25.めおとに幸あれ!
海の水平線に茜色、徐々にやわらかい夜明けの空が海の上に広がる。
石狩の沖合で揺れる漁船が一隻。
だが、千歳と伊万里はそれどころじゃない。
乗り慣れていたはずの川端家の漁船。石狩の沖合に出ると、まるで木の葉のよう。船の弦と海面が、同じ高さに揃いそうなほどの波間に揺れに揺れている。海水は被るは、容易く移動できないわで、ずっと同じ場所で踏ん張っているという状態にいる。
「うわわ、姉ちゃん。大丈夫かよっ」
「だ、大丈夫。伊万里も、船酔い大丈夫なの??」
「俺、友だちと釣り船乗ったりするから大丈夫。姉ちゃんこそ……酔わないのかよ」
「大丈夫。なんでだろ!?」
「それもぜってー神さんのおかげだろっ。ありえねえっ」
いままでもそうだったが、乗り慣れていないはずなのに千歳は船酔いをしたことがない。
でも今日の船は波にもまれてかなり上下に揺れ動いている。
船の弦は海面に近づき、ともすれば海水が入ってくるのではないかという錯覚が起きるほどに揺れているのだ。
そこは常に潮の
今日のタコ漁は樽流しと呼ばれる漁法。
大きな針『イサリ』に、タコを誘うホッケなどの餌をつけておく。イサリに結んだロープの先に樽を付ける。それを船から海面に放り投げ、海中にはイサリが沈んでいき、海面には樽が浮かぶ。これを風や潮にまかせて流す。
樽が浮きの役目となっており、他の樽に比べておかしな動きをしていたら、イサリにタコが食いついた合図だそう。
川端氏のタコ漁は、この『イサリ樽流し漁』を用いている。
漁場に到着すると、朋重がイサリとプラスチック製の黄色の樽をいくつも海面に投げ入れていく。幾重にもなる波の向こうへと黄色の樽が流れていく。
朋重は黙って、流されていった黄色の樽を凝視している。
いつも快活で明るい笑顔を絶やさない男性なのに、今日は寡黙な彼。今朝は髭も剃らずに早朝に乗船したため、ほんとうにあの見合い写真のような無精髭の男に成り代わっていた。
「おっちゃん。あの桶の動き、来てるよな!」
「おう! よくわかったな。確実に来てるぞ。いけ、朋! 船は俺が操作する。まかせたぞ」
「おっしゃあーーッ」
普段はお上品な御曹司風の栗毛の彼が、いつにない叫び声を上げたかとおもうと、船から海へと放っていたロープを力強くたぐり寄せていく。
「あわわ、いつもの朋兄ちゃんじゃない……!」
「写真で見るより、朋重さんったらワイルド!!」
荻野姉弟、傍らでおののきながらも、漁師スタイルの朋重に釘付けに。
「いいぞ、朋! 離すなよ、絶対、でっかいのかかってるわ、これ」
「もちろん! 逃がさないぞ、手応えある。これ、千歳の福神様に捧げるんだ。こい、来い来い!!」
伊万里も『うわー、義兄ちゃん、スゲェ!』と叫びながらも、カメラレンズをしっかりと向けて撮影に勤しむ。
朋重はもう、そばで伊万里がしていることも意に介さない様子で、必死にロープをたぐり寄せている。巻き上げる機械もそばにあって、ジージーと響く音が、上空で何羽も鳴いている海猫の声と混ざり合って甲板は騒がしくなる。
やがて青緑色に透ける海の中から、ひらひらと蠢く大きな赤い物体が浮かび上がる。
それを見て、千歳も伊万里も仰天の声を上げる。
「で、で、で、でっけーー。うそだろ、朋兄ちゃん、こんなん引き上げられないって!」
「こんなに大きいの!! え、え、え。朋重さん、大丈夫なの!?」
珍しくおろおろしている荻野姉弟に、朋重がそこはぱっと爽やかな笑顔を見せた。
「大丈夫だって。俺、これ何度もやってるんだからな。待ってろ。たくさんタコ天を食べさせてやるからな!」
ワイルドなんだけれど、いつもの爽やかお婿さんスマイル! 千歳は思わずキュンとしてしまった。
お上品な栗毛クォーターの婿さんだと思っていたら、お見合い写真以上の男らしさ!!
