第四夜
第21話 長い夜の終わり
「照明が消える直前に聞いたんだそうです」
依然、捜査一課は遺体発見現場となった女子大記念講堂にいる。
三橋はあの三人からずいぶんくわしく聴取をとってきたようで、沢井を見るや興奮気味にその内容を共有した。
「そのとき会場に存在した音はピアノの音色と、複数客の鼻をすする音、喉奥で咳き込みを我慢する音のみ──。そのなかにかすかですが異音が混じった、と」
「異音?」
「……声。なんと言ったかは鮮明ではなかったけれど、その、感情的には怯懦にまみれた声だった。あの神聖なコンサートの最中であの感情はあまりにも異質で、不審だったと、こういうことです」
「それはどっちの声なんだ。口から出たものか、それとも」
「中だろう、って話でした。もう、聞きましたよ沢井さん。彼らの体質! 事情聴取する前に教えてくれてもよかったじゃないですか!」
「俺から話すより、将臣からのがいいとおもってな。だがやっぱり聞こえていやがったか恭のやつ──」
刑事より先に臨場した鑑識班から、複数の報告があった。
ひとつは、ピアノ屋根の凹み。頭上にはちょうど吊り照明が吊り下げられているが、高さは二階席分におよび、正面からは幕で見えない。おそらくはそこから遺体が落下しピアノ屋根に直撃したのだろう、と。
さらには鑑識班が吊り照明をリモコンで下げてあらためた結果、照明部分にわずかな毛髪も発見したそうである。
これで、遺体が吊り照明にひっかけられていただろう仮説が確実なものとなった。
森谷のとなりで三國が吊り照明を指さす。
「吊り照明に遺体を乗せるには、さっきの鑑識のようにリモコンで吊り照明を降ろせばいい。まあ、女ひとりの死体を担いで、乗っけて、ってんだから重労働ではあるでしょうが……」
「ひとり鍛わっとった人おったやろ。岩渕さん言うたか、聴取は?」
「終わってます。本業はピアノ調律師、こういうコンサートのときだけ真嶋さんに手を貸すんだそうで。まああのごつい見た目なだけあって、搬送とか力仕事は得意だって話でした。ただですね……運営スタッフが十六時に会場入りしてからすぐ、十六時半待ち合わせのお客人を迎えに外へ出ていたというんで、細工は無理でしょうや」
「お客人?」
「あのお三方でさァ」
「…………」
森谷は閉口した。
なるほど、そこのアリバイは確実と見てよいだろう。三人を拾って十七時に会場に到着してからは図らずもほとんどあの三人と行動を共にし、開演直前では運営スタッフに混じって会場整備などをおこなっていたとか。遺体を照明に乗せる暇はなさそうだ。
森谷はいま一度、頭上の吊り照明を見上げる。
ひしめき合う照明機器は一文字幕によって、会場全体があかるいいまもつねに薄暗い。一見するとそこに死体が乗っているとはつゆも思うまい。
「そもそも──コンサート準備言うて、あんな照明機器のとこまでいじるもんか?」
「まさか。当日までの打ち合わせで、使用時間、付帯設備、音響、照明の確認をするそうで。ピアノ調律に関しては打ち合わせの段階で岩渕さんがOK出したとか。つまり打ち合わせ時にそういう機材の具合をたしかめたら、あとは当日に指定のライトアップとかをするだけなんでィ」
「講堂職員が前日に仕込んだとか?」
「姐さんの聞き込みで、昨日出社した職員のアリバイはとれてます。仕込むとしたら深夜でしょうが──深夜はセキュリティロックがかかる。もちろん鍵を持ってる人間が開錠したらセキュリティ会社への連絡はありやせんが、開錠記録には残りますからねェ。その記録はいまセキュリティ会社に問い合わせ中ですが──まあ、線は薄いかと」
「ほんなん言うたら……無理やないか」
「エエ。だから無理なんですよ、つねに人目のある舞台上で、照明降ろして遺体乗っけるなんざ──」
と、三國の顔がめずらしく緊張した。
一方そのころ。
控室には、いまだに軟禁状態の三人のすがたがあった。長い事情聴取を終えてさあ帰れるとおもったら、三橋に「沢井さんに報告するからもうちょっと待って」といって引き留められているところである。つい先ほどまで大口を開けて寝ていた恭太郎だったが、ふいに目を覚ますなり耳をふさぐ。
一花が眉を下げてその顔を覗き込んだ。
「恭ちゃん、大丈夫?」
「大丈夫なものか。人が多くってうるせえ」
彼にしてはめずらしく口調が荒い。
よほど参っているのだろう。一花は彼の耳にそっと両の掌を当てる。こんなことで音が遮断できたなら苦労もあるまいが──しかし恭太郎にとってはずいぶん楽になったようで、手を重ねる。
