第45話

 僕たちの教室は3階にある。僕は念のため自分の下駄箱に向かった。その位置は体が覚えていて、明かりがなくてもすんなりと辿り着く。そして、履いていた靴を下履きと履き替える。脱いだ靴を下駄箱に入れるとき、砂が微かに舞って鼻腔をくすぐった。

 そのまま下駄箱を抜け、階段を登っていく。自分の足音が乾いた校内に響いた。一段上がる度に、夜が濃くなっていくような錯覚がする。

 しかし、踊り場に出た瞬間、視界がパッと明るくなる。淡い黄色の光が、2階から漏れているのだ。僕は身を屈めて様子を伺う。どうやら、第二職員室にまだ誰か残っているらしい。光は職員室の磨りガラスから溢れたものである。だが、話し声は聞こえてこない。一人で残っている教師がいるのか。見つかると面倒だなと思って、忍足になり、急いで2階を通り過ぎる。下履きが廊下を打つわずかな音でさえ、心臓に圧力をかけてきた。

 息を止めつつ踊り場を越え、3階の廊下に出たところでほっと溜息をつく。僕が通ろうとした瞬間、職員室のドアがガラッと開くみたいなことがあるかもしれないと嫌な予感がしていたので、安心したのだ。

「おい、誰かいるのか!」

 そのとき、聞き覚えのある声が廊下に響いて、僕は思わず肩を上げる。一気に冷や汗をかいた。わずかな月明かりが差し込む廊下。誰もいないと思っていたのに、振り返るとそこには禿頭の数学教師、僕たちの担任の先生がいた。

「久保、お前だったのか」

 禿頭の数学教師は、軽蔑するような眼差しで僕を睨みつけてくる。先生は肩を上下させていた。まるでついさっきまでそこらを駆け回っていたみたいだ。

 僕は気になって質問する。

「どうしたんですか?」

 すると、先生が声を荒げた。

「ナメてるんか、お前!」

 突然のことに僕はキョトンとしてしまう。先生はいつも生徒のことなんか関心がないといった態度をとっている。だから、こんなに感情を露わにするのを初めて見た。

 しかし、なぜ自分が怒られているのかは分からず、黙っていることしかできない。すると先生は、自ら理由を話してくれた。

「お前がこんな時間に学校の中をうろちょろしてるから、俺がこんな時間まであちこち探し回らなきゃいけなくなったんだろうが」

 そうして禿頭の数学教師は憎しみの篭った目線をたっぷりと寄越した。

「警備員の人から全部聞いたぞ。放送室前で人影があったって。放送室の横には第一職員室があるよな。そしてその中には、大事なテストが入った金庫がある。お前がやろうとしていることは全部筒抜けなんだよ」

 そう捲し上げて、先生は最後にニヤッと笑った。

「今回の件は、親御さんにもきっちんと説明するからな」

 どうやら先生は人違いをしているらしい。僕は放送室に近づいていないし、そもそも警備員は僕が学校に着いてからずっと浜田さんのところにいる。

 しかし、そのことを説明している時間はなかった。僕はいろんな説明をすっ飛ばして、先生に尋ねる。

「あの、五百木さんを見ませんでしたか?」

 先生が目を丸くした。

「何を言ってるんだ?」

 僕から出た脈絡のない話に、着いていけなかったようだ。先生はどうせ僕が言い訳をするだろうと考えていたようで、それを論破してやろうとしていたことが顔に出ていた。

 だがすぐに表情を切り替えて、呆れたように顎を前に突き出して言う。

「あいつは昼間でさえ来とらんのに、こんな時間の学校にいるわけないだろう」

 それを聞いた瞬間、僕はぎゅっと拳を握り先生に殴りかかりそうになった。しかし、それをグッと堪えると、もはや怒りをかき消すほどの無関心が襲ってくる。

 禿頭の数学教師にとって自分が担任するクラスの生徒が一人不登校になっていようが、問題ないのだろう。世の中にはそういう考え方をする人もいると知れただけでよかったのかもしれないとさえ思えた。

 僕は握った拳を抑え、くるりと反転して廊下を走り出す。後ろから、「おい!待てっ。逃げるな」と声が追いかけてくるが、僕の耳には届かなかった。

 あの人のおかげで分かったことがもう一つある。あの人は、学校中を探し回ったのだ。そこでもし五百木さんを見つけたなら、きっと人影の正体は五百木さんだと思うはずである。しかしそれを僕と勘違いしたと言うことは、先生は五百木さんを見ていない。つまり、五百木さんが校舎の中にいる可能性は低いという事だ。

 だから僕はどんどん廊下の奥へ進んでいく。それに連れて窓が少なくなり、月明かりが届きずらくて薄暗くなっていった。さらに、埃っぽい匂いがする。

 それは、普段この道は人通りが少ないことを示していた。やがて突き当たりにたどり着き、僕は左側にある扉を開ける。その先は、さらに上へとつながる階段があった。普段は使われていない椅子が並べられており、通れないようになっているのだが、今はその椅子がひとつずらされている。それを見て僕は、この先に五百木さんがいることを確信した。僕は一度振り返って、今開けたばかりの扉を閉め鍵をかける。これであの人は追ってこれないはずだ。ガチャリという小気味の良い音が、暗い階段に響いた。

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