第47話
一歩屋上へ足を踏み入れると、そこはまるで別世界だった。そこにはただ夜の闇が広がっている。そしてその中に取り残されるように、五百木さんは転落防止用の柵へもたれかかっていた。その前屈みの姿勢の先には一体何があるのだろうか。
さらに進むと、後ろでバタンとドアが勢いよく閉まる音がした。その音で、五百木さんの肩がビクッと上がりこちらを振り返る。そこで目が合って、ようやく僕が来たことに気がついたようだった。薄暗い中でも、五百木さんの表情はよく見える。
その顔は笑っていた。
僕はどんどんと五百木さんに向かって歩みを続ける。五百木さんは黙ったまま僕を見つめていた。やがて、手が届く範囲まで接近したところで足を止める。そこで五百木が止れというように、手のひらを突き出してきたからだ。
「よく、ここが分かったね」
五百木さんが言った。その声はどこか諦めるような、それでいてホッとしたような響きを含んでいる。でも五百木さんは口角を上げたまま、悲しそうに下を向く。
「あの曲。すごく良かったよね。桜井光は死んじゃったけど、あのCDは世に出てほしいなと思う」
五百木さんが、桜井さん最後のCDについて触れた。やはり、あの放送を仕掛けたのは五百木さんだったのだ。警備員が見た人影も、五百木さんで間違いない。
「私、最後に聴く曲があれで本当に良かったと思ってる。私にはお姉ちゃんが、苦しいなら諦めてもいいんだよって言ってくれてるような気がした。実際にお姉ちゃんも、この曲を最後にこの世を去ったんだし」
五百木さんは心にひっかかる何かを言葉に乗せて吐き出そうとするように口を開いた。でもその試みは失敗したようだ。目の前の少女は、不気味に笑いながらも苦渋に顔を歪めている。
「僕は、そうは思わない」
自然と言葉が出ていた。こうやってはっきりと自分の意見を口にできるようになったのも、僕の周りを取り巻く眩しい光のおかげなのだ。
そして五百木さんにとっての光が僕になることを切実に願う。
「僕にとっての桜井さんの最後のCDは、今までと何も変わらない」
そこで五百木さんははっと顔を上げて僕の顔を覗き込む。視線が「どういうこと?」と尋ねてきた。
「今までの桜井さんがそうであったように、桜井さんは最後の最後まで僕たちに勇気を与えようとしてくれたんだと思う。生きる希望を示そうとしてくれたんだと」
「でも、当の本人は死んだ」
五百木さんから聞いたことのないような低い声が返ってくる。それはドスが効いていて、刃のような鋭さを孕んでいた。
「確かにそうかもしれない。でもさっき、この曲の中の桜井さんと話たんだ。その時桜井さんは、多くの人に勇気を与えることができても、自分自身にそれができなかったって言ってた。だから死んでしまった。それは僕たちにも責任があると思う。彼女から力をもらうことは悪いことじゃない。でも自分自身も誰かに力を与えている存在だと気づけなかった。桜井さんが僕らを照らしてくれたように、僕たちも桜井さんを照らせたのかもしれない。でも、できなかったことはもう仕方がない。大事なのは次に活かすことだと思う。だから僕はこうして五百木さんに語りかけてるんだ。僕が五百木さんの太陽になりたい」
一気に捲し立ててしまった。自分でも驚いている。でもどこか清々しい気持ちもあった。
「たい、よう………」
五百木さんは考え込むように、下を向いた。
そこで僕はさらに声をかける。
「一つだけ言っても良いかな?」
五百木さんが無言のまま頷く。
「まずはその笑顔、やめた方が良いと思うよ。ちょっと前に聞いた、昔の五百木さんに戻ってる気がする」
そこで五百木さんは再びハッと顔を上げた。その瞳は揺れていて、こっちを見ていても僕の顔を捉えてはいない。さらに五百木さんは開いた口が塞がらないようだった。
「私が笑っている?」
まるで口にしてはいけない禁句を話すような口調で、ぽつぽつと五百木さんが言った。
夜の空気が二人を包む。
僕が頷くと、五百木さんは頭を抱えてうずくまった。
「違う!」
そして突然、金切り声で叫び出す。肩がプルプルと震えていた。
「私は……、私はお姉ちゃんとは違うっ‼︎」
僕は突然のことに、動けなかった。どうすれば良いのか分からない。
「お姉ちゃんは死んだ!私は、死にたくないの!」
五百木さんの叫び声は、夜の闇を切り裂くように轟く。五百木さんの理想は、桜井さんだった。最も憧れの存在。まるで神のように崇めたもの。それが死んでしまった。五百木さんには、今まで絶対的だった理想像が間違っていたのではないかという疑念が芽生え始めている。完璧だと信じていたものが、壊された。そのショックは、僕には到底計り知れるものではない。
「分からない…………。分からないよっ‼︎」
その時だった。五百木さんは一際大きな叫び声を上げると、一瞬で立ち上がる。そして、呆然としていた僕が止める間も無く転落防止用の柵に手をかけ乗り越えてしまった。慌てて僕が柵へ駆け寄ると、低くてはっきりとした声が返ってくる。
「来ないで。来たら飛ぶ」
そこで僕は止まらざるを得ない。心臓の動悸がこれまでにない程、高まっていく。
「久保くんから聞きたかったのは、こんな話じゃなかった。ずっと待っていたのに……」
それを聞いて今度は僕がハッとする番だった。僕はまだまだ素直になれていなかったのだと。
確かに言いたいことを口にできるようにはなった。でもその言いたいことは、偽りの僕の主張だ。本当の僕の率直な気持ちじゃない。
僕はまだ僕自身に嘘をついていたのだった。
改めて、五百木さんの目を正面から捉える。美しい瞳が涙を枯らし、赤く腫れ上がっているのが闇の中に浮かんだ。彼女は今にも消えてしまいそうな儚さを含んでいる。その弱々しい手はまだ柵を掴んでいた。
夜の空気は冷たい。でも、それは僕の昇りきった体温を冷やすには至らなかった。僕は五百木さんの瞳の奥を捉えながら、一歩前に進む。五百木さんは何も言わなかった。
「ありがとう、五百木さん。五百木さんと話すことはとっても楽しかった。五百木さんのそばにいると、胸が踊り出したり、キュッとしたり。かけがえのない体験を、五百木さんのおかげで僕はできた気がする。五百木さんも僕にとっての太陽だ。桜井さんと同じように」
そこで僕は一呼吸おく。胸の高鳴りが最高潮に達し、体が溶けてしまいそうになる。でも、この機会を逃したら一生言葉が出てこない気がして、僕はこの一瞬にたくさんの太陽からもらった勇気を絞り出す。
「好きです」
そう言った瞬間、五百木さんが目を大きく見開いた。何か言葉を出そうとしているみたいだけど、形にならないようで口をぱくぱくさせている。
その時だった。
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