第23話 十五年前の事故について

 玄関から一歩中へ入ると、中世ヨーロッパの世界にタイムスリップしたかと錯覚する。調度品も絨毯も、壁に飾られた絵画も、すべてがこの世界を作り出すファクターである。目的の部屋までは勝手知ったる岩渕の案内により、史織、警察、三人組がつづいた。

 驚きのあまり呆けた三橋が、すぐ前を歩く史織の肩を叩いた。

「愛河先生って何者?」

「え、えっと」

「愛河先生の家は」

 と、代わりに答えたのは先頭を歩く岩渕だった。

 彼の声はいつも通り抑揚のないものである。

「先代、先々代から音楽家の家系で。この家は、愛河先生のお祖母様から住まわれていたものです」

「ああ。なるほどだから──いいですねェ。こんな豪邸に一週間くらい過ごしてみたい」

「お前ェじゃ三日で手に余ンのが目に見えてらァ」

「あっ沢井さんひどい!」

「それよりずいぶん、女の絵が多いようだ。これも先代、先々代の趣味かい」

 沢井がひょいと前を覗き込む。

 すると岩渕は、すこし逡巡してから「おそらく」と短く答えた。さすがに雇い主の家族の趣向までは把握していなかったとみえる。

 さて、めずらしくここまでひと言も発していないあの三人組。こいつらが静かなど地球がひっくり返るのでは──と沢井が恐る恐るうしろに目を向けると、彼らは想像以上にけわしい表情で、歩いていた。しかもそれぞれようすが異なる。

 将臣は方々に置かれた絵やオーナメントを凝視。

 恭太郎は首を右に左にかしげて、音を聞き。

 一花は──最後尾である自身のうしろをしきりに振り返る。

 いったい何を思い、聞き、感じ取っているのか。死人の指紋が出たというだけでほとほと参ってしまう沢井には、とうてい検討もつかぬ。

「あちらの部屋です」

 岩渕が言った。

 角を曲がった先にある扉。

 開けた先には、ここの家主が待っていた。


 愛河裕子は小花が散りばめられたワンピースを着用し、足元は真っ赤な薔薇が映えるスリッパを履いて出迎えた。

 麻里の事故について簡単に聞いた話から換算すると、ゆうに五十を超えているだろうに、その見た目は三十代と言っても通る。若作りもここまでくれば成功だろう。

 裕子は、沢井と三橋を見ても動揺するそぶりは見せずに、

「あら。警察の方もご一緒なのね」

 と快く部屋のなかへと招き入れた。

 部屋中央に設置されたグランドピアノと、その下に敷かれた真っ赤な絨毯がちかちかとまぶしく映る。この家には妙に赤が多い。調度品にもかならずデザインのどこかに赤が入っていた。

 岩渕はここで帰るという。本業の仕事が一件入っているからということだった。史織が彼の袖をクンとひっぱる。

「タケオくん、また戻ってくる?」

「迎えの車なら古川さんにたのんである。三人を大学に送る役も」

「……わかった」

「自分はこれで失礼します」

 と、一行へ事務的に会釈をすると、岩渕はさっさと玄関へともどっていった。彼の袖をつまんでいた史織の指は所在なげにさまよったのち、ゆっくりと彼女の胸の前に収まった。こういうとき真っ先に囃し立てる恭太郎と一花だが、依然としてよそを気にしているし、将臣は暖かな目でそのようすを観察するのみ。

 空気を読んだ三橋がずいと愛河裕子の前に躍り出た。

「これから真嶋さんのプチコンサートですよね! 我々は別件で、愛河先生にお話を聞きにきたんですが……」

「私に?」

「ええ。すこし先生のプライベートなお話になってしまうので、真嶋さんの演奏中に別場所でうかがえると助かります。その、十五年前の件で」

「…………」

 裕子の顔がわずかに沈む。

 が、すぐに笑顔を浮かべると「わかりました」とこちらも快くうなずいて、隣室にて待つよう誘導された。ピアノが設置された先ほどの部屋とちがって生活感のほとんどない空間である。ガラステーブルと革の椅子が、この場所を応接室だと主張する。

 沢井が椅子に腰かけ、天井を見上げた。

「……愛河先生は、このお屋敷におひとりで?」

「ええ。娘が亡くなってからはずっとひとりです。主人とはそれよりも前に離縁しておりましたから。とはいってもこうして史織も来てくれるし、月に一度はピアノの調律のために竹生くんも覗きに来てくれるから」

