肩ズン・1
「おかあさん」
母を呼んだ。
どんなに触れてみても、母は笑わない。
ただ氷のように横たわって、どろどろ溶けて、この世から母が失われていく。
「おかあさん」
車から降りてきた男が、慌てて母に駆け寄った。
――お前、魔物じゃなかったのか。
――襲われているのかと思った。
そんなことはいい、と俺は言った。
「おかあさんを病院に連れて行って」
「あんたが、そんな見た目してるから!おかあさんは死んじゃったんだ!」
幼い姉の悲痛な叫びが耳を劈いた。姉は、暖炉のそばの火掻きを振りかざして、俺の剥き出しの眼球や筋肉を焼いた。
痛みや悲しみを感じるほどの気力は無かった。
姉は俺を幾度となく責め立てる。仕方ないとさえ思った。
「やめなさい、ブリムヒルダ!!」
「おとうさん、だって……おかあさんは、もう、帰ってこないんだよ……」
この頃からだ。父の前でしか、姉とまともに会話しなくなったのは。
「……そうだね……」
父もまた悲痛な面持ちで、幼い姉を抱きしめていた。
“おれのせいなのかな”。
そう呟いたときの、父の顔が忘れられなかった。穏やかな父の、絶望に打ち砕かれたような表情。
「違う。……それは違うよ、ジークウェザー。悪いのは……カレンを轢いた車の運転手だ」
「でもあの人、おれを魔物だと思ったんだって」
「ジーク。あんなのは、大人のみっともない言い逃れさ」
「おとうさん。おれが死んだら、おかあさんは帰ってくる?」
子供ながらに、死というものがわからないながらに、心から願った。母と代われたのなら良かったと。
父が泣きながら、俺の紅い体を抱きしめた。
「馬鹿なことを言わないでくれよ……」
俺もいつか、妻と子を持てばわかるのだろうか。否、今なら少し解る。一番辛かったのは、きっと、伴侶を失った親父だった。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
ああ、また俺は、家族を悲しませた。家という世界を壊してしまった。
どうすれば俺は、二人から母を奪わずに済んだのだろう。
「ジークウェザー。君は力が強すぎるんだ。だから、これで魔力を抑えるといい」
あるとき父が、俺に特製のピアスを贈ってくれた。
金の十字を耳に通すと、俺の姿は、たちまち小さくなった。
鏡を見てご覧。と、いつもの父ならば絶対に口にしない台詞を吐いた。
母が死んでから数年、見ていなかった自分の写し身を、埃が被った鏡面に垣間見た。
「これが……おれ?人間みたい」
身体のどこを見ても滑らかな白い肌。琥珀色の双眸。上向きの鼻筋。尖った耳。指も五本。
重い角も、他の眼も、穴だらけの赤い皮膚も、血管も、グシャグシャの牙も、長い爪も、どこにも見当たらない。
きれいだ。
素直にそう思った。目の前の男の子が自分であるなんて、信じられないほどに。
「そうだ。真っ赤な髪がお母さんによく似てるねぇ」
父が優しく俺の頭を撫でた。今まで触れられることすら痛かった場所が、どこも痛まない。温かく、くすぐったかった。
それから俺の周囲の世界は一変した。町のどこへ出ても、魔物だと謗られることは無くなった。父の仕事のあいだ、どこかへ隠れることも無くなった。
おれはやっと、きれいな体を手に入れた。これがおれだったんだ。きっとおれはずっとこうだった。
あれはただの事故で、ほんとうの姿なんて、どこにもいない。
ただ歩くだけで、生前の母のように持て囃された。錬金術の研鑽を積んで、世間から評される魔導士になった。
誰からも鼻をつままれていた醜い牡牛のジークウェザー・ハーゲンティは嘘だったのだ。
俺は美しく、気高く、優れた魔族だった。
「あなたがそんな化物だったなんて聞いてない!汚らわしい!!最悪よ……」
初めて出来た恋人が、怯えて泣いていた。
「あたしはあなたの家と――顔が好きだったのに」
俺の世界は変わった。羨望と裏切りの世界になった。
それでも胸を張れと。父は俺に教え続けた。
