第42話

 僕は住宅街を抜け、細い道に入った。脇には、習字教室がある。目の前には、傾斜のきつい竹藪への坂が聳え立っていた。

 自転車のペダルを強く踏み込む。

 遼の自転車は僕のものよりも性能が良く、一漕ぎが軽くて距離も出る。新幹線から遼にLINEをして、駅まで持ってきてもらったのだ。とにかく時間が惜しかったため、きちんとお礼を言う時間がなかった。だから、返しにいくときに積もる話と合わせて、感謝を伝えようと思う。

 そんなこんなで進んでいると、竹藪の中に入った。ここまでくると街の光は全く届かず、周囲は闇に包まれる。冬場だと言うのに、全身から汗が噴き出していた。だが、足を止めるわけには行かない。五百木さんはもうすぐそこにいる。だから頼む。間に合ってくれ。

 やがて、荒い呼吸で肩を上下させながら分かれ道を右折する。その道をすすんだ先にある入り口のところに丸太が立っていて、青空公園と書かれていた。

 一本だけ立てられた街灯のおかげで、さっきまでの道よりも随分と明るい。僕は公園に踏み入りながら、ステージの方を見る。うっすらと光を受けて、教室の教壇を正方形にしたみたいな台が輝いていた。そして台からゆっくりと視線を上に動かしていく。

 しかし、その上に人影はない。首を振ってベンチの方を見るけれど、そこにも五百木さんはいなかった。

 遅かったのか……。

 最悪の展開が頭によぎって、僕は丸太のフェンスまで駆け寄り、崖の下を覗き込む。そこには、溜まった闇の中にうっすらと木々の面影が写っているだけで、他には何も見えなかった。その闇に、僕の心も飲まれていく。不安が波のように襲ってくる。

 僕は訳もなく、ステージの上に登った。そこから見える景色は、さっきまでとほぼ変わらないはずだ。わずか数センチ高くなっただけである。にも関わらず、そこは地上とはまるで別の世界に思えた。

 五百木さんが憧れ、桜井さんが守ろうとしていた景色を垣間見た気がする。

 僕は今まで、大勢の人の前に立つことを避けてきた。でも、目を閉じてステージに立つ桜井さんの視点になると、本当に楽しそうに笑う顔たちが自分の方を見ていることに気がつく。もし実際にこの光景に出逢ったら、僕はこの一瞬をずっと大切にするだろう。絶対に、何にも汚されたくない。そう思うほどに美しい景色だ。

 目を開けると、僕は慌ててステージから降りる。幻想に浸っている場合ではない。入り口付近で止めておいた遼の自転車まで戻って、携帯を取り出す。そしてそのまま、優馬くんに電話を入れた。優馬くんたちは、五百木さんの家周辺を回ってくれたようだけど成果はなかったらしい。僕は一旦三人で集合しようと思って、青空公園の場所を伝えると、浜田さんが来たことがあり場所は知っていたようだ。

 それから数分後に、二人が公園に駆け込んできた。

 驚いたのは、優馬くんが自転車に乗って現れたことである。二人は、並んで自転車を止めた。

「自転車、乗れるようになったの?」

「おう。まだ慣れないけど、一応な」

 そう言って優馬くんは、謙遜するように頭の後ろを掻いた。

「そんなことより、凪沙は一体どこに行ったんだ?」

 そこで浜田さんが言った。浜田さんの顔をよく見ると、僅かな光が額中の汗に反射して輝いている。それは、優馬くんも一緒だった。それだけで、一生懸命五百木さんを探していたことが伝わってくる。

「僕は正直、五百木さんはこの公園にいると思ってたんだ」

 それに浜田さんが反応する。

「どうして、そう思ったんだ」

「それは………」

 僕は言いかけて、言葉に詰まる。なぜ五百木さんが青空公園を最後の場所に選ぶかと思ったかを説明するには、桜井さんのことを話さなければならない。でも、五百木さんは桜井さんのことを周りのみんなには黙っていた。

 どうするべきか迷っていると、優馬くんが重たい声で言った。

「お姉さんのことなら、凪沙のおばあちゃんから聞いたぞ」

 そう言った瞬間、二人は俯いた。おばあちゃんも優馬くんたちと一緒に五百木さんを探していたらしい。

 そのとき夜の公園に、重い沈黙が舞い落ちる。その場にいる全員が、五百木さんの姉である桜井さんの死を痛感したのだ。

 しかし、それはわずかな間だった。やがて優馬くんと浜田さんは顔をあげ、僕に話の続きを促す。

 僕は二人に頷き、この公園が五百木さんにとって特別な場所だったことを説明する。二人は黙ったまま、僕の言葉に耳を傾けていた。これまでは僕が聞き役になることが多かったのに、今は僕が中心となって話をしている。でもそのことに不安はない。むしろ次から次へと言葉が出てくる。やがて話し終えた僕に、浜田さんが声を上げた。

「確かに、それを聞くと凪沙はここに来そうだけど、いなかったんだよな?」

 僕は力なく肯定する。だが、僕はすぐに言った。

「でも、ついさっき思いついたんだけど、もう一つ心当たりがあるんだ」

 僕は五百木さんの部屋の様子を思い出す。彼女の部屋は散らかっていた。でも、桜井さんのグッズの周りだけは、綺麗に整えられていたのだ。

 そして、さっきステージに登って、僕は気がついた。もし本当に五百木さんが桜井さんを神格化していたとしたら、桜井さんとの美しい思い出を汚したくないのではないのではと。つまり、五百木さんは最後の場所に桜井さんと関係のある所を選ばないのではないだろうか。

 僕はそれを口にした。すると、優馬くんが首を捻る。

「じゃあ、凪沙はどこに行ったんだ。まさかその………見ず知らずの場所でってのも考えずらい」

 優馬くんは意図的に自殺という言葉を避けた。そのことがさらに、事の深刻さをありありと僕らに思い知らせる。優馬くんも空気を重くしてしまったことに責任を感じたようだが、フォローする言葉が思いつかないようだ。

 また、雰囲気は沈黙に支配されそうになる。しかし、そこで浜田さんが言った。

「学校とかは?」

「あっ、それだ」

 優馬くんが声を上げる。五百木さんは学校で挫折を経験している。それも、二度。初めは、自分が桜井光になれないと思い知った。そして二回目は、自分は桜井光と違う生き方もできないと。客観的に見れば、二回目は挫折じゃないとわかるだろう。

 でも他人からすれば明らかなことも、本人には見えていないことが僕たち人間にはたくさんある。

 そして、五百木さんはそのことで自分を強く責めていた。

 桜井さんとの思い出に関係のない場所で、候補に上がるとしたら学校はかなり可能性が高いように思える。

 僕はその旨を二人に伝えた。

 すると、浜田さんは返事を言うより先に身を翻す。そして、勢いよく自転車に飛び乗った。

 それに優馬くんが続く。優馬くんはまだ慣れてはいないようで、止まった状態でまたがってからペダルを踏み始める。

 僕も二人の後に続いて、自転車を漕ぎ出す。そうして三人は青空公園を出て、学校に向かったのである。

 今にも消えそうなほど儚い街灯が、僕らの背中を照らした。

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