第40話
電話が切れて初めて、僕は自分の罪に思い当たる。
どうしてあんなにも簡単に、桜井さんは死んだと告げられたのだろうか。直接会って、真剣に向き合って伝えるべきことではなかったのか。それをなぜ、電話で。しかも一言、なんの気遣いもない言葉で。数秒前の自分が自分でないように思えて、鳥肌が立つ。
桜井さんは五百木さんの憧れだった。五百木さんは桜井さんを崇拝していた。
五百木さんは今、どう感じているのか。想像したくなかった。自分のしたことを認めたくない。僕は決して良い人なんかじゃないのだ。大切だった人の気持ちすら考えられない。大事なことからは目を逸らす。なんの取り柄もない、ただのクズだ。僕はただ逃げ続けてきただけだ。自分が傷つかないように。だから今も、ずっと応援してきた人が死んだというのに、涙ひとつ流れない。また、見て見ぬふりをしようとしている。本能的に。
コトンッ。
力の抜けた手から、スマホが滑り落ちた。それと同時にチンッと音が鳴って、エレベーターが開く。中から、マネージャーを見送ったのか若い女の警察官が出てきた。
「じゃあ、辛いと思うけど、少し質問しても良いかな?」
女の警察官は笑顔を僕に向ける。覗き込むようにして、僕をまっすぐに見つめた。膝に手をつき、しゃがみ込んだ僕と目線を合わせようと姿勢を低くしてくれるのだ。まるで、子供に話しかける保育士のようだ。
僕が桜井さんを殺しました。
そう言えば、僕は逮捕されるのだろうか。いっそ、牢獄の中で一生暮らしていきたいとさえ思う。
そのときだった。コンっ、コンっと足音が近づいてくる。
やがて温かい手が、僕の肩に触れた。振り向くと、彩花さんがいつも通り毅然とした態度で立っている。その表情には、涙の跡どころか、悲しさは微塵も感じられない。
「凪沙に希望のこと話したの?」
彩花さんがいつも通り抑揚のない声で言う。
僕はただ黙って頷くことしかできない。そのまま顔を上げる気力もなくて、首の後ろ側が傷んでくる。
「今凪沙に電話したのだけど、繋がらないの」
それはそうだろう。僕は五百木さんが何をしようとしているか、理解していた。でも、無視をする。もう何もかもが億劫で、誰にも話しかけてほしくなかった。誰がどうなろうと知ったことじゃない。僕は、一人になりたかった。このまま暗闇の底で眠っていたい。誰も僕を照らさないでくれ。
しかし、彩花さんは続ける。
「何があったの?話して」
警察官の女性は彩花さんのオーラーに圧倒されたのか、一歩退き、僕と彩花さんを交互に見ている。
僕は仕方なく、会話の内容を彩花さんに話した。と言っても、大した話をしたわけではないので、説明はすぐに終わる。
僕は相変わらず、下を向いたままだった。
彩花さんに叱って欲しかったのだ。「何をやってるの!」と怒鳴り飛ばして欲しかった。僕はひどい人間だと烙印を押されることを望んでいるのだ。
しかし、彩花さんはそのどれも叶えてはくれなかった。代わりに僕を受け入れてくれる。
「仕方ないわ」
その一言が、どんなに嬉しかったか。罪悪感が消えたわけじゃない。それでも、受け止めてくれる人がいるという事実だけで、心が軽くなる。
「どのみち私が同じように伝えていた。あなたのせいじゃない。自分を責めないで」
その言葉は無表情であるはずなのに、今までかけられたどんなセリフよりも温かい気がする。
「でも」
そこで彩花さんの口調が変わる。同じ抑揚のない声でも、明らかにトーンが違った。
「凪沙が危険な状況にいるのもまた、事実よ。あの子にとって桜井光はほぼ全てだった。ただのファンとアイドル、妹と姉の関係性を凌駕している。久保くん、あなたも気づいているでしょ。凪沙が今しようとしていることは何かしら?」
彩花さんが試すよな視線を僕に送ってくる。これが本当の最終試験ということか。僕は彩花さんに期待されているからこそ、試されているのだということが痛いほど分かった。
そして、今回は答えも理解している。さらに言えば、もしこの答えが正解なら迷っている時間はない。