――恐ろしいものは克服しろ。足りないものは埋めるんだ。暗い雲は、嵐で吹き飛ばしてしまえ。お前はその荒天の中でも立っていられる男だ。
ならばそうしよう、と決意した。
一度誇りを手に入れたのなら、手放すな。一度望みを抱いたのなら、必ず掴み取れ。
強い男になって、この家を守ってくれ。
父も姉も、いつしか悲しみを乗り越えていた。
今度は俺の番だ。
折れた植物は元に戻すことが出来る。終わったオルゴールは巻き戻すことが出来る。割れた壺は、接着出来る。人の手が加われば、森羅万象はより強固なものに補修される。何よりも俺が、錬金術の修行で学んだことだ。
俺が壊してしまったハーゲンティという家に、もう一度暖かい風を吹き込むために、俺は嵐となろう。
破滅するほどの推進力で、一切合切を巻き込んで手にしてみせよう。
「――」
ひどく懐かしい夢を見ていた気がする。
胸の内が熱く、咄嗟に寝巻きの袖を捲くり上げる。
「……人間の、腕だ」
昨日、ザラの魔力を吸いすぎたこともあって、落ち着いて眠れていなかったようだ。
未だに恐怖を覚えることに、自己嫌悪する。
ザラも、あの場にいたビビアンとフェイスも――きっと、ネロやキョウ達だって、俺の真の姿を見て怯えることは無いだろう。
――いいや、わからない。
そのせめぎ合いがいつも、俺の鼓動を荒立たせた。
こんなときだけ、他人に興味の無い姉が羨ましかった。俺は願い祈ることしか出来ない。どうか、悲劇が起きませんように。自分のせいで誰かが傷つくの姿を見るのは、もう御免だ。
身を捩って、カーテンの隙間から射す朝日から逃れるように、もう一度布団を被った。
.
.
.
――「いやそこで二度寝したの?」
「うむ。まだ朝の八時だったのでな」
妙にぼーっとしているジークに声をかけたらこれだ。夢見が悪くて二度寝して起きてきたばっかりだから、まだ半分寝てるだけとか。私の貴重な三分弱を返してほしい。
「てか八時て……」
「午前中は……生物が活動する時間ではない……」
そう言って大きな欠伸をひとつ。こいつが昼休みや放課後にしか現れないのはそういうことか……。そういえば昨日も滅茶苦茶眠そうだったし。
「朝、弱いの?」
「そうだな…………」
ゆっくり瞼を伏せて頷くジークは、今にも三度寝しそうだった。ので、脇腹をつついて覚醒を促した。
「ちょっと。せっかくお弁当作ってきたんだから」
「せめて二人が来るまで……」
「も~」
仕方ないので、肩を貸すことにした。
今日は三人に、ステッキのお礼として、早朝から準備してランチを用意してきたのだ!えっへん。いつもは微妙~な味になりがちだけど、ちゃんとお母さんの協力を得て、完璧なものに仕上げてきたわ。デザートもあるので抜かりなし。あとはこの中庭に、ビビアンとフェイスくんがやってくるのを待つばかり。
「しっかし……」
間近にあるジークの顔をよく見る。伏せた睫毛は長く、彫りの深い輪郭が静かに息をするさまには、恐竜のような神秘的な造形美がある。つやつやの紅い髪は、触ると猫のように柔らかかった。
前に膝の上で気絶してた時も思ったけど、黙ってればかっこいいのにな。悲しい存在だ……。
と。
視界の端に、そんな私をニヤニヤ見つめているアホ獣人とアホ少年を発見した。
「ちょっとー!いるなら早く来てったらー!!」
「ウケるんだけど」
「ザラのご飯、久しぶりだ」
ビビアンとフェイスくんがやいのやいの騒ぎながら、私とジークが腰掛ける大木の日陰にやってきた。
「ほらジーク起きて」
「うむ……」
「わースゲー!気合入ってるー!!あたしこれ、これね。予約したから」
「ちょっと。僕もそれ狙ってるの。あんまり食べ過ぎないでね」
「ああ、はいはい。いっぱいあるから」
「……うまそうだな」
「でしょ?今日は自信あるよー!」
全員が揃って、楽しいランチタイムが始まった。
ああ。こんな日常が、私はとっても愛おしい。
.
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます