あなたにだけは、嫌われたくなかった
現場の部屋を出ると、すぐさま佐倉の姿が見えた。
急いで追いかけたし小走りもあったのだが、それ以上に彼女の足取りが遅かったせいだろう。
背中を見つけゆっくり近づこうとすると、足音に気がついた佐倉が振り返った。
「私はもしかしたら勘違いをしていたのかもしれません」
佐倉にしては珍しい、笑みも浮かべない無機質な表情。
どんな色も乗っておらず、感情を識別するのが難しい。
「御崎さんは、私のことが嫌いなのでしょうか?」
しかし、そこから放たれたのはそのような質問。
好きか嫌いかで言えば、間違いなく好きだ。
情けなくも初恋を引き摺っていた俺が今更佐倉を嫌いになるなんてあり得ない。
だが、そう捉えられてもおかしくないような言葉を俺は口にした。
それは他でもない、彼女に向かって。
「……別に嫌いってわけじゃない」
「では、どうしてあのような言葉を口にしたのですか?」
一歩、一歩と。
佐倉が俺に向かって近づいてくる。
「あの時御崎さんが放った言葉が撮影の一つでないことは分かります。周囲はアドリブを組み込んで演出を加えたと思っているのかもしれませんが、私はそうは思いません」
俺は佐倉に向かって言った言葉がただのアドリブだったと否定することはできない。
だが、それは君の感情の境を見つけてあげたいから―――などという本心も決して口にはできない。
……これでいい。
近づいてくれたからこそよく分かる。
「御崎さんは、私のことをあんな風に思っていたんですね」
すぐにでも触れてしまいそうな距離。
そんな佐倉の瞳には、明らかな怒気が見て窺えた。
(……ほんと)
苦しい。
好きな女の子にこんな目をされるのは……辛い。
しかし、ここで取り繕ったってその場凌ぎでしかならないし、俺の行動が全て中途半端になる。
傷つけてしまったのなら薬を塗ってあげようとするな。
それは俺の役目ではなく、親しい誰かがするべき行動だ。
ツケを払うなら、役目を捨てた立場で誰かのキャラクターを奪うような真似なんかせず―――
「だったら、どうする?」
誰かが薬を塗ってくれた時……彼女がちゃんと
「そう、ですか」
ポスッ、と。俺の胸に佐倉の弱々しい拳が当たる。
それが何度も、何度も俺の胸に当てられた。
「……一つ、はっきり分かったことがあります」
佐倉が俺の顔を見ないまま口にする。
「この感情は、紛れもなく『怒り』なのでしょう。あなたのおかげで気がつきました。そして、いつもなら消えている感情がまだ消えてくれません」
それは恐らく自分が演じていたキャラクターと感情の齟齬があったからなんだと思う。
今演じている茜はこの時、あの場面で怒ったりなんかはしない。
それでも湧いてきたということは、演じた茜ではなく自分が怒っているが故。
これこそが自分の感情なのだからと、明確に理解したからだ。
「……御崎さんは本当に凄い人です」
「…………」
「他の人に言われても、こんなことは思わないはずです。あなたといると、私は私を取り戻すことができるような気がしてきます」
それでも、佐倉は俺を殴り続ける。
感謝していると、そう口にしているにもかかわらず。
「ですが、あんまりだよ」
ようやく、佐倉は顔を上げた。
その顔は―――俺も、初めて見た。
今にでも触れれば折れてしまいそうなほど弱々しい、泣き出しそうなもの。痛々しくあり、背けたくなるようなものだった。
「あなたにだけは、私を嫌いになんてなってほしくなかった……っ!」
胸が締め付けられる。
目の前の少女が折れてしまいそうになっているのと同じで、俺自身もポッキリ心が折れてしまいそうだ。
今すぐに彼女を抱き締めたい。
打算とか欲求とか関係なしに「嘘だよ」と、「嫌いじゃない」よ、と。安心させてあげたい。彼女を、俺を。
「あ、ははっ……そっか、これが私か」
佐倉は目元に浮かび始めた涙を拭うことはせず、そのまま俺から離れた。
「今なら、演技してないって分かるなぁ」
足元の覚束ない足取りで俺に背中を向ける。
手を伸ばしたくなるような背中は、何故か遠く見えた。
「……ありがと、御崎さん」
そして、佐倉は最後に振り返り……笑顔を見せた。
「やっぱり、あなたは私にとって―――だよ」
誰もやって来なかった廊下に静寂が響き渡る。
小さな足音だけが耳に残るが、それも数十秒も経てば聞こえなくなった。
聞こえてこなくなると、弱々しい彼女の姿は視界から消えていた。
だからからか、俺は糸が切れてしまったかのように近くの壁にもたれかかり、そのまま崩れ落ちる。
「……ははっ」
よかったじゃないか。
結局、たった一回のアドリブだけで彼女の境を見つけてやった。
今のは『怒』と『哀』だろう。あとは見つけた自分から更に『喜』と『楽』を見つけてくれれば万々歳だ。
今安易に優しい言葉を投げかければ、彼女はせっかく抱いた感情を薄れさせてしまう。
そうはさせるな。明確に認識させろ。
一時の感情で終わらせず、何度も誰に対しても覚えられるようハッキリ境を作らせるんだ。
そうすればこの先、少なくとも彼女はずっと偽りの姿に囚われ続けることはないはず。
ない、はずなんだ―――
「やばい……」
泣きそう。
彼女を傷つけることがこんなにも辛いなんて……俺も知らなかった。
(できれば、知りたくなかったよ)
こんな感情。
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