9.実は大ファン
長谷川社長が変なことを言い出した。
伊万里と、彼の娘『木乃美』と見合いをさせたい?
いや、もう対面しちゃってるじゃないかと千歳は我に返る。
だが長谷川社長は言いたいことだけ言ったからと、バイヤーたちに呼ばれ『1ポンド山分けシェア』用のアピールをしなくちゃとブースに戻ってしまった。
呆然とする姉と弟……。
伊万里に至っては、ステーキ肉をフォークに刺したまま目を点にして停止状態になっていた。
「とにかく、食おう……」
あ、食べるの再開したと千歳も弟を眺めているのだが、せっかくの最上級ステーキ肉を食べているのに、心あらずで味わっているようにしか見えない。そんな無言で食べているのは伊万里らしくない。美味しかったら、先ほどまでのように、身体で目一杯の表現と溌剌の声で、騒々しく食べているはずだからだ。
「あ、姉ちゃんにもひときれ、分けるな。めっちゃうまいよ。さすがA5ラン肉だよ」
「う、うん。ありがと……」
姉の目の前では子供っぽいままの弟なのに、こんなふうに大人らしい気遣いをみせてしおらしいと、逆に姉は心配になる。
「朋兄ちゃん帰ってこないな」
「あら、ほんとうね。どうしちゃったのかな」
長谷川社長の衝撃発言で、姉弟で呆然としていた時間が長かったのか、夫がなかなか帰ってこないことにやっと気がついた。
伊万里と一緒にホールの向こうへと目を懲らして探したが、見つけたのはすぐそこで、栗毛の彼がひと皿を持って肉を焼いている木乃美に話しかけていた。
しかも隣に戻った長谷川社長がまた顔をしかめて、朋重にやいやいと文句をけしかけている様子が見られて、千歳はひやりとする。
なのにこんなときでも、夫の朋重が明るい笑顔のまま聞き入る様子が窺える。そんな若い副社長の余裕に、長谷川社長も観念したのか、朋重が持っているひと皿から、スモークサーモンをひときれ貰い頬張っている姿が見えた。
「あ、朋兄ちゃん特製のスモークサーモンマリネを長谷川社長が食べたよな」
「ほんとね。浦和水産のものは拒絶しているのかと思ったのに」
「でも、喜んで食べている顔じゃないねえ。なんでそんなに水産を受け入れないんだよ」
長谷川社長の頑なな様子に、伊万里とため息をついていると、やっと朋重がスモークサーモンマリネのひと皿を持って、木乃美とテラス席に戻ってきた。
「ごめん。そこ、長谷川社長のまえに群がっているバイヤーさんたちに、俺のスモークサーモンマリネが目にとまったらしくて、食べてみたいと言われて振る舞っていたんだ」
木乃美に食べさせたくて持ってきたのに、精肉屋さんブースの前でバイヤーさん達が、余所にある他社ブースの海鮮ものに視線を奪われてしまったらしい。それで長谷川社長が『うちの目の前で商売をするな』と怒ったのだとか。
「うちの浦和水産ブースにありますよと伝えたけれど、バイヤーさんたちがすごい突っ込んできて断れなかったんだ。でも、マリネドレッシングも、長谷川さんのローストビーフドレッシングも荻野のスマートトマトを使っているので食べ比べたいと説明しておいた。そうしたらさ、バイヤーさん達が『そのドレッシング、海鮮版とステーキ肉版ってことだよね。食べ比べたい』とか『荻野のスマートトマトも試したいな』とか、興味もってくれちゃっていたよ」
実家会社のスモークサーモンよりも、荻野のトマトをうまく宣伝してきたという夫の報告に、千歳も伊万里は驚き、でも喜んだ。
「朋兄ちゃんったら。実家の製品より、婿入りした家のものをアピールしてくれるなんて立派な婿じゃんね、それ! でもさあ、うちのトマト、いまのところ荻野の製品用だからなあ」
「伊万里のトマトおいしいよ。あれ、いろいろ卸すとしたらどうなるのかな。ここのところは、社長のお父さんに相談しないとわからないね」
