 その攻撃をひらりとかわしつつ、沢井が浅利に近寄る。

「なんでここに。大学はどうした?」

「真嶋さんからお呼ばれしたんです。昨日のコンサートでは三十分くらいしか演奏が聴けなかったでしょう、ほかにもプログラムに予定していた曲があるからと言っていただいて。大学は、ちょうど二コマ空く時間だったんで」

「ほーん」

 と、沢井の目が真嶋史織へ向けられた。

 彼女はびくりと肩を揺らす。するとすかさず間に岩渕が割って入り、沢井のもとへと歩み寄ってきた。

「警察の方ですね」

「沢井警部補だ。こっちは三橋」

「巡査部長です。よろしくどうぞ」

「どうも。昨日はご苦労様でした」

「そっちこそ大変だったなァ。アンタ……真嶋さんも。うちの同僚がアンタの大ファンなんだ。こんどサインでも書いてやってくれよ」

「同僚──もしかして、森谷さんという方。きのうは会場の混乱を治めようと先陣を切ってくださって。たしかイッカちゃんたちのお知り合いでもありましたね」

「ああ。ま、事件の片が付いたらアイツから声がかかるとおもうから。せめて邪険にしないでやってくれ」

「……もちろんです」

 めずらしく史織の顔はほころんだ。

 将臣が、ふと三橋を見た。

「それでお二人はなぜここに」

「うん。ちょっと、妙なことになってんのよね。……」

 渋った三橋の真後ろから恭太郎がぬっと顔を出す。キャッ、と身をすくめた三橋を凝視して、


「“死人の指紋”とはおだやかじゃないねえ!」


 とさけんだ。

 ……即座に沢井によって口をふさがれた。

 こうして彼らは真嶋史織のプライベートコンサートを楽しむべく、あるいは捜査に進展をもたらすべく、各々の目的を胸に携えて愛河邸の呼び鈴を鳴らすのであった。

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