第46話
その途端強い眩暈が襲ってくる。でも僕は一歩一歩、一段一段、おぼつかない足取りで上へと登っていく。
進めば進むほど、その先に何があるのかを見失ってしまいそうだった。
踊り場で、一度壁にもたれかかり額に手を当ててみる。そこからは、とてつもない熱を感じた。でもそれは、手が熱いのか頭が熱いのか分からない。
それでも僕は続きの階段へと足を伸ばす。もう上には鉄製の扉が見えていて、その上半分に埋め込まれた磨りガラスから月明かりが漏れていた。さらにその扉の上には、メガフォンみたいな形をした白いスピーカーが設置されている。きっと校内放送を流すためのものだ。そこで改めて足元を見ると、床の中央だけ穴が空いたように埃が散っていた。
やがて扉の前に辿り着いた。それと同時に目眩もピークに達する。もう自分が自分でないような気がして、今にも倒れてしまいそうだった。
ドアノブに手をかける。すると金属で作られたそれは、信じられないほど冷たかった。まるで僕の体温を全て吸い尽くそうとしているかのようである。その冷たさに不快感を覚えたけれど、僕は動くことができない。ただドアノブを捻るだけの動作が、数学の難問みたいに思えてくる。
僕は手汗をかきはじめ、ドアノブがぬめり始めた。さらに気味の悪い感触が広がるけれど、僕は硬直したままだ。
怖かった。五百木さんが死んでしまうのが。いや、自分のせいで五百木さんが死んでしまうことが。僕はもうこれ以上、傷つきたくない。
もしここで扉から手を離して、踵を返せば、僕はきっと後悔する。でもどこかホッとする自分もいるのではないだろうか。そうすれば、五百木さんが死ぬのは僕の責任じゃなくなるかもしれない。僕は必要以上に自分を責めなくて済む。
そんなことを考えている時だった。斜め上から、音楽が流れ始める。びっくりして音のした方向を見ると、白いスピーカーが自らが発する大音量に震えていた。
曲はゆったりと始まる。そのメロディーに聞き覚えがあった。優美なイントロから、人間の無力さを想像させる哀愁とそれでも希望を持とうとする姿勢が浮かんでくる。
これは未発表の桜井さん最後のCDにあった曲だ。彩花さんから特別にもらったことを思い出す。
それが、今校内放送で流れていた。桜井さんの透明な歌声が大音量で校舎中に響き渡る。特にここの階段は狭く、美しいメロディが反響していた。
僕はそこで、目を閉じる。そして耳を澄まし、深呼吸をして、全神経に意識を集中させる。本当に音楽と体が一つになるように、桜井さんの音に浸っていく。余計な雑念が体から消えていき、心が浄化されていくのを感じた。
やがて一人、西欧風の部屋の中心で椅子に腰掛け足を組みながら窓から差し込む朝日を見つめる桜井さんが頭の中に現れる。
桜井さんは僕と目が合うと、ふと頬を綻ばせた。その頬には涙の跡が残っている。僕は訪ねた。
「どうして、死んじゃったんですか?」
しかし、桜井さんは首を横に振るだけで何も話さない。
「ずっとあなたのファンでした」
今度は、桜井さんが頷いてくれた。
「駅で僕のことを助けてくれたこと、覚えていますか?」
僕が聞くと、そこで桜井さんは口を開いた。
「覚えてるよ」
その声はバラエティ番組で楽しそうにはしゃぐ桜井さんの声と変わらない。
「あの時、青空公園であなたの歌やダンスを見せてもらった時から、あなたは僕の太陽でした」
桜井さんはまた何も言わず、ただ頷いた。
「僕はまるで光合成みたいに、あなたからもらった光を生きるための養分に変えることで今までやって来れたんです。そしてそれは決して僕だけじゃありません。五百木さんや、他の大勢のファンも一緒だと思います。あなたには、それだけ多くの人に勇気や希望を与える力があったんです」
「ありがとう。その言葉をもっとはやく聞きたかった。確かに私は、多くの人の力になれたのかもしれない。でも、自分自身に力を与えることはできなかった。自分を認めて、自信を持ち、前に進む活力を作り出すことができなかったの。でも、お母さんに聞いた話によると、君にはそれがあるみたいだね」
そこで桜井さんはふっと天使の微笑み(実際に天の使いになったのかもしれない)を僕に寄越すと、そこでふぅーっと息を吸い込み、声を上げた。
「君も太陽だよ。君自身にとってと、凪沙や君の周りの人たちにとっての」
そこで桜井さんは立ち上がる。
「みんな、誰かにとっての太陽なんだよ」
最後にそうボソッっと言い残して、桜井さんは部屋を後にした。
そのときあたりが静かになり、僕は頭の中から現実の世界へ戻ってくる。もうスピーカーは何も流していなかった。
目の前には屋上に続く扉が立ちはだかっている。僕はその生ぬるいドアノブを捻った。ドアが外側に開き、冷たい夜の空気が頬を刺す。開けた視界の先には、夜空にポツンと太陽の光を反射して輝く月と、五百木さんがいた。
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