18.桃のお出迎え
痛む感覚が短くなってくる。
朋重が産婦人科の医院へ向かう準備を忙しく整えてくれ、実家の両親にも連絡をしてくれる。
「いよいよか」
運転席に乗り込んだ朋重がハンドルを握りながら、表情を引き締めている。喜びはまだ押し寄せず、いまからが正念場という緊張感を漂わせていた。
後部座席で徐々に痛むお腹を抱えながら、朋重を心配させないようにと千歳は息みそうになる声を必死に堪えた。
『大丈夫、大丈夫。千歳、無事に産まれますからな』
扇子を持って『大応援』を始めるのかと構えていたが、福神様が千歳の頭を撫でるような仕草を見せてくれている。そのとおりなのか、それだけで千歳は痛みが和らぐ感覚を覚えた。
産科に到着してすぐに分娩室へ。朋重も付き添いの準備を整えた。
父と母も到着して、伊万里も駆けつけてきたという報告をスタッフが届けてくれる。
「ちぃちーちゃん、千歳、頑張れ」
「朋重さん……。もうすぐパパだね」
「うん。……『千歳さん』とここまで来られたんだって、俺、もうなんか泣いちゃいそうで」
ほんとうに朋重が涙ぐんでいたので、千歳は『早いから』と笑い出してしまった。手と手を取り合う、お互いに交わした銀のリングが千歳の目に映る。
恋は諦めていた日々から。お婿さんに出会って、婿入りしてくれて、妻夫になって。ついに母と父になる。
そのうちに途切れることのない痛みの連続になる。
もう無我夢中とはこのことか――。
いつもならここで、太鼓の音がどどんと響き、しゃんしゃんと鈴の音が鳴り、金の扇子を両手に持った福神様が『よっせよっせ』と賑やかな応援を始めるはずなのに――。
今日の福神様は桃の絵柄がある美しい扇子を片手に、優雅に静かな舞いを踊っている。ゆったりとした動作で静かに厳かに――。無事に産まれることを祈るかのように、迎え入れるかのように。今日は凜々しいお顔の、かっこいいおじさんの姿だった。
「千歳、頑張れ。ちぃちーちゃん、もうすぐだ」
朋重の声が途切れず聞こえるのに……。
『あとひと息ですぞ、千歳。慌てず、恐れず、落ち着いて――』
福神様の声もときどき聞こえてくる。
夜明け前のうす暗い海を背に、ひたすら涼やかな声で千歳を励ます福神様は舞っている。
雪解けが始まった沿岸の丘、静かに回っている白い発電風車。石狩の海、水平線にさしこんでくるひと筋の光。海面に細くて長い黄金の道筋ができて、福神様がいる浜辺まで繋がった。
舞いが終わると、彼はぱちんと扇子を閉じた。
福神様の腕にはいつのまにか、愛らしい乳児がいる。まっしろな布に優しくくるんで抱いてくれている。
『これで、お別れですな。またいつか、どこかで。健やかであれ』
お髭のお顔をそっと近づけて、まだ目が開いていない乳児に微笑みかける福神様。やっぱり今日まで一緒にいてくれた? 守ってくれていた?
『では。お渡しいたしますな――』
福神様がその赤ちゃんを誰かに差し出していた。
綺麗な手が伸びてきて――。
娘の神様?
