19.食べられない!


 世の中は、自分たちの思い通り。まさにそのように生きてきただろうメリィと母親の紹子。母親は厳つい顔つきで威嚇する険しさを放ち、娘の芽梨衣は我が儘放題に育てられてきたまま子供っぽく恰幅の良い中年女性で、二人揃って邪気を振りまいて意気揚々としていた。


 なのに。千歳に会いに来た芽梨衣は、心細そうに震え、やつれきっていた。


 またもや本社ビル一階本店に訪ねてきたという。若干の異臭を放っていたため、同期の小柳店長も店頭でいざこざする間もなしと判断をしてくれたのか、すぐに企画室にいる千歳に連絡をしてくれた。


 今度は二階にある客室に通すように伝える。

 そばにいた伊万里と細野が付き添ってくれることに、さらに祖母にすぐに連絡。朋重にも連絡をすると『父と兄と行く』との返事。浦和水産の本社からすっとんでくるとのことだった。


 客室は取引先と打ち合わせをする時に使っている部屋だった。

 カフェVIPルーム並みとはいかないが、荻野の客室なので、おいしいお茶が飲めるような空間になっている。インテリアにハイブランドの食器を揃えてビジネスルームにしては少しばかり豪奢に仕立てある。

 大通公園とテレビ塔が見える窓辺を背後に、やつれたメリィがひとりで座っていた。


 千歳が入室すると、顔を上げた彼女の頬がこけていることにも気がつく。

 あまりの様相に、神様たちに手ひどくやられたことが窺えた。


「いらっしゃいませ。どうかされましたか」


 今日はパンツスタイルでスッと現れた千歳を見て、メリィはすかさずテーブルの上にさっと、あの日奪い取って行ったジュエリーケースをふたつ差し出した。


「返します。ごめんなさい」


 へえ。謝れるんだと千歳は意外な思いを抱く。

 ほんとうは娘の彼女も被害者だと思い改める。母親から、あんな非常識でも平気で生きていけることしか、教えてもらえなかった人生だったのだろう。

 彼女の目の前の椅子へと、千歳は座る。伊万里はドアの入り口に立ったまま、少し距離を取ってくれた。一人きりで来た子供のような彼女を、大人二人で威圧しないためと思ってくれたのか。こんなところ、弟は気が利く。

 さらに細野が、お茶の準備へと外へ出て行った。


「お母様はどうされたのですか。いつもご一緒でないと、貴女もお困りなのでは」

「ママは、入院しているの」

「入院? どこか悪くなられたとでも」


 内心『うわ、神様たち、そこまで怒っていたのか』と千歳自身がゾッとしてしまった。

 ドア前に控えている伊万里も『神さんたち、マジ怖えぇ』と震え上がったのがわかる。


 メリィが涙をぽとぽとと落としながら話し始めた。


「ママと私、あれから急にご飯がうまく食べられなくなったの」

「うまく、食べられない? どのように……ですか」

「いつも、おいしいレストランに行ったり、お酒を飲んだりしていたんだけれど。そのお店に行けなくなっちゃったの」

「お店に入れない、ということですか?」

「ママと今日の夕ごはんはあそこだねと、毎日どこかに行くのに。でかけようとすると、タクシーのタイヤがパンクしたり、タクシーがつかまらなかったり、電車が遅延して待っても全然来ない事故だったり、ママの知り合いのおじさんに車で来てもらっても、おじさんが事故に遭って車が壊れちゃって使えなくなったりいろいろ」


 うわー徹底的すぎる……。もう神様たちの所業と言わざる得ない偶然の数々に、千歳は苦笑いをこぼす。

 まずは食べ物を粗末にした罰で、食事へとでかけるための交通手段を遮断したようだ。


「それなら徒歩で行ける近場のお店でもよろしかったのでは」

「行くお店がなぜかその日だけ臨時休業だったり、前は営業していたのに休業だったりするの」

「ファミレスとかあるじゃないですか」

「行こうとすると、お客さんいっぱいでママが怒って出てっちゃう。空いていて注文が出来ても、またママがこんな安物食えるかって怒ってお店に迷惑かけて追い出されちゃう」

「コンビニでお弁当を買うとか、スーパーで惣菜を買うとかもできますよね。ファーストフード店でテイクアウトもできますよ。なんとか食べたいのならば、それもひとつの手段ですよね」