 お話のつづきはのちほど、と裕子は部屋から出ていった。

 取り残された沢井と三橋は顔を見合わせる。

「こーんな豪邸にたったひとりで──寂しくないものですかね。お手伝いさんのひとりやふたり、いてもおかしくなさそうですけど」

「よほど人に触れられたくねえモンでもあるんじゃねえのか。……」

 沢井は懐から煙草の箱を取り出しかけて、やめた。

 部屋のなかを探索する間もなく裕子はすぐに戻ってきた。隣室からかすかにピアノの音色が漏れ聞こえる。始まりからよどみなく音階を変えて流れる音色は、まるで音の洪水。三橋は口角をあげてひょいと首を伸ばした。

「これ、アレクサンドル・スクリャービンの曲ですよね」

「三橋さんでしたかしら。よくご存じね、あまりメジャーな作曲家というわけでもないのに。ピアノの経験が?」

「幼いころに少しだけ。幻想ソナタの──二楽章でしたか。姉がよく弾いていたのを横で聴いてて。わたしも小学校低学年まではピアノ弾いていたんですけれどね、ペダル踏みながら弾くって段階になったときにもうダメって根を上げちゃいました。ただでさえ右手と左手で別の動きをするのに、足まで?! って……」

「ウフフッ。慣れればどうってことないのよ、でもそうね。ピアノにかぎらず楽器というのはとくに向き不向きがありますから。早々に見切りをつけられたのも偉いわ」

「アハハ……。すみません、本題から逸れてしまって」

 後半は沢井への謝罪である。

 沢井はというと内心で、

(こいつもピアノなんて上品な習い事をやっていたことがあるのか)

 という謎の感動をおぼえつつ、深く腰かけていた尻をわずかに前へずらした。姿勢はしぜんと前傾のかたちになる。こうすれば裕子の顔色までよく見える。

 隣室からは依然として音色が聞こえた。

「十五年前──おたくのお嬢さん、麻里さんの事故についてすこし」

「どうして今さら。きのうの件となにか関係が?」

「それが、ないこともなくてですね。麻里さんは当時十歳だったとか。事故当時のことは覚えてますか。いや、お辛いかとはおもいますが……」

「……十歳の誕生日を迎えてひと月も経っていないころのことでしたわ。私はそのとき史織とは別の、教え子にピアノを教えていたんです。そのあいだに麻里が書斎の、本棚の整理をしてくれていたのだけれど。その際にはしごを踏み外して──転倒。ピアノの音ですぐに気づくことができずに、レッスンを終えてから書斎に行ったら、あの子が頭を押さえてころがっていたんです」

「そのときはまだ生きていた?」

「いいえ。もう息をしていなかった。その、頭からどくどく血が流れていて、……あたくし血が苦手なんです。110番をしたのですけれど」

 裕子はうつむいた。

 その隙に沢井が、裕子の背後に立つ三橋をちらと見る。彼女は顎を引くようにうなずいた。おおむね当時の検視状況との差異はない──という意味である。沢井はふたたび裕子へ目を向ける。

「でも当時応対してくださった方が状況を聞いて、一応救急車も手配してくだすって。……けれどやっぱり麻里はもう死んでいました。検視、というんでしょうか。そういうのもやっていただいて、けっきょく事故死ということになったんですが」

「なるほど」

 とくに不審な点はない。

 そりゃあそうだ。いま聞いているのは、十五年前にすでに不審点がないため事故扱いとなった件なのだから。十数年越しに娘さんが化けて出て、遺体発見現場に指紋を残していった──などとバカげた話、遺族にできるものか。

 沢井はふう、と眉をしかめた。

 その心労については三橋も察するところだろう、

「麻里さんもピアノを?」

 と裕子の背後から尋ねた。

 彼女はええ、と力なく答える。

「親のひいき目と言われるかもしれませんが、あの子はほんとうに才能のある子だったのです。母親とは大違い。きっと大成したはずでした。親としては言わずもがなですけれど、音楽界からしてもあの子の喪失は比類ないほどの痛手だったのです」

「……申し訳ありません、お辛いことを思い出させてしまって」

 三橋は眉を下げた。

 こう見えて彼女も、二歳になる息子がいるという。母親としての想いは察するに余りあるにちがいない。

 裕子はいえ、と青白い顔をゆらりとあげる。

「ただ、その。昨日の件と麻里のことで、関係があるかもしれないということですよね。いったい……?」

「はあ。まだはっきりとしていないので、なんとも。いろんな方向性、過去の事件事故の因果関係から捜査方針を定めているところなんです」

 といった三橋はあいまいにわらった。

 うまく誤魔化すものだ。沢井はふたたびふう、とため息をつく。しかし今度は安堵のものだったが。

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