3.長子の母になる

 夫の朋重に付き添われ、産婦人科で診察をした。

 見事、『妊娠三ヶ月』と診断が出た。


『はい、おめでっとさん!』


 その夜のことだった。眠っていたら、福神様が扇子を両手にもって『めでたし!』とキメたポーズで登場。


『千歳、そこお座り』


 何故かパジャマ姿のまま、海の水面へと正座させられた。

 夢なのに、千歳の長い黒髪が潮風に吹かれてなびく感触も、風の生暖かさも感じられる不思議な空間。

 初めて福神様を夢で見たときに出会った海の上だという感触もあった。


『ついに私たちも後継者を育てる番に来たようだわね』


 そうですね――と答えたいけれど、夢で千歳は声を発せられない。いつも黙って聞いていることになっている。


『予兆はあったんだけど黙ってたんよ。見ていたらなんとなーく、ちゃんと居てくれるのか居てくれないのか不安定だったもんだからね。現代医学がどんなもんかもちょいと興味もあったんよ。どこのあたりで、確定してくれるんかな~と。あれ、心の臓が動いていることで大丈夫ってことなんね。まめっこいのが、ぴょこぴょこ脈を打って動いているの、めんこいわね! 感動したわ~! 全力で守りにいきまっせ!!』


 それは流産の恐れもあったということ?

 千歳は青ざめた。確かに仕事で根を詰めていたところがある。夫と『そうなる行為』をしていたくせに、自覚がなかったということになる。


『これから、もう少し慎重におなり。ひとまず生命が宿ったけれど、今後だって、私も、医師も、絶対大丈夫は言えんのよ。守るのは母親の千歳なんやから……』


 いままで見たこともない、優しい笑みを福神様が見せてくれた。


 福神様はおじさんに近い存在だった。小学生の時からずっと、千歳のそばにいてくれた頼もしいおじさんだ。その神様に言われ、千歳はこっくり無言で頷いた。


しばらくおいしいものも我慢して、バランスの良い食事と『適切な量』と規則正しい生活を心がけます――。


 いつも心の中で唱えている。でも福神様にはお見通し、聞こえているよう。


『えー、寂しいなあ。私も我慢かなあ。耐え忍びますわ。お子のためですもんなあ。麦酒、しばらく我慢なの、きっついわ~』


お供えでは駄目なのですか。


『私と千歳は一蓮托生でないと、成果は生まれんのだよ』


 常に一心同体。お互いが違うことをしていては、ご加護はないとも聞こえた。千歳のために、食いしん坊を我慢してくれるとまで言ってくれているのだ。


福神様は、どうして私のところに来てくださったのですか?

私のお腹の子にはどんな神様がついてくれるのかご存じなのですか?


 聞いた途端、持っていた扇子で顔を隠し、意味深な笑みを刻む口元だけ見せて、その日の福神様は海上の空へと柔らかい光を纏って消えてしまった。


「千歳?」


 目が覚めると、暗がりの中、隣で眠っていたはずの朋重が千歳の顔を覗き込んでいた。


「朋君……」

「唸っていたから。気分が悪いのかと思って……」

「福神様が来ていたの」


 彼がちょっと驚いた顔をした。彼の瞳は明るい色だから暗がりの中でも良くわかった。


 すぐそばに寝そべって、大きな手で千歳の頬を撫でてくれる。千歳もうっとりと目を瞑り、その感触にとろけるように甘える。そのまま、夫の首に腕を回して抱きついた。朋重も、千歳の身体を横から抱き寄せ包み込んでくれる。でも、いままでのように思いっきり千歳の身体にのしかかるように体重はかけてこない。そっとそっと、特のお腹に触れないよう気遣っているのがわかった。