伊万里のトマトが思わぬところで注目されたのも意外で、でもそれならばトマトジャム以外の道もあるのならどうすればいいかなどを思い巡ってしまった。
するとそこに、朋重についてきて、またもや静かに控えていた木乃美が入ってくる。
「私、そのスマートトマトにすごく興味があります。製品加工するまえの、トマトそのもの、食べてみたいです」
眼鏡の彼女の視線が、伊万里へとまっすぐに向けられていた。
そのトマトの管理は伊万里がしているから、お願いをするなら彼だと思っての視線だった。
木乃美はまだ知らないのだろう。父親が荻野の子息と見合いを望んだ発言など。でも伊万里も見合いを望まれたお家のお嬢さんと意識してしまうかなと眺めていた千歳だったが、弟もなんの気もない様子で木乃美に答える。
「そんなに興味があるならおいでよ。このドレッシング、ローストビーフに凄い合っていたよ。これだけ美味しく活用してくれたのなら、原材料のトマトも一度食べてみてほしいな」
「ほんとうですか。スマート農業にもすごく興味があるんです」
じゃあ、予定を合わせようか――と、二人がスマートフォンを取り出して、連絡先IDの交換を始めた。
見合い……、しなくてもいいんじゃ?
千歳はそう思ってしまった光景だった。
朋重はなにも知らないからニコニコと、義弟と女の子が連絡先交換をしているのを眺めているだけ。だが不在の間に見合いを申し込まれていたと知ったら彼も驚くだろうなあと千歳は思う。
そんな木乃美に、朋重がやっとトマトジャムを使ったスモークサーモンマリネを差し出した。
木乃美も、一切れ口に運んで『おいしい!!』と可愛らしい驚き顔を見せてくれる。
「私は玉ねぎを刻んだドレッシングでしたが、浦和さんは玉ねぎのスライスとニンジンとピーマンの千切り漬けなんですね。スモークサーモンに合っています。美味しいです!!」
「木乃美さんのドレッシングもお肉にすごい合っていたよ。このトマトジャムの売り方、また増えるんじゃないかな。どう荻野室長」
「うん。まさか、朋重さんが活用しているように、ほかの方もこのように活用しているなんて思わなくて。そうね。こんど、また違う売り方できるかもしれないわね。ねえ、伊万里」
「そうだな。今日、連れてきてもらってよかった。おいしいお肉に出会えたのも嬉しかったけど、俺、こんな品評会初めてで、こんなふうに他の業者さんと触れ合うことで勉強になるって初めて感じられたよ。また来たいな」
食べる戦闘要員のつもりでやってきた伊万里だったが、仕事としてもなにやら目覚めることができたようだった。
「木乃美さん。あとでお父さんにもう一度謝ってくれるかな。ほんとうに、ひと皿、木乃美さんと食べ比べしたくて持ち込んだだけなんだ。長谷川さんと対面しているバイヤーさんを横取りするみたいにしてしまって申し訳ない」
朋重が頭を下げると、木乃美も『やめてください』と慌てた。
「こちらこそ、口が悪い父で申し訳ないです。今回だけではありませんよね。ここ数年、父は浦和水産さんに対して、だいぶ失礼な物言いをしてきたと思っています。特に去年までは兄だけが父と一緒に参加していましたが、兄が注意をすると父は息子には折れたくなくて、ひっこみがつかなくなって、会場であるこの場でも親子で険悪になって最悪の仕事になるとぼやいていました」
なんか目に浮かぶなあと千歳は思ったが、苦笑いを浮かべている朋重も伊万里もおなじことを感じているのだろう。
木乃美もそんな父の所業に兄と頭を悩ませていたとかで、今年は娘の自分がそばにいるなら少しは態度を変えてくれるだろうからと、お兄さんと時間差交代で会場入りすることになったのだと教えてくれた。
