第10話 旧校舎への潜入

 浄玻璃鏡──。

 気をわるくしたかな、と将臣が恭太郎を横目に見る。彼は自身の体質についてあれこれ言われるのがあまり好きではない。が、こちらの心配もむなしく彼は、

「じょうはり? なんだそりゃ」

 と鼻頭にシワを寄せた。

 肩すかしを食らい、ガクッと肩を落としつつ、将臣の口は説明を忘れない。

「浄玻璃鏡ってのは、死後裁判に用いる道具のひとつだよ。狂言とか、最近じゃ漫画やらゲームやらでも、一度くらい聞いたことあるだろ」

「死後裁判?」

「人が死んだあとの世界、いわゆる冥府を統べる閻魔王がする裁判のことだよ。死者の生前の罪や業をすべて暴くために、生前の姿がありのまま映し出されるものとして浄玻璃鏡を使うんだ。閻魔王については宗派によっていろいろと解釈が変わってくるけどな」

「どうでもいいけど、それは褒め言葉か?」

「褒め言葉かどうかは……」

 人による、と将臣はすこし奥歯にものが挟まったような言い方をした。

「とかく鏡に隠し事はできない。その行動、言動が周りに与えた影響や、他人が抱いた情までもが暴かれる。もちろん映るのは罪だけじゃない。生前に善行が多ければその分、鏡を見たら晴れやかな気持ちになれるだろう。それらを見て死者は初めて、自身の人生を客観的に知り、人生の意味と罪を深く感じることができる。……その鏡に例えられたということは要するに、おまえには隠し事ができないと恐れられたってことだ」

「…………」

 ああ、と四十崎も同調する。

「ヤツのように、目的のためなら平気で嘘をつく人間からすると、ひじょうにやりにくい相手だということさ。君の前に、嘘は無意味だろうからね」

「ふうん。とりあえず褒め言葉じゃないことは分かった」

 といって、恭太郎はむくれた。

 一花も同調すると、ふたり揃ってのルポライターへの非難合戦がはじまる。

 喧々諤々とわるく言われる知人をおもってか、四十崎は

「ルポライターって種族もなかなかどうして困りもんだな」

 と、苦笑をひとつ。

 それから将臣に視線を移してふたたび頭を掻いた。

「聞いた話じゃ、入学前にはいろいろ大変だったそうじゃないか」

「ええ──さすがに参りました。でも、あいつらといっしょにいるかぎり避けては通れないので、もう割り切りましたけど」

 と、なんの気なしに将臣がふたりを見る。先ほどまで能天気にルポライターについて話していたはずのふたりが、いつの間にか微動だにせず、開かれた旧校舎を眺めている。

 そのようすはいつもと違う。

 将臣が眉をひそめた。

「どうした」

「…………」

 胡乱な目で闇奥を見つめる一花。

 半目で首を左にかしげる恭太郎。


「♪────────♪」


 ふたりは同時に、旋律を奏でた。

 ひと月ほど前から歓楽街付近を歩くたび、彼らが口ずさむメロディである。将臣にはそれがなにを意味するのかいまだに分からない。しかし、その裏に控えるものが確実に良くないものであることは、僧侶見習いの勘か、はたまた彼らとの付き合いによる経験則か──腹底から感じている。

 四十崎はただひとり、突然歌われたもの悲しい旋律を前に困惑の情を浮かべた。

「なんだ。浅利くん、彼らはいったいどうした」

「なにか聞こえたんでしょう。一花!」

「おんなのこ」

「あ?」

「女の子がいた。こんなか……」

 と、彼女が指さすは旧校舎の闇。

 しかし隣でともに見ていた恭太郎には、人の存在は見えなかったという。そもそも人影に限らず視力的にほとんど見えていないのだから、その証言に信憑性はないのだが、とはいえ動くものには敏感だ。人が歩けば、そこに人がいるか否かは目で見るよりもはっきり分かるはず。

 将臣はふたりのうしろからひょいと顔を覗かせる。

「いまは?」

「いなくなった」

「上から音がする」

 と、恭太郎が首を空へ伸ばす。

「どんな」

「……ピアノの、鍵を叩く音?」

 直後。

 三人の背後でズザ、と後ずさる音がした。一斉に振り返る。先ほどまで草臥れたダンディ風の面構えだった四十崎が、すこし青い顔をして身構えている。

 一花が目を丸くした。

「センセどしたん」

「いや。べつに」

「ここ立入禁止だろ、上にだれかいるぞ!」

「だれかって──誰だよ」

「もしかして先生」

 言いかけて将臣は閉口する。

 ほかのふたりも何事か察したようで、憐憫と喜楽の入り交じった笑みを浮かべた。恭太郎がずいと四十崎を覗き込む。

「オイせんせー、まさかこわ」

「怖いとかじゃないよ。べつに。女の子だろ? だれか生徒が入ってんだ。ったく、立入禁止だと言ってるのにな」

「でも歩く音しなかったぜ」

「だって女の子はそこで消え」

「いいって、もういい」

 四十崎はつとめて冷静な風をよそおうが、およそ不審な挙動からその本心が漏れ出ている。いよいよ憐れみの目で一瞥し、恭太郎と将臣が旧校舎へと向き直ると一花をうながした。