「神様、なんだって?」

「流産するかもしれなかったから様子見をしていたって」


 それにも朋重は息を引くような驚きの息づかいを見せた。

 千歳も少し苦々しく思いながら、そっと目を閉じる。


「子どもを望むようなことをしていたのに。仕事にかまけて、重要視していなかったこと、もう一度よく慎重に考えなさいと言われた」

「そうだったんだ……。ごめん。俺も、軽く考えていたかも。愛しあって出来たのなら、『そこからだ』と思っていた」

「私も……。自分たちがわかる前から、もう慎重になって覚悟を決めておかなくちゃいけなかったんだね。仕事が優先だなんて、どうして」

「でも、それならここからは本当に大事にしよう。千歳のお腹にいる子は、荻野家の長子だ。大事に育てて後に繋ぐ使命が俺と千歳にはあるのだからね。大丈夫。俺も全力で守っていくよ」


 そっと目元にキスをしてくれた。

 ほんとうに、優しい旦那様、婿様だった。

 彼を『いいじゃない』と見初めてくれた祖母に感謝をしている。

 さすが縁結びの神様がおそばにいるだけある。

 千歳も会ったその日から、違和感がなく、戸惑いがあって躊躇った日々もあったが、いまは朋重と夫婦になれたことを幸せに思っていた。


「荻野の伝承でいくと、この子に神様がつく予定ってことだよな。どんな神様かな」


 朋重はずっと千歳のお腹を撫でていた。

 もう伝わっているはず。パパの大きな手と温かさと優しさが。

 千歳もどんな神様がつくのか、ドキドキもしているしワクワクもしている。

 でも。長子が必ず見るとは限らないとも言われていた。

 いままでもそんなこと、あったのかと千歳はふと考えてしまった。



---😇💕👶



 婿入りをしてくれた朋重は、跡取り娘の妻を支えることを信条に結婚してくれたため、ほんとうに甲斐甲斐しく世話をかってでてくれる。

 結婚してからも、妊娠する前だって、家事分担はあたりまえ、家業へ勤しむこともあたりまえ、むしろ妻の責務だから、夫としても存分に協力するという姿勢をみせてくれていた。


 見合いだったり、政略結婚的な経緯はあったものの、出会った後は本当に熱烈な恋を謳歌して、愛を育んだと言い切れる。

 千歳が初めて、心から安心して溺れることが出来た恋で愛だった。

 結婚後は、祖母が相続してくれた植物園近くのマンションで新婚生活を堪能した。

 仕事も夫と邁進して充実した日々の中、生まれたちいさな命。


『妊娠しているかも』とわかったらすぐに、朋重が産婦人科に連れて行ってくれた。しかも、男性だからと恥ずかしがることもなく付き添いもしてくれた。

 診察室で、千歳と一緒に診断を聞いてくれたのだ。

 千歳のお腹に生命が宿っているとわかった時の、夫の打ち震える感激の顔。そんな朋重の喜びの表情を、すぐ隣で目にすることが出来た千歳は、ほんとうに幸せ者だと思っている。


 朋重はもう、あの麗しい琥珀の目をうるうるさせて『ちーちゃんみたいな女の子が生まれるのかな。伊万里君みたいな男の子かな』と喜びいっぱいに微笑んでくれ、そのまますぐにスマートフォンを手にして、浦和の義両親に報告。

 千歳も両親と祖母にも連絡、実家両親には初孫になるので歓喜にわいていた。

 祖母もひ孫誕生に喜びつつも、『跡取りになるだろう子だから大事にね。神さんのいうこともよくお聞き』とも言われた。

 伊万里もあたふた。『俺、叔父ちゃんになるのかよ。跡取りになるよな、その子。神さんつくよな、きっと。もしかして、俺たち姉弟みたいに大食いになる? え、どうなるの、え、え』と家族の空気がかわるだろうことに戸惑いつつも、『女か男かわかったら、すぐ教えて! なんか贈るし、おっちゃんとして守ってあげなくちゃ』と変な使命感も湧き上がっているようだった。