「でも、娘として言い訳をさせていただけるのなら。それは、大事に育てた牛たちですから、命をもらっている以上、最高の形で届けたいだけなんです。いい加減に食べられることもすごく嫌います。そのかわり、美味しく食べてもらうことが、最上の喜びなんです」
なので、行き過ぎた言葉をお許しください――と、眼鏡の彼女が楚々とお辞儀をしてくれた。
「わかりますよ。おなじ食品を扱う業者なのですから。僕の実家も、危険な海で漁師が揚げてくれたものは大事に届けたい想いで経営していますから」
「私もです。お父様のお気持ちは当然だと思います。手塩にかけて育てられたのならなおさらだと思います。私も祖母や父に常々、お客様に喜ばれるものを届け続けることと言われておりますから」
朋重と千歳がそろって賛同の意を唱えると、木乃美もほっとした笑顔を見せてくれる。
「おなじ気持ちをお持ちくだることがわかると、これまでの心苦しさが軽くなります。申し訳ありませんでした。副社長のお兄様、浦和社長にはとくにご迷惑をおかけしたと兄も心痛のようでしたから。父はただ、大事な牛たちが、どこのなによりも、最高のご馳走であってほしいんです。子供たちをいちばん自慢に思っているやりすぎる親心とおもっていただけると助かります」
機会があれば浦和さんに伝えたかったと、木乃美がすこし涙ぐんでいたので、荻野の三人はともに黙り込んだ。
でも木乃美の言葉は、千歳の胸の奥に響いた。
和牛は特に、仔牛のころから丁寧に育ててきたはず。いわば子供みたいなものだ。その子供を人間の食のために
本当に職人、常に譲れない想いを携えていて、常に真剣勝負。そして……『ほかのご馳走に負けたくない』。それが『浦和水産に負けたくない』、この社長の信念で心持ちなのだと、千歳は気がついてしまったのだ。
「父、あんなふうに浦和さんを目の敵にしていたのは。実は、浦和さんの商品が大好きだからなんです」
え!? 思わぬ言葉に、千歳はおろか、社員である朋重のほうが驚きとびあがっていた。
「え、そうだったんだ? えー……、あっ、だから! 自分が好きなもの以上のご馳走にしたいってことだったのか」
「はい。さきほど、なんだかんだ文句をいいながら、副社長さんが作られたスモークサーモンマリネを頬張っておりましたでしょう。あれ、好物なんです。父の晩酌には、浦和水産のスモークサーモン、ひとくち筋子、鮭とば、ですもの。絶対にかかさずに冷蔵庫に補充してますから」
「そんなに! 兄が聞いたら喜びますよ、それ!」
文句をいいながらも、朋重のマリネを頬張った途端に、黙り込んでいた長谷川社長の姿を千歳も思い返していた。
あれ、大好きだから黙り込んでいたのかと思ったら、なんだか笑いそうになってきた。
気持ちが行き過ぎて熱くなりすぎて口が悪くなってしまうのは難点だが、そうでなければ純粋すぎる熱血社長じゃないかとイメージが変わってきた。
長谷川精肉ブースの前では、『1ポンド山分けシェア』のサーロインステーキを頬張るバイヤーたちの満足そうな笑顔がたくさん揃っていた。
配り終えた長谷川社長も満面の笑みだった。
その社長の隣に、背が高い男性が入ってきて社長と交代で肉を焼き始めている。
「あ、兄が来ました。浦和水産さんに父の気持ちを伝えたこと報告いたしますね」
「僕も、お嬢様から伺った長谷川社長の真意を兄に伝えておきますね」
社長同士だとどうしても社を背負って張り合ってしまうだろうところ、補佐についている娘と弟というそれぞれの立場で想いを伝え合うことができたようだった。
そこで息子と交代をした長谷川社長がまたテラスに戻ってきた。
「木乃美、浦和水産の社長と奥様もお呼びしてこい。義妹さん義弟さん、弟さん同様の肉を今年もすこしでも食べていけってな。そのついでに。あちらさんおすすめの商品をもらってこい。こっちは忙しくて手があかないからさ」
