さみしさの根源

 わたしの中にどうしようもないさみしさがあって、それはきっと「親に愛された実感」がないせいだと、自己分析している。


 虐待されたわけではない、と思う。

 でも、愛された実感はないし、「無償の愛」がどんなものか、わたしには分からない。

 親に、わたしの生き方とか人生についてどんなふうに考えているかとか、どう生きたいかとか、心の底から理解して欲しかった。わたしという人間を分かって欲しかった。

 でも、それは叶わなかった。

 永久にそんなことは起こらないのだ、ということを理解するのに、そしてそれを受け入れるのに、とてもとても長い時間が必要だった。


 とてもさみしかったし、かなしかった。


 理解し合うということを、親相手に放棄したら、他人に対してはもっと諦念の感情が強くなった。誰とも、基本的には分かり合えないということを前提に生きている。

 分かり合えないというよりも、日本語が通じない感じ?


 だいたいの人とは、わたしの言葉では話すことは出来ない。

 それが、生きていく上での前提となっている。


 たぶん、それはとてもさみしいことなのだ。

 でも、一番理解して欲しかった親に理解されなかったのだから、諦めることは上手になっている。とても。


 サンドバッグの人生だった、と思う。

 その根幹をつくったのは、親だとも思う。

「我慢が足りない」「我が儘だ」と言われ続け、もっともっと我慢しなくては忍耐強くならなくては、と思って生きてきた。

 

 おかげで、限界を超えるまで我慢する癖がついてしまった。

 サンドバッグになっても、耐えられるようになってしまった。

 サンドバッグになったと分かっても、それをどうしたらやめられるのか分からない。


 そんなわけで、わたしは、子育てに自信が持てない。

「後悔しない子育て」なんて、全然出来ない。


 いつだって、「本当にこれでよかったのかな」という思いがある。

 もっと上手に育ててあげられたらよかった。

 もっと上手に愛せたらよかった。でも、愛し方を教えてもらえなかったから、ほんとうのところは分からないんだよ。


 ごめんね。

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