「発達障害」とかいうものについて

 うちの子は小学校のころ、教室から抜け出して家に帰ってくる子どもでした。

 もうほとんど「やっぱりね」というか、この子はいわゆる、ADHDでアスペルガーだなって思っていました。

 だって、自分もそうだから(笑)。

 学校嫌いだったし、集団行動嫌いだったし、先生も嫌いだった。空気読めないし。

 でもそれでいいじゃん、と大人のわたしは思っている。 


 息子には「ごめん、遺伝だから!」とよく言っていました。「でも、全然気にしなくていい」とも。

 そして「大人になるまでに『普通のふり』が出来るようになればいい」「仲間を見つければいい」とアドバイスしていた。

「普通のふり」って、結構有効ですよ! 何しろ社会と折り合いをつけていかねばならないからね。「ふり」でいいの、「ふり」で。

 最近は「発達障害」が認知されてきているけれど、でもさ、「発達障害」へのフォローが手厚い(かもしれない)のは、学校の間だけだよね? しかもそれはほとんど義務教育の間だけ。しかもしかも、先生に知識がある場合に限られる。


 人間関係において、どちらかが我慢しなくてはならない関係って、絶対に変だし、長続きしない。「発達障害」だとして、その特性を理解してもらうまではいいけれど、恒常的に我慢を強いるのはちょっと難しいよね、と思っている。

 でもじゃあ、「発達障害」のひとが我慢すべきか、というと、それも違う。

 どうすればいいか。

 合う環境を探せばいい。

 これに尽きる。


「発達障害」という言葉の方が認知されているからそう書いたけれど、これは完全な誤訳だとわたしは思っている。別に「障害」じゃない。かわいそうだって思わなくていい。単に出来ることと出来ないことの落差が激しいだけ。

 この間の講演によると、「発達特性」があるひとが合わない環境に行き、問題が起きたときに「障害」となるそうだ。そうそう、その方がしっくりくる。困っていないときは別に「障害」じゃないから。


「普通のふり」も大事だけれど、「自分を知ること」も大事。そして、自分と他人との差異を知ること。そうした知識の積み重ねで、わたしは生きていける。


 ときどき、出産前の友だちにすごく会いたくなる。

 物理的に遠くにいるから、めったに会えない。

 コロナ禍もあり、ほんとうに会えないままになってしまった。

 コミュニケーションが難しかったわたしに出来た友だちって、本物。

 言葉の裏を考えずに話せるひとたち。

 子ども関係で知り合った友だちも好きだけど、子どもが介在していると、やっぱりちょっと微妙なんだよね。嫌いとかではなく、どうしようもないこと。


 出産前の友だちとは笑いながら、ADHDだしさー とか アスペルガーだしさー とか話す。でもその特性は悪いことではなく、なんていうか、笑いのネタとして話される。


 それでいいと思うんだ。


*****


 眠くてちょっと微妙な文章になってしまった。

 もしかして書き直すかも。

 書き直さないかも。

 眠いから、このまま公開してしまおう。


 


 

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