第11話 情を乗せたメロディ
音楽室の扉は、音漏れ防止用に重厚な造りとなっている。先ほどまでとは嘘のように、四十崎の広い肩幅で風を切り先陣をゆく様は惚れぼれするほど格好いい。が、先ほどのようすを知る者からすれば心配にもなる。
「センセ、無理しないでエ……」
「倒れたらだれが運んでやるんだッ」
「最悪、窓から落として搬送だな」
「君たちね──」
ひどい言われようである。
ピアノを鳴らすのが人間ならば、なんてことはない。立入禁止の建物に不法侵入をした挙げ句に怖がらせた罰だ、と四十崎はめずらしく気合いをいれて扉に手をかけた。
「だれだ、そこにいるのは」
開け放つ。
重たい扉もなんのその。フィールドワークで鍛えられた筋肉は伊達ではない。それほど広くない音楽室のなかには、埃をかぶったグランドピアノがひとつ。ピアノの前には白いワンピースを身に付けたひとりの女が座っていた。
彼女はよほどおどろいたか、目を見開いたまま固まる。
しかし四十崎はいよいよホッと肩の力を抜いた。その顔には見覚えがあったからだ。
「君は──真嶋くんか!」
四十崎の声に安堵が混じる。
サイドに長く垂れた髪から覗く、つるりと形のよいおでこ。丸顔からスッと伸びる長細い白頚が、薄暗い音楽室のなかではよく映えた。
真嶋と呼ばれた女子は、しばし四十崎と三人組を交互に見てから、我にかえったように椅子から立ち上がる。
「あ、四十崎先生……」
「久しぶりだな。元気にしてたか」
見たところ二十も半ばの女性である。
人間どころか知り合いだったことで、四十崎はすっかり安心したらしい。ゆらりとからだを揺らすと、となりに佇む将臣の肩に寄りかかった。
「そんなに怖かったんですか。ずっと言っていたのに、人間だって」
「バカ言え。不審者の可能性もあったんだ、俺なりに緊張してたんだよ」
「物は言いようですね」
「聞いちゃいたが、お前さんホントに可愛くないね」
と、四十崎は苦々しくわらった。
さて。
幽霊騒動は杞憂に終わったが、不法侵入という点では解決していない。とはいえ落ち着きとともに初登場時のダンディーさを取り戻した四十崎といえば、不法侵入を詰めるどころか、彼女の肩を叩いてその再会をよろこんでいる。
いい加減しびれを切らしたのは、一花だった。というか恭太郎はなにを聞いたか訳知り顔だし、将臣は時の流れに身を任せているだけだったからなのだが。
ねえアイちゃん、と一花は四十崎の草臥れたネクタイをぐいと引っ張った。
「紹介してよう」
「だれがアイちゃんだ、誰が」
「ユウレイ怖くてションベンちびってたって学科中に言いふらしちゃうよ」
「悪質ないたずらはやめなさい!」
一喝して、四十崎はゴホンと咳払いをひとつ。
それからようやく女性を示して三人に向き直った。
「
「アイちゃん高校でも授業してたの!」
「まあな。あの頃からここは立入禁止だったんだが、当時の真嶋くんは隙あらばここに侵入してピアノをいじくってたっけ」
「その節はまことにごめいわくを」
彼女は茶目っ気たっぷりに肩をすくめた。
その頬はほんのり染まっている。
「真嶋史織──」
ふと将臣が顔をあげる。
その視線はピアノと彼女、交互に向けられる。
「もしかして、YouTubeでピアノ演奏チャンネルをされている方ですか」
「ええ。Shiori channelというのを──」
なぜか陰気につぶやく史織。
が、一花と恭太郎は「エッ」と言いたげに目を剥いて将臣を見ている。彼が俗世間に流行りのコンテンツにくわしいことが意外だったからである。しかし将臣もまた、その視線の意味を理解している。
いや、と首を振った。
「きのうの夕食会で森谷さんが宣伝していたんだよ。おれもそのときにすこし、動画を見せてもらった。たくさんのクラシック曲をピアノで弾いていて……素人目で恐縮ですが、腕前に感服しました」
「それは──光栄ですわ」
「シゲさんがクラシック。……」
「クラシックってツラじゃないだろ、あの似非ホスト!」
「ちなみに最近のマイブームは、そのチャンネルの動画を聴きながらハーブティーを嗜むことらしい」
「はあ? キッショ」と、恭太郎。
「ハーブティーってところがやらし~」とは、一花。
どちらも惨憺たる感想である。
しかし史織は居心地わるそうにからだを縮めた。将臣が聞いた森谷の話では、チャンネル開設から二年ほどで登録者数百万人を越えたという。そのわりには取っつきにくく、はっきりいって華はない。
まあ、動画を見るかぎりは顔のあたりを隠して、手元にフォーカスさせているのだから、華の有無は関係ないのかもしれない。知識の宝庫と言われる将臣でも、そういった演出などの知識には疎い。