 立入禁止などどこ吹く風である。

 四十崎は分かった、とあわてて声をあげた。

「わかった、行く。俺も行くから待て」

「いいのに無理しなくて」

「無理なんかするわけないだろ。……ったく、初対面の教師いびりは嫌われるぞ」

 といって、先頭に立つ一花をそのまま前へ歩かせると、そのうしろにぴったりとひっつく形で歩き出した。六尺以上ある大きな体躯も形なしだ。

 一花は無表情でつぶやいた。

「もうなにもツッコまないよ」

「そうしてくれると助かる」


 この建物は、大学附属高校の旧校舎のひとつとして、昭和の終わりごろまで使われていたという。建立は戦前、当時は白泉ではない別の名だったというから歴史は古い。高校の校舎ということもあって大学設備にはない科学室や音楽室などの教室もあるという。

 一階部分には職員室や保健室などの設備が多く、教室はほとんどない。当時はほかにも校舎があったそうだが、新校舎が建てられた時点で取り壊されたのだそう。

「なぜこの校舎だけが残ったんです?」

「さあな。とあるうわさじゃ、取り壊そうとしたら工事関係者が相次いで不幸に見舞われたとか、工事会社が倒産したとか。羽田空港の大鳥居じゃあるまいし──とは思うがね」

 四十崎は苦々しくつぶやく。

 羽田空港の大鳥居──羽田空港の入口には、大鳥居がぽつんと建っている。明治の頃はその周辺もたいそうな観光地で賑わっていたが、戦後の進駐軍が羽田飛行場の拡張を決定。周辺の町に住んでいた住民に対し、緊急の立ち退き命令が下された。住民退去および周辺神社移転はぶじに行われたものの、大鳥居だけは基盤が固くて動かせず、ここに取り残されることとなる。

 また、工事にあたった進駐軍のなかでは事故なども相次いだことで、鳥居が動かせないのは基盤が原因ではなく『大鳥居の祟り』だと噂されたとか。

「いまじゃ、この校舎を取り壊す件についてはだれも口を出さなくなったそうだ。まあ放っておいてもとくに支障はないからな」

「いわく付きの校舎か。ワクワクするな!」

「声が大きい!」

「現役当時からなにか噂はあったんですか」

「……さてね。俺だってこいつが現役のころはここにいないから、当時のことはよく知らんが──でも、たびたび聞くのは音楽室だ」

「音楽室。……」

「もう古くなって音が出ないピアノがあるんだそうだ。だが、この旧校舎の前を通るとたまに聞こえてくるらしい。ポロン、ポロンってピアノの音が」

 と、自分で言って四十崎は一花の肩をつかむ手に力がこもる。メキメキとへし折られんばかりの力に、一花が「イタイイタイ」とつぶやいた。

 しかし将臣は納得したようで、どんよりと澱みきった空気のなか、晴れやかな笑みを浮かべる。

「だからさっき、恭がピアノの鍵を叩く音ってことばに怖がっていたわけですか」

「怖がってはいない。ほんとうにピアノの怪異が起きるものか、とおどろいただけだ」

「怪異?」

 恭太郎が首をかしげる。

 どうもそういう類いのものではない、とおもっているようす。しかし一花は一花で、こちらもあれエと首をかしげる。

「さっきまでここに女の子いたの。上かしら」

「古賀くん。女の子ってのはその、アレか?」

「アレってなに、ユウレイ?」

「言うなよ。濁したんだから」

「あッ」

「何だこんどは!」

「ほらみろ。上にいるのは人間だ」

 ふいに顔をこちらに向けて、恭太郎がにこやかに笑った。

「ピアノ弾いてる。調律がわるいんで音は出ないが、爪が鍵盤を叩く音が聞こえている。人間だ」

「…………」

 なんだ良かったね、なんてのんきにわらう一花と将臣。正体見たり枯れ尾花だ、などと笑い飛ばす恭太郎。

(──爪が鍵盤を、叩く音?)

 四十崎はひそかに気付きはじめている。旧校舎のピアノという怪異よりも何よりも、いま目の前にいる彼らこそが怪異ではないのか──と。

 ともあれ、幽霊でないのならば四十崎とて怖くはない。ようやく一花の肩から手を離し、先陣きって階段をのぼった。音楽室はたしか二階の西側奥にある。

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