『婿殿、素晴らしい!! 男前ですぞ!! ほらほら、よっせよっせ、頑張りなされ!!』
千歳の脳内でも、金の扇子を両手にもった福神様が『よっせ、よっせ、よっせっせ!!』と応援のかけ声を始めたではないか。シャンシャンと聞こえる鈴の音、どどんと太鼓の音まで響いてきて脳内が騒がしい。福神様が、多大なる期待を抱いていることがわかる賑やかさだった。
「朋重さん、福神様が扇子を持って応援してるーー!」
「マジで! 任せろ、あとひといき!!」
揺れる船上、潮の飛沫が被っても、千歳ももう夢中で朋重の横で水揚げを応援してしまう。
「おっし、いいぞ。朋! あげるぞ!」
「たのみます、洋太おっちゃん!」
船のすぐ目の前、川端氏が仕掛けたイサリには細長い足をひらひらを揺らめかせている大きな蛸。仕掛けのロープを力一杯両手で引いている朋重のそばで、川端氏が獲物を甲板に引き上げるための
イサリにかかっている蛸に鈎をひっかけて、棒を引っ張り上げる。同時に朋重もロープを引っ張り上げる。ふたりの男の力が合わさって、海面から蛸がザバッと飛沫を散らしながら出現。船の縁を乗り越えて甲板へと滑り落ちてきた。
想像以上の大きさの蛸が足を八方にでろんと伸ばした状態になり、千歳と伊万里の足下まで広がってきた。
「おぉぉおお、すげえ! 朋兄ちゃん、おっちゃん!! 想像以上のでかさ! 祖母ちゃんもびっくりするはず」
伊万里の興奮具合に、水揚げ格闘を終えた朋重と川端氏が揃って笑う。
「そんなびっくりしても。たぶん、この蛸ひとつ分は、伊万里君は平らげているはずだよ」
「あはは。そうだな。そうだな。千歳ちゃんと、伊万里君で、一匹ずつ持って帰って丁度いいぐらいだな」
「うっそだー! いくら俺でもこんなでっかいタコ一匹食べてるはずない!」
『こんなデカいもの、ひとりでは食えねえ』とムキになる伊万里に対して、『食ってる、食ってる』と、朋重と川端氏も囃し立てて引かなかった。
千歳自身は『いや、意外と食べちゃうかも??』と密かに思っている。そう感じてしまうのは、『おーほほ! これ、婿殿から私への捧げ物だったわよね。タコ天、タコ飯、酢蛸に、タコ刺し、あーあれもこれも、味わえますなあ。黒麦酒もあるから、楽しみ楽しみ』と、福神様がすっかりその気だったからだ。
「いいとこに婿入りして、お上品な婿さんで収まるかとおもったら。朋、漁のこと、ちっとも忘れていなかったなあ。安心したわ」
「俺も久しぶりで、なんか爽快だよ。やっぱり俺、海がしっくりする」
男らしい朋重を見ることができて、千歳は惚れ直していたところ。
栗毛のクォーターだけれど、やっぱり彼の血には石狩漁師の血が入っている。保食神様の元で紡がれてきた家系の男児だと実感することができた。
漁協でお裾分けしてもらった蛸は川端家に持ち帰る。蛸づくしのご馳走をつくってくれることになった。
船上でたくさんの潮の飛沫をかぶったため、川端のお宅でお風呂いただくことに。
お風呂でさっぱりしたら、早朝の漁で疲れがでたのか、千歳に眠気が襲ってくる。
大姑の富子お祖母ちゃんが、客間で横になれるようにと簡易的な寝床をつくってくれた。
「漁、けっこうきついでしょ。女の子なのに、よく一緒に行ったね。私、祖父さんが現役だったころでも、ついていったことないよ」
「朋重さんの漁師姿、一度でいいから見てみたかったんです。彼も川端さんも、かっこよかったです」
「あら。朋君はもともとかっこいいけど。うちの息子もかっこよいと言ってもらえると嬉しいね。ほら、遠慮せずにお休み」
「ご飯作りをはじめるまでには起こしてくださいね。私、作り方教わりたいです」