 そこでメリィがまたわっと泣き出して、テーブルにつっぷした。


「だって。買ったお弁当とか惣菜に絶対になにかが入っているんだもん!」

「え、入っている?」

「髪の毛とか! 爪の欠片とか、虫とか!!! でも怒ってお店に持っていくと、なんにも入っていなくて、威力営業妨害だって警察呼ばれちゃうんだもん」


 その現象は何故か。千歳はすぐにわかった。虫を食品に混入させる悪行をしていた罰が当たったのでは? その言い分だと、髪の毛も爪の欠片もいままでやっていたのか――と、やっぱり許せないと千歳の腸が再び煮えくりかえる。だが、それはもう神様もご承知だったのか。悪さをやり尽くしてきただろう母子にそっくりお返しをしたようだった。


「それで。どう食べてきたの、今日まで」

「ママが久しぶりに自分でご飯を作ってくれるようになったの。でも、不味いの。ママ、自分でご飯を作ってこなかったから。でも、ご飯を作るなら、邪魔が入らないの。野菜とか材料は買えるの。でも不味い。それに片付けをしなくちゃいけないから、ママ怒ってばかりいて、メリィも手伝えって殴られたりした。それでママ、毎日怒って怒って。でもちゃんと食べられないから、ママ、少し前に血を吐いて救急車で運ばれちゃったんだ」


『うわ、壮絶……』と、伊万里が思わずこぼした声が聞こえてきてしまった。

 メリィはそのまま、涙をこぼしながら続ける。


「でね、不思議なの。ママと離れたら、メリィだけコンビニではご飯が買えるようになった。でも約束破ったから浦和のおじちゃんからお金を止められちゃった。お金がなくなってきて、沢山買えなくなってちょっとしか食べられなくなっちゃった。ママのお見舞いに行ったんだけど、ママ、そこでも毎日怒っていた。『負けるもんか。あの真珠のせいでも、負けるもんか』って、変なこと言ってた。でもメリィにはわかった。この真珠をお嬢さんから奪ってしまったから、こうなったんだって。真珠が怒っているんじゃないかなって……」


 それで千歳に返そうと、独断でここまでやってきたと芽梨衣は言う。


「なんで。札幌までご飯を食べに出ようとすると来られなかったのに。今日はタクシーに乗ってすぐに来られたよ。やっぱり真珠が怒っているんだって怖くなった。だから、返します。なんでもちょうだいと言ってごめんなさい。ママのことも許して、お願い。ママ、『アイツもアイツもみんな許さない』って病院にいても呪ってやるって、ずっと言ってるの。でも、浦和の叔母ちゃんとか叔父ちゃんとか、朋重とか、荻野のお嬢さんのところに仕返しに行きたい行きたいと念じても、眩しい光に遮られてなかなか先に行けない夢ばかり見るってまた怒っていた。そのうちに、怒った顔のまま喋らなくなったの。メリィが声をかけても天井ばかり見て、なにも話さない。もう芽梨衣、ひとりぼっちになるのかもと怖くなって……」


 子供そのまま中年女性になった彼女が、くすんくすんと泣いてうつむいているだけ。

 母親は退院の見込みがないどころか、メンタルの診察も必要になっているようだった。

 これからメリィはひとりで暮らしていかねばならなくなったのだ。これはあれか、黒真珠が『この娘と母』の縁切りを施し始めている?

