10.海の香がする
朋重からの贈り物は、キスと一粒パールのネックレス。
真珠取り扱いで有名なブランドのもので、艶の良い白パール。品質を重視して選んでくれたのがわかる。
ほのかに潮の香がするのは気のせい?
海からの贈り物。漁船にのるほど海が好きな彼らしい気がした。
千歳はふと
それを身につけて仕事に励む。
平日も仕事帰りに彼と食事に行くようになった。
朋重がキスをしてくれてから、彼も気構えがなくなり、千歳も警戒心を解いて彼を男性として感じるようになっていた。
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季節が少し経ち、アカシアの香りが終わって、ポプラの綿毛がふわふわと街中に漂う。
今日も朋重と待ち合わせ、夕食を一緒に食べに行く約束をしている。おつきあいも肩の力を抜いたものに変化。今夜もざっくばらんに、お洒落居酒屋で食事を楽しむことに。
「好きなだけ食べたらいいよ」
「ほんとに? でも、お支払は別々ね」
「いや~男気みせたいけれど、まだ千歳さんの戦闘能力を把握していないから、そこは男の俺に任せてとかっこつけられないの辛い」
それでも彼が快活に笑い飛ばしてビールを味わっている。
「そんな。男気なら、こんな素敵なパールを見つけてくれたのに」
彼に会う日は必ずつけてくるようにしている。首元に一粒でも上品に輝くパールへと千歳は触れる。
「千歳さんはパールだなと思ったんだ。先日の青いパールもクールな顔立ちの千歳さんには似合っていたけれど、俺の中の千歳さんは、もっと温かみがある柔らかいかんじ。船の上で見た手を合わせている時の千歳さんの清らかさからイメージしてみたんだ」
栗毛のキラキラした男性にハキハキと耳心地の良いことを面と向かって言われると、さすがに千歳も面映ゆい。
でも素直に嬉しくて、彼に『ありがとう』と微笑みを見せる。
「加護を許される第一段階を突破した男が現れた記念にして。俺はこれからもう少し先に話を進めたいと思っているんだ」
「私もです。まずはお祖母様に報告しようと思っています。おつきあいを始めるということを」
「そうだね。俺も父親からどうなっているどうなっていると連絡がうるさいけれど、兄が『そっとしておけ』と止めてくれている状態です。正式におつきあいをするという形式で行きましょうか。すぐに結婚ではない段階ということで、以降はもっといい条件の見合い相手ができた、実家からするように言われたとなったら、必ず報告をするお付き合いということにしたらいいかな」
「そうですね。お相手の了承もなく、新しい相手と見合いをしないということですね」
「お互いの家で認識がずれないようにしましょう」
家同士、家族が皆わかっている付き合いになるから、家族間でトラブルが起きないよう気遣う意志も確認し合った。
この日も『婚約の手前の仮約束』であることを確認し、その後、結婚するとしたら互いの仕事と家業はどうするかということまでに話は発展。
千歳は跡取り娘なので仕事は辞められない、そのまま続行。朋重は婿入りはするが、実家の家業社員、副社長としてそのまま勤めることも、見合いの条件に入っていたので荻野側も了承。このあたりも家同士が望んでいることと、本人同士もその意志で間違いがないか確認。
次へステップというが、恋に進展するよりも、『結婚すること』が優先になってしまうのは家同士が絡んだ婚姻だからだった。
でも大事なことだった。家同士がつつがなく結びつく。それが千歳と朋重が揃ってしあわせになるために乗り越えていくものだからだ。
この日の夜も、北大前の千歳のマンションまで送ってくれた。送ってくれた御礼にコーヒーをご馳走するのも恒例になっている。
朋重は一杯だけ味わい、一時間ほど休んで帰り支度を始める。
強引な素振りは決して見せず、行儀の良い付き合いが続いている。
それでも、玄関で見送ると『おやすみ魔女さん』の口づけをしてくれる。唇じゃなくて、また黒子のうえに。婿入りする男性が、お嬢様をお姫様扱いするような……。いままではそれで安心していたのに。
最近の千歳は、それがもうもどかしい。
「じゃあ、また。次の週末はどこかドライブ……」
いつもの屈託のない爽やかな笑顔で、栗毛の彼が帰ろうとしている。
その腕を、千歳は初めて引き留めていた。
「千歳、さん?」
「……泊まっていきませんか」
彼から笑みが消えた。千歳に引き留められ、ジャケットの袖を引っ張られたままの状態で固まっている。