「はいはい。起こしてあげるからお休み」
優しいお祖母ちゃんの言葉に甘え、昼前だったが一休みさせてもらうことにした。
大きな客間。障子と畳がある昔ながらの和室。角には神棚――。
静かな漁村のおうち。千歳は微睡み、深い眠りに落ちていく。
『ありがとうね。今日もおいしいお菓子を戴きました。あなたがこれから守っていくこの菓子。私も大事にしていきたい。万人に愛される菓子であるように、真摯に守っておくれ。これからも遠慮なくおいで――』
艶やかで長い黒髪をしっとりとたらして、濡れたような黒曜石の瞳で千歳を見つめている女神がすぐそばに。
保食神様だった。こんな近くに寄ってきて話しかけてくれたのは初めてだった。そしていつもどおり、千歳から神様に話しかけることはできない。
『婿殿と幾久しく
柔らかな声に、しとやかな眼差し。冷たい手が千歳の額を撫でてくれた。
最後に千歳の手を握ると、保食神様は白い和装束姿ですっと立ち上がり、にっこりと微笑み消えていった。
そこで千歳は目覚める。
いつもと違う夢。仰向けで横になって寝そべっているまま、千歳は神棚のほうへと視線を向ける。
その時に気がついた。無意識に握っていただろう手の中に、なにかが入っている?
そんなはずはないと、千歳の胸の鼓動が早くなる。こんなこと、あっていいのか。
そっと手のひらを開けると――。千歳の手のひらに、真っ白な真珠が一粒だけあったのだ。
朋重にもらった真珠でもなく、千歳が所有している真珠でもない。持ってきたおぼえもない。
だったら、神様が?
初めてのことだったので、さすがの千歳も困惑していた。
『持っておきなされ。きっとなにかの役に立つ、大事にしなされ。千歳も、この家に出入りできる者として許された証だよ。妻として気に入られたのだよ』
福神様の声が聞こえ、それならば、これは本当に保食神様からの贈り物なのかと千歳は驚く。
「千歳、目覚めたかな。よかったら、神社まで散歩に行かないか」
朋重が客間まで様子見に来てくれた。
もう漁師の雄々しい格好ではなく、いつもの品があるカジュアルファッションの彼にもどっていた。
「どうかした?」
千歳の様子がいつもと違うことにも、彼はもうすぐに気がついてくれる。
手のひらを握りしめていた千歳は、また開いて、確かにそこにある真珠を見つめて決意をする。
「見て。夢から目覚めたら、握っていたの」
とても小さな真珠だが、整った丸みで艶も美しい。
寝床から起き上がっている千歳の元へと、朋重も座り込んで覗き込む。彼はまだ千歳がなにを言いだしたのかよくわかっていないようで、訝しんでいる。
「千歳の真珠?」
「ううん。いまここで目覚めたら手の中にあったの。夢の中で保食神様が私の手を握ってくれていたから、きっとその時に。すぐそこに神棚があるでしょう。たぶんそこから」
朋重が息を引いた様子が伝わってきた。少し青ざめているようにも見える。彼もきっとそんなことあるもんか、だとしたら、妻の精神が変な思い込みで演じているのだと言いたそうだった。
しかし、それも一瞬。いつもの彼らしい笑顔を見せてくれ、まだ布団の上で半身起き上がって座っているだけの千歳を抱き寄せてくれた。
「ここの神にも気に入られたんだ。よかった。これで、俺の家と千歳の家は完全に結ばれたということだよな」
「信じてくれるの? 私もこんなことは初めてで……。驚いているんだけれど。でも福神様がなにかの役に立つと仰っていて」
「だったら。大事にとっておこう。川端家の皆も俺たちの披露宴に家族全員で出席してくれることになったし、この家とも縁続きになったんだよ。きっと」
すると朋重は正座をして神棚へと姿勢を正した。
