深呼吸をして、車に乗り込み、走らせた。

音楽はつけない。タイヤが地面をこすりつける音を聴きながら、景色をぼんやり見ながら走るのが好きだった。法定速度を守ってゆっくり走るから、後続車には少し迷惑に思われることもあったが、僕はゆっくり走るのが好きだった。

こうやってゆっくり走っていると、様々な情報が目から入ってくる。見たことのない道路に標識、おしゃれな車、変わった格好で歩く歩行者、どこかにゆく野良ネコ、大きな門構えの寺、気になる名前の道の駅、広くてきれいな公園、歴史的な史跡、美術館に博物館…。そういったあれこれを見ていると、色々なことを思い出したりする。記憶はいつも断片的に引っ張り出されて、気がついたら脳内で再生されている。まるでどこかに自分のデータが保管されていて、誰かがそれを画面の中で再生しているような感じだ。これについてはよく考えるのだが、僕が何度もみているこの映像は、実際の過去の経験なのか、自分がつくり出した妄想なのかは、今はもう確かめようがなかった。


僕はずっと地味な性格だった。

それは生まれてからずっとそうだった気がする。

2つ離れた兄がいて、彼は何をやっても優秀だった。容姿もよくて、同じ親から生まれたのが信じられないと言う大人もあった。兄の周りにはいつも人だかりができていて、兄はそこに僕を混ぜてくれようとするのだけれど、僕はその輪から逃げていた。怖かったのだ。

僕には昔、いわゆる霊感と呼ばれるものがあった。それに気がついたのは中学生ごろだった気がする。シャイで遠慮して極端に人と話さない上に、変わった性格だと思われていたから、見えているものが他の人と違っていることに気づくのが遅れた。

初めて霊を見たのは死んだ祖父のそれだった。死んでもまだ家にいたから、不思議で、母も「おじいちゃんは遠くに出かけることになったの」と言うものだから、時々、母と入れ違いでうちへ帰ってくる祖父に何の違和感も感じなかった。

学校に通うようになると、人が作る輪の中に”何か”がいたことがあって、どうにもそれが怖かった。体育の授業になると、一緒に走っている中にもそいつはいて、それで一気に集団行動が苦手になってしまった。でも、その”何か”が見えるのは集団の作る影みたいなところだったから、意識してそういう場所を避ける工夫をすれば、学校生活を送れないほどではなかった。

どうやって集団を避けるか。それは教室の隅だ。そこは少数の人たちが集まって偏向的な趣味をやって、気を紛らわす場所だった。読書にカードゲームに絵を描いて、なんとなく集団を避けて過ごした。埃っぽくて湿ったような場所。けれど、そこで”何か”をみることは不思議となかった。

あとはずっと同じだ。中学、高校、大学と進学したが、人の中には極力入らず口数少なく過ごした。それで就職して、気がついたころには”何か”が見えることは一切なくなっていた。

その代わり、妄想をする習慣は強くなっていった。妄想と霊的なものは違う。それくらいは判別できる。もう大人だから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る