僕はそこで顔を上げた。そして彩花さんの方を振り向く。すると彩花さんは、まるでおばあちゃんみたいに皺を作って微笑んでいる。
その表情を見た瞬間、心の底から力が湧いてきた。
萎んだ風船に空気を入れるように、背筋を伸ばし、胸を張る。そして、僕は言った。真っ直ぐ彩花さんの瞳を捉えたまま。
「五百木さんは、桜井さんの後を追おうとしています」
彩花さんが頷く。
「私もその可能性が高いと思うわ」
そう言って彼女は、ポケットから白い革製の財布を僕に手渡した。今度は笑顔ではなく、バトンをアンカーに託すリレー走者のような力強い視線を寄越す。その顔には、もう無表情の面影はなかった。
「中にお金と家の鍵とか入ってるから、使って」
僕は財布を両手で受け取る。すると、その手を温かく覆ってくれるものがあった。彩花さんが、優しく僕の手を包んでくれる。
顔を上げると、彩花さんの頬に一筋の涙が流れていた。
「ごめんなさい。私は愚かで無力な人間なの。だからまた、あなたを頼らなければいけない。世間からクズだと糾弾されても、それでも娘を守ってあげたい、守ってあげたかった…………」
突然のことに僕は驚いた。でも考えるよりも先に、口が動き出す。
「大丈夫です。彩花さんは愚かなんかじゃありません。あなたは人を魅了し、勇気を与え、行動させる力があります。桜井さんがあんなに多くの人たちを照らし続けたのも、あなたがいたからだと僕は思っています。だから安心してください。五百木さんは、僕がなんとかします!」
「本当にごめんなさい……」
一粒の雫が、エレベータホールの床に落ちる。その雫に、煌びやかな光が反射していた。
そこで彩花さんが手を離す。
僕は財布を受け取って、逆三角形のボタンを押した。そして振り返る。
彩花さんは涙を拭おうともせず、僕の方を見ていた。目があって、僕は声を上げる。
「あと、こういう時は『ごめんなさい』じゃなくて、『ありがとう』って言ってください」
自分で言っておきながら、その内容にびっくりした。どうしてこんな言葉が出てきたのか分からない。でも、良いセリフだなと感じる。
やがてその声が届くと、彩花さんはふっと笑って手でメガホンを作った。
「ありがとう!」
声は掠れていて、天井の高いエレベーターホールにも響かなかった。でも届くべき所、僕の心にはしっかりと伝わったのだ。
そこで一部始終をホールの隅で見守っていた女の警察官が、感動的なシーンを邪魔して申し訳ないのだけど、と表情で訴えながら近づいてくる。
「あの、一応事情聴取をしたいんだけど………」
すると彩花さんが、その警察官の肩を叩いた。驚いたように、若い女性警察官は彩花さんの方を振り返る。
「話は私が伺います。彼はここまでずっと私と一緒に行動してきました。問題ないですよね?」
その声は、力強かった。そこに込められた想いをあらためて実感する。僕も覚悟を決めなければ。生半可な気持ちで、五百木さんと向き合うことなんてできない。
女性警察官は、彩花さんの気持ちに圧倒されている自分と、職務を全うしようとする自分で葛藤しているようだ。
その証拠に、
「でも…………」
と、消え入りそうな声で抵抗の意志を示した。だが、彩花さんはそれを見逃さず、胸を張って言い放つ。
「私は不甲斐ない母親でした。そしてついさっき、大切な娘を失いました。もう誰も失いたくありません。彼は、私のもう一人の大切な娘を助けに行くのです。それを阻む人は、誰であろうと、母親である、私が許しません!」
その彩花さんの迫力は、周囲の人々を一瞬で引き込んでしまうほど圧倒的だった。女性警察官も言葉を返すことができず、口をポカンと開けたままこくりと頷く。
そこで、エレベーターのドアが開いた。
彩花さんはもう一度僕の方を見て頷く。僕も唇をぎゅっと引き締めて応じた。エレベーターに乗り込むと同時に、閉ボタンを押す。
彩花さんはドアが閉まるその瞬間まで、まるで自身の力を分け与えるかのように僕の方を見つめてくれた。
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