「御礼をいわなくちゃ」
そう言いだした彼に千歳も従って、朋重の隣に同じように正座をして並んだ。
「彼女と、荻野の菓子、浦和の水産、石狩の海を守っていきます」
「彼と共に、万人に喜ばれる食を提供し、真摯に守っていきます」
もうすぐ
互いに瞑っていた目を開けて、見つめ合う。自然と笑みがこぼれた。
「神社に散歩にいくのだから、その時に御礼を言えばよかったかな」
「ううん。きっと、少し前までこのあたりにいらっしゃっただろうから、すぐそこで聞いてくださっていたと思う」
千歳は神棚の下を指さした。
そこには荻野の個装菓子の包みがひとつ落ちていた。
苺チョコサンドのさくさくパイの袋。中身はそのまま入っている状態だったが、お供えしていたものが一つだけ落ちていることに気がついた。
「俺が来たから慌てて出て行っちゃったのかな。じゃあ、忘れ物だな。神社までお届けに行くか」
「そうね。桜が満開なのでしょう。伊万里も行きたがっていたから、待ちくたびれてるんじゃない」
「いやいや、おっちゃんと酒盛りして、伊万里君もさっきまでうとうと眠っていたよ。ミチルちゃんも、旦那さんの恭太君も、息子君を散歩ついでに連れて行きたいというから、皆で一緒に行こう。そのあと、晩飯作りを始めるってさ」
正座から立ち上がった朋重が笑顔でそう言いながら、神棚の下にひとつだけ落ちているさくさくパイの袋を拾いに向かった。
不思議な一族、跡取り娘の夫になる彼は、もう『不思議』とは思っていないのだろう。
千歳に起きる不思議な出来事は、朋重にとってももう、日常になったと思わせる姿だった。菓子を拾う彼の姿を千歳はまた愛おしく思うのだった。
---✿・✿・✿
朋重と初めてのデートで漁船に乗ってクルージング。その海上で見つけた保食神が祀られた祠。
その祠がある神社へと、荻野姉弟と朋重、そして川端家息子夫妻の恭太とミチル、一歳になろうとしている息子君と向かった。
坂の上、高台にある神社に辿り着くと、そこは桜満開。花びらが降りそそいでいた。
桜の花びらの中、階段を上がって境内へ。
祠が見える境内に到着すると、そこには遠くまで広がる碧い海。
春の陽射しにきらめいて、今日も波が輝いている。
この高台と崖続きで連なっているオロロンライン。少し向こうには緑に覆われた丘がくっきりと見える。丘の上に輝く白い風力発電風車が、今日もゆっくりと回っている。
石狩の風、潮の匂い、海の光、桜の花びら。春の海の空気に包まれる中、荻野姉弟と婿殿と川端若夫妻で再度お参りをする。
これから、千歳のそばにあるだろう人々との出会いに感謝して。
この縁を大事にしていきます。神様たちのことも。
千歳は再度、夫となる朋重と手を合わせ、最後に忘れ物の菓子を境内にお供えした。
石狩を縁に結ばれた
荻野千歳、荻野朋重。
秋晴れのある日に、神宮で婚儀を執り行った。
朱色の打ち掛け花嫁衣装の新婦、紋付き袴を着こなす栗毛の新郎。
神前にて、朱の杯にて三三九度を交わした。
その途端だった。
『これにて
次なる使命は跡取りでありますぞ!
お子にはどんな神がつくのやら。たのしみですなーー!』
千歳、また私と婿殿とがんばりまっせ!!
相棒の神様からの祝福と、これからも共にいられることに、花嫁衣装の千歳はそっと微笑む。
【 食べる魔女の婿取り物語(終)】
※本編はこれにて完結ですが、そのまま続編へと連載を続行いたします。
次回からは『食べる魔女の跡取り事情』
ふたりの子供は女児か男児か、はたまたどんな神様が舞い降りてくるのか。です。
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