「もう、お父さん。自分で行けばいいでしょう。皆さん、興味あるブースにご自分の足で出向いてご挨拶をしているというのに!」
浦和水産に興味もあるし招待もしたいし挨拶もしたいけれど、自分から素直に出向く気持ちはにはまだなれないらしい。木乃美が娘として諫めたが、そこで朋重がいつもの笑顔で間に入った。
「いいえ。ご招待、ありがとうございます。弊社の商品も興味をもってくださって。いま兄と義姉を呼んできますね。それからほかの食品もこちらに持ち込んで来ます。お待ちくださいね」
また栗毛の彼の軽やかさに、父と娘が大人しく引き下がってくれた。
朋重が再び『行ってくるよ』とテラスを出て行った。
また千歳と伊万里が残された席に、素直になれない父とむくれている娘も置いておかれる。
黙っていた父娘の空気を変に乱さないようにと、千歳も伊万里も食べ終わったステーキ皿を見つめているだけに。そのうちにやっと、父娘が会話を再開させた。
「お父さん。1ポンド山分けシェア、成功したようね」
「おう。いま龍介が続けて焼いてくれてるから、父ちゃんもひと息つくことにした」
頼もしそうな長谷川家長男さんが、トングを持っている逞しい腕で大きな肉を三つほど一度に焼いている。
長谷川社長もそれで張っていた気が緩んだのか、群がるバイヤーや他社社員の試食をながめて、穏やかなお顔になっていた。
ひと息ついた父親の表情に安心したのか、木乃美から近づいて話しかけた。
「お父さん。私ね、伊万里さんが育てているというスマートトマトの畑の見学、お許しもらったの。おじゃましてもいいよね」
「はあ? スマートトマト? おまえがドレッシングの調合に使っていたジャムのことか」
「あれ。荻野製菓さんが販売しているものなの。原料のスマートトマトは伊万里さんが畑で育てて管理されているんですって。トマトそのものを食べてみたくって」
『伊万里が育てているトマト』ということを知ったからなのか、『俺様が気に入った男に娘から会いに行く』からなのか、長谷川社長が『なにいぃい!?』と素っ頓狂な声を上げた。
もちろん、父親が伊万里を気に入って見合いをさせようとしていることなど知らない木乃美は、父親の驚き方に目を丸くして唖然としている。
「え、なに。お父さん……。私、勉強になると思って……。荻野製菓さんの大事な畑だから、軽々しく行くのは駄目ってこと?」
「お、おおおおまえがつくっていたあのドドド、ドレッシング、伊万里君のトマトを使っていたということなのか??」
「今日だけね。直営レストランではまだ使ってないわよ。今日の試食用にだけ」
「よし! 行って来い、行って来い! そうかそうか。あのジャムのトマト、伊万里君が育てているのか!! よっしゃ木乃美、おまえも異業種の勉強してこい!」
長谷川社長が急に娘を伊万里へと押し出してくるので、木乃美が戸惑っている。
だがそんなときも、伊万里はけろっと答える。
「よかったら。お父さんもどうぞ。俺、農業専門なんですよ。お肉の御礼に、今度は俺のスマートトマト収穫し放題とかどうですかー」
長谷川社長、嬉しそうに飛び上がり『絶対に娘と行くからな!!』と、木乃美以上に伊万里と堅く約束を交わしていた。
でもお嬢さん本人はまだなにもわかってないご様子なので、父親が一方的に『お見合い的なもの』を進めそうで、同じ娘として千歳はハラハラ見守るしかない。
帰ったらお祖母様と父親に報告しなくちゃいけないなことができたと、千歳はため息を吐いた。
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