俺も見ているぞ、と四十崎は柔和な笑みを浮かべた。
「たまにだけどな。ピアノの腕前の良し悪しなんざ、俺も素人だから分からんが──君の演奏はほかと一線を画しているとおもうよ。元教え子って贔屓目があったとしても、だ」
「…………」
史織の目がゆがんだ。いまにも泣きそうなほどに。
その指先は、グランドピアノの白鍵を無為にいじる。押し込めども音は出ない。この短期間でたしかな実績を作り上げたというに、どうも彼女の表情はパッとしない。まるでピアノに対して後ろめたい想いを抱えているかのよう。
それで、と四十崎はグランドピアノの屋根にかぶった埃を掬った。
「卒業してずいぶんになるお前さんが、今日はいったいどうしたんだ。あの頃は家の事情とかもあって大目に見てやっていたが、いまは違うだろう」
「あ。その……なんというか。無性に、センチメンタルというか、ノスタルジックというか──とにかくいてもたっても居られなくなってしまって。気が付いたらここに来ていたのです。ここでピアノを弾いていた頃はとても……楽しかったから。あの頃の気持ちを思い出したくなったのかも。ごめんなさい、……先生」
史織は四十崎に対して深々と頭を下げた。
表情は依然として悲しげに歪む。見ていて痛々しくなるほどに。しかしもとより部外者である一花と将臣にはかける言葉もなく、四十崎もまた、数年ぶりに再会した教え子の変貌ぶりに戸惑い、言葉をさがす。
まもなく四十崎は、史織の肩に手を置いた。
「なにがあったのか聞かせてくれるか。真嶋くんが話してもいいってことだけで構わんから」
「先生……」
「ただ、ここはとにかく老朽化がひどい。床が抜ける危険性もあるから、話はここを出てからだ」
と。
廊下の方へうながす四十崎に対して、史織はこくりと頷きながらも、その視線はやはり名残惜しげにピアノに向けられる。ここから離れれば、大学棟にはピアノはない。高校の新校舎に易々と立ち入るわけにもいくまい。
史織は振り切るように首を振る。一歩、ピアノから離れた。
そのとき、そんな彼女を横目に恭太郎が動いた。ピアノの前にいた史織をよけて、どっかりと椅子に腰かける。
「恭ちゃん」
一花がつぶやいた。
彼の長い指が、その感触をたのしむようにうごめいてから、やがて繊細に鍵盤上を滑りはじめた。なにか曲を弾いているのだろうが音は出ない。しかし鍵盤と爪がぶつかる音だけで、無音に乗せられた感情は聴き手に伝わった。初めはどこか感傷的に。次第に音は息が詰まるようなものものしさを乗せ、やがて痛ましく悲しげに──。
恭太郎は事もなげに鍵を叩く。
「スッフォカート。センティメンターレからドレンテ──」
ハッ、と史織が息をのむ。
爪が鍵を叩く音は徐々に大胆に変わる。
「でもこっからアニモーソ」
まるで前半部に抱えた心の重荷を解き放ったかのように──。
「コンブリオからのアピアチェーレ!」
沸き上がる勇気、活気あふれるメロディを乗せて、フィナーレは自由に。音の出ないピアノだというに、一同はまるで、みじかい即興曲を堪能したような錯覚に陥った。
ピアノを、とつぶやく史織のくちびるがふるえた。
「──なさるんですか?」
「さあ?」
不適切な回答である。
しかし恭太郎は気にせず、宙で指を踊らせる。
「兄貴の見よう見まねですこし。でも僕は他人が譜に起こした音を弾く気にならなくて、すぐやめた。いまみたく、時々の想いを即興で音に乗せる方がすきだったのだ」
それはほとんどが曲にもならない。
気分によっては雑音の塊になるときもあったぞ、となぜか上機嫌にわらう恭太郎。
「すごい……」
史織はうわ言のようにつぶやいた。
「すごかぁない。だっていまのももう弾けない」
言ったとおり、恭太郎はふたたび鍵盤の上に指を置いたが、ぱったりと情熱が消え失せたように指は一ミリも動かなかった。初めの一音がどこから始まったかもおぼえていない、と。
まさしく心に浮き上がった情をそのまま、脳内の音に乗せて発散しただけらしい。
「いたずらに鍵盤を叩いてたのしむのは、誰にでもできるのサ」
と、恭太郎はわずかに乱れた前髪の隙間からビー玉のような瞳を覗かせて、史織に不敵な笑みを向ける。その端正な顔立ちに彼女は思いがけず見惚れた。
「人が求める音とアンタの音に溝があるのなら、いっそそんな溝は広げてしまえ。誰ぞのたまう『天才』なんて陳腐な称号、アンタの音の前には不要なのだから」
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