「おッ。イッカの血の音が聞こえるぞ」
「恥ずかしー」
「この血を抜かれたら死ぬんだなア」
「なア……」
ときどき。
気がかりになるのだという。
常識や憂慮など必要としないこの男だが、それでも日々を過ごしているとあまりに周りの音が多すぎて、一花や将臣の存在が確認できないときがある、と。
一花は恭太郎を挟んだむこうにいる将臣の手をとって、恭太郎の右耳に押し当てた。自分の手は左耳に。恭太郎は上機嫌にほくそ笑む。──手のなかをめぐる血流の音の、なんと心地よいことか。
「おまえら、生きてるな」
「ああ。でもこのままここに居続けたら退屈で死にそうだ。……帰らせてもらえるように交渉してくる。沢井さんなら聞いてくれるだろうから」
と、将臣が立ち上がった。
その手が扉にかかった瞬間にノックが三回聞こえた。こちらの返事も待たずにがちゃりと内に開いた扉を間一髪、将臣がひらりと避ける。
顔を覗かせたのは沢井だった。
「おっと。わりいな」
「いえ、ちょうど沢井さんに帰ってもいいかご相談しようかと思っていました」
「ああ──長いあいだ放置しちまってわるかったな。そっちの坊ンもずいぶん顔色がわるいみてえだし、もう帰っていいぞ。運営スタッフの奴らにも帰るよう言ったら、岩渕ってのがお前ら三人も乗せてってやりてえんだと。どうする?」
「岩渕さんが。じゃあそうさせてもらいます、もう十時まわってますし……恭もあんなですしね」
「おう、そうしろそうしろ。また話を聞くこともあるだろうが、そのときはよろしく頼むぜ」
「はい」
将臣は素直にうなずいた。
まもなく隣室で話を聞いたらしい岩渕が、初対面時と変わらぬ無表情で三人のもとへとやってきた。その手には車のキーが握られている。
「お送りします」
という一言とともに。
聞けば、ほかのスタッフはハイエースで帰るという。あの黒いワゴン車は岩渕の私有車とのことだった。岩渕の案内で例のワゴン車に乗り込もうとした矢先、
「タケオくん!」
と、史織が駆けてきた。
タケオと呼ばれたのは岩渕らしい。彼の足がぴたりと止まる。
「皆さんをお送りするの? 私もいっしょに……」
「史織さんは、先生たちと帰ったほうがいい。こっちだと帰りが遅くなる」
「でも」
「古川さん、お願いします」
「ああハイ」
と、古川が軽く手を挙げると史織のそばへ駆けてきた。
いまだにシャンパンゴールドのドレスを着用する彼女の肩はジャケット越しから見ても細く頼りない。その肩を柔く抱いて古川はハイエースへと彼女を誘導する。史織はいまだに名残惜しげに岩渕を見たが、やがてそのすがたはハイエースのなかへと消えた。
「行きましょう」
岩渕はくるりとワゴン車へ向き直る。
森谷ほか捜査一課の面々と別れを告げ、一花と恭太郎が後部座席へ、将臣が助手席へとそれぞれ乗り込んだ。岩渕は全員の家に送っていくと言った。招待したにもかかわらずこんな結果になったことに、顔こそ無表情なれどかなり気にしているらしい。
「じゃあ先に一花の家からお願いしようかな。みんな家はそう遠くないんですが」
「お好きなところから」
ナビをセットした岩渕はゆっくりとアクセルを踏んだ。
出発後ほどなくして、後部座席からはふたりの寝息が聞こえて来た。バックミラー越しに確認した岩渕が、
「お疲れでしたか」
とことば少なにつぶやく。
将臣は「いえ」と微笑した。
「こいつらの就寝時間はいまだに小学生なんです。夜十時にもなれば無条件に眠くなってしまう」
「健康的だ」
「そうかもしれません」
「浅利さんも、お疲れでしたらどうぞ」
「おれは平気です。それより──岩渕さん、真嶋さんにタケオくんと呼ばれているんですね。びっくりしました。彼女をむかし担当されていた先生から、彼女はあまり深い人付き合いをする方じゃないと聞いていましたから」
岩渕がハンドルを切る。
その表情は、将臣から見ると無のなかにもすこし懐古の情が宿っているようにうかがえた。
「……彼女が小五のころから月に一度顔を合わせていたので、自分のことはよく見る調律のお兄さんと思っているのです。それだけで、とくに深い付き合いをしているわけでは」
「そうですかねェ」
「そうです」
「……そんなこともないと、思うんだけどなあ」
将臣はうしろへ流れる車窓からの景色を横目に、窓枠に腕をかける。
そのまま左手で、うっそりとゆるむ口元を隠した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます