9. 魔女へ贈り物
「私、チャーシュー造りに入るので、朋重さんは好きに過ごしてください。ゆっくり寝ていてもいいですよ」
「せっかくだから北大の中でも散歩してこようかな」
「よろしいですね。いまいい季節ですよね」
「どうせなら、千歳さんと歩きたいです。今週は無理なんですよね」
「そうですね。鍋から離れられないので、ごめんなさい」
『申し訳ないです』という言葉遣いだったのに。素直によそ行きではない言葉になっていた。
それは朋重も気がついたのか、朝の光の中、嬉しそうに琥珀の目を輝かせてくれる。
「やっぱり今日は千歳さんのお手伝いをしますね。それ凧糸でしょ。ほんとうに本格的ですね」
「祖父が作り出して、父が受け継いで、いまは私が作っています。父もたまに作るんですよ」
「へえ。伝授されていくって、お店みたいじゃないですか」
「そうですね『お店』を作ったみたいなものです。私と弟が子供の時に、とあるラーメン屋さんの厨房を戦場にして、私たちが帰るときに店じまいにさせてしまったことがありまして」
やっとひとくち飲み始めたコーヒーを朋重が吹き出しそうになってむせた。
「だから自作でラーメン!?」
「はい。心ゆくまでラーメンを食べる方法として、祖父が作り始めたんです」
「ちょっと、待ってください。では、今日の夜……千歳さんは……」
「茹でる麺をずらっと並べて一気に行きます。いつもは弟と交代で茹でる係、食べる係で回転させてます」
また朋重が呆然として喋らなくなる。すごい光景を脳内に浮かべているのだろうな……と千歳は思う。
「今夜は俺が茹でる係しますね。最初の一杯は一緒に食べてください」
「よろしいのですか」
「ええ、ひとりで戦場に向かいますとも!!」
任せてくれとばかりに胸を張って拳で叩く仕草がおかしくて、千歳は思わず笑い出していた。
「そんなふうに笑ってくれるんですね」
「だって。ほんとうに知りませんよ。どんぶりの数を見ても笑わないでくださいね」
「婿殿候補だから、頑張ります。食べる魔女の夫になるなら必要な試練でしょう」
「試練って……!」
だめだ、また笑いが込み上げてきた。千歳がずっと笑いながら豚肉を凧糸で巻いていると、食事をしている彼が向かい側のカウンターから優しく見つめてくれていることに気がついた。でも千歳も素直に見つめ返して微笑み返す。
その日いちにち、朋重と一緒に過ごした。ラーメン造りでキッチンを離れられない千歳の相手をしてくれたり、散歩にでかけると出て行って、ケーキをたくさん買ってきてくれたりと気を利かせてくれる。
夕食の時間になって、一緒にエプロンをしてキッチンに向かう。
彼にどんぶり一杯分を作る手順を教えて、まずは最初の一杯は彼と一緒にカウンターで食べる。
「うっま!! 千歳さんが作ったものなんでも美味いんですけれど!! ラーメンは醤油ベースなんですね」
「祖父が醤油派だったんですよ。まあ、食べる魔女なので自炊しないと、好きなだけ食べられないだけです」
どんぶりのスープをすすった彼が再度『うまい、これはうまい』を連発してくれたので、千歳も嬉しくなってくる。
「俺、食事を作る家事は奥さんにだけ押し付けるつもりはなかったんですけれど……。それでも、今日、千歳さんが作ってくれたものを食べただけで、癒やされました。やっぱりいいですね。自分を思って作ってくれる手料理は。あ、今度は俺の手料理も食べてほしいです」
「ほんとうですか。楽しみです」
「いや~。ほんと、千歳さんは『食』のために生まれたのかもしれませんね。口元の黒子、その星の下に生まれた荻野の長子」
「大袈裟ですよ。ただの大食い女ですよ」
だが一時、箸を置いた栗毛の彼は神妙な面持ちになって呟いた。
「いいえ。あれだけの製菓を守り抜いてきた一族です。やはりご加護があるのかもしれませんね」
しっくりしない様子だったのに。一日一緒に過ごしたら、妙に彼の中で馴染んできているようだった。
もしかすると、ほんとうに。彼が婿様になるのかもしれない。そう思った瞬間だった。
まあ、まだこれから『両家にご挨拶』、『結納』とあるんだけれどね。まだまだか。千歳はもうラーメンのスープを飲み干していた。
このあと、朋重が十杯以上のラーメンを次々と千歳のために作っては渡してを頑張ってくれた。
汗びっしょりになってまで頑張ってくれる彼が、千歳の心の中の柔らかなところに残る。いい人だなと刻まれていく。
二十二時過ぎになって、朋重が帰宅へと玄関に立った。
「楽しかったです。お招きありがとうございました」
「私もです。キッチン戦場に立ってくださって、ありがとうございました。間を置かず次々と出てきて嬉しかったです」
その御礼にまた朋重が笑う。それではと彼が帰るのかと思っていた千歳だったが、そこで朋重が目を伏せて静かに微笑んで佇んでいる。
そんな彼が、千歳が持たせた『チャーシュー』を入れた紙バッグから、なにかを取り出してきた。リボンがついた箱を差し出される。
「たくさんご馳走になって、泊めてくださった御礼です」
「そんな。こちらで試すようなことをしましたのに。それに、いつの間に」
「最初からです。隠していました。帰りにと思って。先日、パールが似合っていたので、オフィスでつけられそうなものを見繕ってきました」
『受け取ってください』と差し出される。
まだ本当のところ、なにも知り合ってもないし解りあってもいない。数回会っただけの……。
でも、この家に一晩一日、一緒にいることができた初めての男性だった。
「ありがとうございます。大事にしますね」
かわいいイエローのリボンがついている細長い箱を千歳は素直に受け取る。
「朋重さんもまた、遠慮なくいらしてください」
「はい。是非……。では……」
彼を見つめて送り出そうとした。だがそこにはもう、彼の琥珀の目が目の前に。
彼の栗毛がそっと千歳の鼻先をくすぐった。唇は、千歳の唇へ、でもそこを外して口元に。
「おやすみなさい。食べる魔女さん。食べている顔は、油断していて可愛いのですね」
口元の黒子に軽くキスをされていた。
すぐに離れていく彼、でも千歳の鼻孔に彼の匂いがかすかに残る。
千歳が呆然としているうちに、彼が手を振って玄関を出て行った……。
初めて。甘いと思った。男からのキスを。初めて。
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