 でも、この子(歳上女性だが)一人で生きていけると思えないと、千歳はうっかり案じてしまった。


「主任。芽梨衣さんに、今日のランチプレートを持ってくるように、細野さんに伝えてくれる」

「わかりました」


 伊万里も『仕方ねえ』という諦め加減の渋い顔で動いてくれる。

 腹は立つが、神様がそこまで追い込んだら、伊万里ももう言うことはなにもないのだろう。


 伊万里の伝達で、細野が入室。トレイを持って『荻野こもれびカフェ』で出しているランチプレートを持ってきた。

 日替わりパスタとサラダ、スープに、荻野製菓のカフェ限定ミニスイーツがセットになったものだった。

 千歳には紅茶を持ってきてくれた。


「これ、食べていいの」

「どうぞ。食べるものにお困りのようでしたから。お一人で心細かったでしょう」


 そこでまたメリィがわんわんと泣き叫んだ。もううるさくてうるさくて、千歳も伊万里も耳を塞いだが、細野だけが平然として伊万里の横に立って澄まし顔。


「あんなに悪いことしたのに~。だって、ドロボウみたいに、お嬢さんの家に押しかけたんだよぉぉぉ。こんなすごいジュエリーを無理矢理持って帰ったんだよーーーぉぉお」


 千歳もため息を吐く。悪いことだとわかってはいたのだなと。でもママがすべて『悪いことをしても平気。手に入れた者勝ち』という負けナシの連勝人生だったため、自分たちはそれでいいのだという思考に染まってしまったようだ。

 それに。食べることに不自由になったのは、まさに福神様からの天罰、いやもしかすると、食を司る神でもある保食神様の怒りだったかもしれない。


「もう、おわかりですよね。食べ物を粗末にしたことを、私の自宅で見ていた神様がいらっしゃったんですよ、きっと」

「お菓子を踏んづけたから?」

「そうです。あと、虫を入れると、お母様が言っておりましたでしょう。あれもです」

 彼女が押し黙る。

「ごめんなさい。もうしません」

「温かいうちに、どうぞ。おかわりも遠慮なく」

「う、うう……。いただきます」


 久しぶりに出来たての料理を食べるのか、ほんとうにお腹を空かせた子供ががっつくように食べ始めた。

 お上品なカフェのワンプレートランチなので、あっという間に終わりそうだった。伊万里がそっと出て行き、今度は違うメニューのランチセットを持ってきた。

 夢中で食べている彼女のそばに置かれていたジュエリーケースを、細野がそっと回収をして、千歳の手元に持ってきてくれる。


 無事に戻って来た黒真珠の指輪を、千歳は確かめる。

『お疲れ様でした。長旅に行かせて、申し訳なかったです』。目を瞑って、小さく一礼をした。

 神様たちは、この従姉だけは、母親から引き離せばまだ救いがあると思って、千歳のところまで連れてきてくれた気もした。


 だとして。さて、どうする。

 考えあぐねていると、細野の携帯に連絡が入ったようで、また外に出ていった。

 到着したのかなと、千歳はふたたび背筋を伸ばして待つ。


 細野がエスコートして、ドアを開ける。


「待たせましたね。千歳」


 祖母の『千草』だった。今日も着物をきっちり凜々しく着込んでやってきた。

 千歳も席を立つ。


「会長、お待ちしておりました」


 伊万里が千歳の隣にある椅子をさっと引く。孫ではあるが、ここでは主任という立場でのキビキビとした気遣いを見せている。そのせいか、祖母が満足そうな笑みを浮かべ、椅子に座った。やっぱり孫がきちんと仕事をしていることは嬉しいのだなあと思えた瞬間で。ピンとした空気を作り出す祖母なので、ほんの少しの和みが生まれて、千歳もホッとする。


「そちらが、朋重君の従姉さん?」

「はい。芽梨衣さんです」

「そう」


 祖母の怒っているのか、怒っていないのか、よくわからない視線が芽梨衣に注がれる。

 このよく読み取れない目線をしている時が、実はいちばん怖いと千歳は思っている。

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