千歳の覚悟を見てしまったからだろう。
「いや、どうして」
「初めて。甘いとかんじているからです」
お姫様扱いのお嬢さんにするキスでもだった。
だったらそれ以上のことってどれだけ甘いの? 日に日にその思いが募る。恋に制約をかけられてきた千歳の身体にその熱がこもり始める。
朝、素肌にパールをつけるときの甘やかさ。栗毛の彼の匂いが蘇り、千歳は恍惚となる。その狂おしさを胸に出勤をする。
栗毛の彼が笑顔で待ち合わせ場所にいて、一緒に気兼ねのない食事をする。千歳の食べっぷりを『かわいい顔で無防備で食べている』と言ってくれる人。もう充分だった。
「そうなると、俺はどうなるんだろう」
引っ張られた腕を降ろし、彼が千歳の目の前で気後れしたようにうつむいた。
「それで終わり、必要のない男と見られるかもしれない。ただの友人であるなら、千歳さんのそばにいることは許される。でも男として触れるなら? キスならまだ……それ以上のことは……? 男になった途端に、この家に出入り禁止になるかもしれない、なんて、本気で思い始めている自分が時々いる」
千歳を取り巻く摩訶不思議な環境を彼も感じ始めている。だからこそ、これで最後かもしれない。
「これでも俺、かなり気に入っているんですけどね、千歳さんのこと」
だからここでいきなり『はい不合格』となるのも怖いから慎重になっているとわかった。
それを聞いて、千歳も震える声で呟く……。
「それは、私だって……」
でも乗り越えないとその先がない。
家同士の結婚と割り切って、ちょっとおつきあいして、結納して、結婚。それでもいいはずだけれど、もういまの千歳はそうではない。
「朋重さん、私の目、見てくれますか」
「はい。見てますよ……」
玄関先で戸惑い立ち尽くす彼が、真上から千歳の目を見下ろしている。
琥珀の眼に黒髪の自分が映っている。真っ直ぐに逸らさず、その眼を見つめながら千歳は自分の目は瞑る。
彼から求めてほしいのではない。千歳が求めている。だから、彼の腰に千歳から抱きついて背伸びをした。
「もう黒子にしないで……」
いつも彼がかすかにつけているトワレが香る。
彼らしいマリンノート、でも少ししかつけていないから、よほどに彼が近くを通りすがらないと香らない。その香りを吸いながら、千歳から彼の唇を塞いだ。
驚かれると思ったがそうではなく、朋重はすぐに千歳の腰を抱き寄せ、大きな手が長い黒髪を掻き抱く。
初めて互いの身体の体温をかんじるほどに抱きあう。口元もやわらかな重なりから、彼の口元から熱い息が漏れてくるのがわかる。
「わかったよ。覚悟するよ、俺も」
彼が靴を脱いで、再度玄関から上がった。
一晩ゆっくりというわけにもいかず。でも素肌で抱きあって囁き合う時間を少しだけ過ごし、朋重がまたスーツ姿に戻っていく。
「いいよ。オートロックだからそのまま出ていくから。千歳さんは、そのまま休んで」
「でも――」
見送ろうとする千歳の黒髪が乱れていたのか、彼が指先で、頬に張り付いていた髪を優しく除けてくれる。
「俺、認められたのかな……。これで帰ったらここに戻って来れないなんてこと、ないよな」
「きっと大丈夫。私がこんなにあなたのことを求めたのに。また、来て」
「うん。絶対に」
青いシャツにグレーのスラックス、ジャケットを小脇に抱えて彼が静かに出て行った。
千歳は……。どうして自分からキスができたのか。いまになって自分の大胆さに呆然としている。恥ずかしくなって、また顔が熱くなってくる。
緊張で疲れていたのか、それとも愛し抜かれて気怠いのか。そのまま横になるとすぐに
海の香がする。
朋重に似合う、彼由来の薫りだ。
またあの海だ。オロロンラインの海辺。崖の上に祠があるあの海上。
祠がある崖のすぐ下の海上で、また黄金色の光をまとった福神様と保食神様が一緒に並んで浮いていた。
『うん、ふたりの覚悟はわかった。そしたら、こちらも本格的な仕事にはいるから。もうひとふんばりしなさいな、千歳』
今日の福神様は真顔だった。彼もなにかを覚悟した顔をしているように千歳には見える。
最近は福神様のそばには、保食神様がよく一緒にいる。美しい黒髪の彼女は優しく微笑んでいた。
福神様の声が耳の奥にほんのりの残っているまま、初夏の早い朝日を浴びて目覚める。
千歳は決意する。
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