第39話
「もしもしっ」
緊張感のあるマンションの雰囲気に釣り合わない、溌剌とした声が電話越しに聞こえてくる。
「桜井光に会えた?」
五百木さんは、続けてどうだった?と聞いてきた。嬉しかったはずの五百木さんからの電話が、今は憂鬱に感じる。
僕は何をどう説明すればいいのか分からない。いっそ、
「桜井さんには会えたよ。死体だけど」
と言ってしまおうかとさえ思ったけれど、できなかった。でも桜井さんの自殺はすぐに五百木さんの耳へ届くだろう。だから僕がここで隠したところで意味はない。むしろニュースとかで知るよりは、僕が報告した方がいいはずだ。
そう思って、真実を告げる覚悟を決めるが、気分は沈んだままだった。
「あれっ、もしもーし。電波悪い?」
僕が葛藤して黙っていたから、五百木さんが言った。その口調は可愛らしくて、いつもなら冗談を返すか、投げかけられた言葉を噛み締めるかしていただろう。でも、そんな余裕はない。
僕はお腹の奥が痛くなってきて、その場にしゃがみ込む。
バランスを取るために携帯を持っていない方の手を置いた床が冷たかった。うずくまりながら顔を上げると、エレベーターホールにさっきの若い女の警察官がいる。彼女は上司らしき男の人と話していた。会話の内容は聞き取れない。
腹痛は増していくばかりで、胃が捩れそうだという言葉の意味を理解した。額に変な汗が滲み始めている。しかし僕は、なんでもないような表情を装った。桜井さんの部屋の前では、大人達が神妙な顔つきで俯いていたり、悲しそうな表情で電話をかけたりしているからだ。その空気は張り詰めていて、僕が迷惑をかけるわけにはいかない。
「あっ、もし、もし」
話し始めたタイミングでお腹が痛んだため、声が途切れてしまったが僕は桜井さんに言葉を返す。
「あっ良かった。全然声聞こえないから、電波悪いのかと思っちゃったよ」
「ごめん、電波は悪くないんだ」
「ならよかった。それより、桜井光には会えたの?」
めまいがして、視界がぼやけてくる。すぐ横にあった観葉植物が、大型の食人植物に見えてきた。僕は余事を頭の中から追い払おうと目を瞑るが、そうすれば瞼の裏に桜井さんが首を吊っている光景が浮かんでくる。
そのときだった。遠くからドタバタっとものが倒れる音が聞こえてくる。その音はくぐもっていて、桜井さんの部屋から発生したものだと分かった。
目を開けてドアの方を見る。すると、さっき警察官に桜井さんのマネージャーだと説明していた女性が息を荒立てながら飛び出してきた。女性と言っても、何かスポーツをやっていたのか筋肉質で男らしい雰囲気がある人だ。
「くそっ!このやろうっ!なんどぅぇぇ!」
その女性が、大股で何やら叫びながら廊下を歩いてくる。彼女は一歩一歩床を蹴りつけるかのように進んだ。
「どうしてっっっ、光が死なななきゃいけねぇんだよ‼︎」
やがて女性は僕の前を通り過ぎた。廊下の端でうずくまっていた僕は視界にも入らなかったようだ。だが、彼女は僕のすぐ目の前で立ち止まる。
一瞬の間が空いたかと思うと、次の瞬間には、ガッシャンという音が廊下に響いていた。
女性が、観葉植物の入った鉢を蹴り飛ばしたのである。白く艶やかな陶器が割れ、土が豪華な床を汚していく様子が、パラパラマンガのように視界を流れていた。
慌ててエレベーターホールで話していた若い女の警察官とその上司らしき二人が駆け寄っていく。
「落ち着いてください」
そう言って女の警察官が、マネージャーの背中をさすりながら彼女を現場から遠ざける。上司らしき警察官は部下に指示を飛ばして、鉢植えを片付け始めた。
僕はそのままここにいてはいけないと思い、立ち上がる。気づけば、腹痛のことを忘れていた。
そのとき、携帯電話から声がする。僕は五百木さんと電話中であったことも忘れていた。
「ねぇ今すごい音したけど、大丈夫?」
やっぱり、最近の携帯は優秀らしい。僕はもう躊躇っている場合じゃないなと思い、エレベータホールへ向かいながら言った。
「桜井さんは、自殺した」
もっと他に言い方はなかったのかと後悔しても遅かった。今度は僕が電話が切れてないか心配する番になる。そしてしばらくしてから、電話の向こうで何かが崩れ落ちる音がした。五百木さんの激しい息遣いだけが伝わってくる。
そのとき、ゴンッ!という衝撃音が耳に轟いた。それと同時に、五百木さんの息遣いが遠くなる。そこで僕は、五百木さんが携帯を投げ飛ばしたことに気がついた。
そして次の瞬間には、トゥルンと通話の終了を告げる音が響く。それは同じ音であるはずなのに、前聞いた時よりも荒々しく胸を抉るような気がした。
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