そんな映像が浮かぶ脳内、そして『これが最後、息んで!』助産師の声。朋重が握る手に力が入る。千歳も最後、力を込める。
『産まれましたよ! おめでとうございます!』
疲労困憊、千歳の意識はそこで朦朧とする。
もう目を瞑っても、福神様のお姿は見えなくなってしまった。
徐々に正気にもどってきた千歳がうっすらと目を開けると、そこには心配そうに覗き込んでいる栗毛の夫がいた。
「朋重さん……、産まれたね……産まれた……」
「ああ、産まれた!」
もう彼は涙ぐんで目元を拭っていた。
「女の子、よね?」
福神様の姿を追っていたため、産まれた瞬間の外の声がはっきりと聞き分けられなかった。
妊娠中の外からの判断だけでは、女児か男児かは確定はされていない。産まれたら男児だったという可能性もあるから、女の子だろう――というおおよそのことしか判断されていない。
福神様が抱いた時には、おくるみに包まれていたから性別はわからないまま。
目の前の麗しい夫が、このうえなく嬉しそうに微笑んだ。
「女の子だったよ」
いま助産師が身体を洗って体重を量って、連れてきてくれるという。
やっと外の景色がはっきりと認識できるようになった千歳は、もう待ち遠しくてそわそわ。短い時間でも長く感じた。
やがて『はーい、綺麗なりましたよ』と白いタオルにつつまれた赤ちゃんを、助産師が連れてきてくれた。
母親だからと、いちばん最初に千歳から抱かせてもらう。小さくて、思ったよりずっしりしていて、でもふにゃっとしていて軽くも感じて怖々と千歳は包み込む。
一足先に福神様と一緒に会いましたね。
千歳はそっと微笑みかける。福神様が抱いていた赤ちゃんと同じ顔だとすぐにわかった。
「うわ、小さいな~。やっぱりまだ、ちぃちーちゃんってかんじだな~」
夫の琥珀色の瞳がきらきら輝いている。この娘にもそのうちに、パパの瞳がどれだけ素敵で綺麗なものか、知ってくれる日もくることだろう。
千歳はそっと、朋重にも小さな彼女を差し出した。
「はい、パパもだっこね」
「ちぃちーちゃん、おいで」
戸惑いも躊躇いも見せず、朋重はもうすぐに抱きたかったとばかりに、千歳の腕から早々に譲り受け、娘をその腕に抱く。
「やっときてくれたな。パパのところに……。がんばったね、ちぃちーちゃん」
夫の眼差しがさらに優しくなった。ああ、そこまで崩れる目元は、きっと娘のためだけね――と千歳でも思うほどのものだった。
「そうだ。もう、ちぃちーちゃんじゃないな」
朋重が千歳を見つめる。彼の琥珀の目と合った千歳も頷く。
朋重と一緒に、パパの腕の中にいる娘を覗き込んで、ふたり一緒に囁いた。
「千咲、ママの千歳ですよ」
「千咲、パパの朋重だよ」
女児とわかったらと決めていた名前で呼んであげる。
荻野
神様がついているだろう貴女もきっと、荻野の長子長女として跡取り娘になりそうね――。
---😇🌸👶
初めての授乳のやり方を教えてもらったり、はじめておむつをあてたり、体重の量り方を教えてもらったりして、あっという間に一日が過ぎる。
朋重は、父の遥万と伊万里と一緒に『一休み』で自宅に戻った。男同士で一日を過ごして、また千歳の手伝いにきてくれるとのこと。
千歳も一休みでうとうとしていたのだが、いつのまにか夕方になっていた。疲れでぼんやりとした目覚めだったが、雪が残る景色ながら、空がほんのりと茜に染まる三月の夕空には春らしさをかんじて、ほんわりと幸せな気持ちになる。ベビーコットにすやすやと眠っている娘にも、しあわせの茜がふりそそいでいて、愛らしい気もちが溢れてくる――。
やさしく穏やかな時間を堪能していると、この個室に母が訪ねてきた。
「千歳、大丈夫かしら」
「お母さん。来てくれたの。お母さんも休んだ?」
「ええ。あなたのマンションで、少し仮眠をさせてもらったわよ。しばらくは私もお手伝いで泊まらせてもらうか、通いますからね」
「心強いです。ありがとう、お母さん」
産気づいてすぐに駆けつけてきてくれた母。そして父。弟の伊万里まで――。ちいさな赤ちゃんを一目見て、両親と弟で目をキラキラさせて喜び合っていたと朋重が教えてくれた。
「お祖母ちゃまも、もうすぐ来るはずよ」
「ほんとに? お祖母ちゃま、今日ははずせない会合があったのよね……。相変わらず忙しいのね」
「気丈に見えても、もうお歳もありますからね。夜は無茶しないようにお願いしていたのよ。すぐに駆けつけられなくて、残念がっていたわよ」
「お祖母ちゃまにお話したいこと、いっぱいあるの……」
福神様のこと。祖母には伝えておきたいと思った。
母は『あら、どんなことなの』と尋ねてくるかと思ったが、ただ聞き流したように微笑んでいるだけだった。
その顔が千歳には達観しているかのように見える。なにもかも知っているような顔をする時がある。母はそうして、不思議な雰囲気をよく醸し出す人だった。
「お母さん。私を産む瞬間、なにか夢のようなものを見たことある?」
「産む瞬間? お腹から出てくる時ってこと?」
「そう。たとえば……、お母さんにそっくりな聖女さんが頭の中に浮かんだりした?」
自分が胎児の時も聖女様がそばにいて、福神様に引き継がれた場面があったのかもしれない。
母も出産時にそんな風景を見ていないか千歳は尋ねていた。
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