 妊娠がわかって数日経ったところで、千歳の両親、父『遥万』と母『凛香』が訪ねてきた。

 相変わらず仲睦まじい密着感で、それ以上に、孫が出来ると満面の笑みでやってきた。


 植物園の緑が見えるリビングで、朋重自ら、両親に紅茶を振る舞ってくれる。

 婿殿自らのおもてなしに、父も母もご満悦だった。


 この日もきっちりとスーツ姿でやってきた父と、華やかな美魔女のムード満載、ドレッシーなブラウスとスカート姿でやってきた母。

 そのふたりを正面に、千歳と朋重も椅子に落ち着いた。


「あら、朋重君が淹れてくださったお紅茶、おいしいわね」

「うんうん。なんでもできる婿殿で、娘を任せてほんとうに安心しているのだよ。ありがとうね、朋重君」


 わざわざ婿入りしてくれた大事な大事なお婿さんなので、父と母はいつも彼に気遣ってくれている。

 だから朋重も気負わずに、いつもどおりの朗らかな余裕で両親に接してくれる。


「僕が来る前から、千歳さんも完璧なお嬢様でしたよ。彼女も僕が出来ないときは、誰よりも気がついて助けてくれるから、いまの生活を楽しく過ごせています」


 余所様の男児をいただいた側なので、婿殿もつつがなく過ごしていると知り、両親もほっとしている。

 そんな父母の視線が今度は娘へと注がれる。


「千歳、具合はどうかな」

「もうつわりが始まっているのでしょう。あなた、頑張りすぎる時があるから、お仕事もほどほどにしなさい。伊万里も細野さんもいるのだから。ね、あなた。あんまり千歳に無理をさせないでくださいね」


 美しい母の不安げな表情には父も弱いようで『うんうん。大丈夫だよ』と母の手を握っているのだ。

 千歳は、伊万里もだが、両親のこうした熱愛ぶりは子どもの頃から見てきたのでなんら違和感はないのだが、朋重はたまに『直視していていいのかな』と戸惑っているときがある。目のやり場に困るようなのだ。


「働く千歳を労ることは、女性社員が多い荻野の『女性のための働き方』を確立していくことにもなると思っているんだよ。もとより、母さんが社長のときからそうだよ。我が社はそもそも『女性』が守ってきたんだから」

「そうでしょうけれど。やっぱりお仕事も大事だもの。自分の居場所がなくなっちゃうと頑張っちゃう女性たちの心情を忘れないであげてくださいね」

「わかってるよ、凛香」


 いつまでも手を取り合って二人だけの世界にいるので、そろそろ空気を変えようかと、千歳から父に尋ねてみる。


「お父さんは、五代ぶりの長子男児として産まれたんでしょう。どうだったの。お祖母ちゃまもだよね。長子に女児ばかり生まれる家系と言われてきたのに。長子に男児が生まれて、周囲の反応が異なったのではないかなと……初めて気がついたの」


 穏やかな『妊娠報告の親子お茶会』だったのに、千歳の妙な質問で空気が一変する。

 両親も一気に顔色を変えた。

 千歳も緊張をしている。子どもだから見えなかったことがあったはず。ひいては、千歳にも『男児が長子』として生まれたらどうしたらよいのだろう。そんな不安があるのだ。


 長子は女児とは決まってない。その証拠に一代前に長子男児として父が誕生したのだから。そのうえ、父だけが長子故か『神がかり』的な夢を見て、その夢に出てきた聖女とそっくりの女性と出会って結婚もした。そんな不思議な縁を持ち、それこそ荻野的だと証明できてお家に安泰をもたらしている。

 男児が生まれても大丈夫だとわかっている。でも、ほんとうに父は、久しぶりの男児誕生で親族から歓迎だったのだろうか。


 よくある『男も産めない女』の逆バージョン。祖母はなにも言われなかったのだろうか。千歳もだ。男でも女でも授かり物だからどちらでも千歳は歓迎する。でもこの子が男児だった場合に取り巻かれる不穏な空気が充満するなら、払いのける覚悟をしたい。長子の母として。それが気になったのだ。


 荻野の跡取り娘だからこその不安が、いろいろ芽生えている。

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