第38話
僕と彩花さんは、桜井さんの部屋の前までやって来た。廊下に飾られた観葉植物やエントランスのシャンデリアなど、見ただけで高級だと分かるマンションである。エレベーターも広かった。
そんな豪華な雰囲気が、余計に僕を緊張させる。さっきから心臓はマラソンを走った後のように拍動していて、止まる気配もなかった。
インターフォンを押しても、返事がないらしい。彩花さんは鍵を解除し扉を開けた。中は真っ暗で、スタスタと入っていく彩花さんとは対照的に、僕は恐る恐る部屋へ足を踏み入れる。
彩花さんが電気をつけた。同時に、玄関の様子がパッと浮かび上がる。エントランスや廊下とは違って、桜井さんの部屋はシンプルだった。ほとんど何も飾られておらず、靴もサンダルとスニーカー、ブーツが一足ずつあるだけである。多忙を極める桜井さんは、家にいることが少ないのかもしれない。
玄関の先には廊下が続いており、突き当たりに扉があった。どうやらその先がリビングのようで、彩花さんがその扉を開ける。
僕も靴を脱いで、後に続こうとしたそのときだった。
「えぅっ」
と彩花さんから聞いたこともない、嗚咽のような声が静かな廊下に響く。靴を揃えていた僕は振り返ると、扉にぶつかりながらリビングの中へ駆け込む彩花さんが見えた。
そして大きく開いた扉から、部屋の様子が僕の視界にもはっきりと入り込んでくる。
その光景を僕は一生忘れないだろう。思わず絶句してしまった。自分の体が自分のものではないように感じる。衝撃の波が、全身を強く打ち付けていった。頭で理解するより先に、怒りや後悔、そして絶望が心を埋め尽くす。
固まる体。崩れ落ちる彩花さん。そして、微かな腐臭。
リビングに設置されたエアコンの横のことである。
桜井光は首を吊って死んでいた。
僕は部屋の外の廊下で、目の前を流れていく人々を呆然と眺めていた。そうでもしてないと、目からは涙が溢れ、心が潰れてしまいそうだったから。警察や医師、そして桜井さんのマネージャーや事務所のお偉いさんが次々と部屋の中に吸い込まれては吐き出されていく。
結局、僕は何もできなかった。おこがましくも桜井さんを助けようなんて考えていた時にはすでに、彼女はこの世にいなかったのである。
それはショックなんてものじゃなかった。自分でも抱いている気持ちが何なのか捉えらえらない。ずっと応援していた人。常に僕を照らしてくれていた人。元気をくれて、僕に生きる力を与えてくれた人は、もう死んだ。僕の目の前で。
桜井さんの死を意識すれば、僕はどうにかなってしまいそうで、必死に別のことを考えた。優馬くんや浜田さんのこと。そして遼のことだ。しかし、気づけば桜井さんのことを思ってしまう。それくらい、僕の思い出は桜井さんだらけなのだ。本当に、桜井さんに助けられて来たのだ。それなのに、どうしてっ……………。
強く拳を握っても、現実は変わらず、ただ体と心の震えが増すだけだった。裸で吹雪の中に放り出されたような寒気がして、目の前が真っ白になっていく。
やがて、かなり時間が経った頃だと思う。若い女の警察官が、僕の元へ寄ってきて話を聞かせて欲しいと言った。
僕は部屋の中の様子を思い出す。桜井さんという文字がチラリと頭を横切るだけで、心臓を雑巾のように絞られたみたいな痛みがする。
僕は、桜井さんを直視することができなかった。それは本能的な反応だ。代わりに、部屋のテレビの横に置いてあるトロフィーが印象に残っている。それは五百木家にあったものと同じで、きっと桜井さんがダンス大会で勝ち取ったものなのだろう。そこには『2008』と刻まれていた。
それを見て、五百木さんが勝ち取った『2012』のトロフィーを思い出す。桜井さんには誰よりも彼女に憧れている妹がいた。それでも桜井さんは死んだのだ。
思考が悪い方向へ行っていると分かっていても、止められない。
僕は女の警察官に続いて、エレベーターホールへ向かう。途中に飾られている、よく手入れされた観葉植物が目に入った。その瑞々しさが僕を嘲笑っているように見えて、こんなものさっさと枯れてしまえと思う。もしくは、蹴り飛ばしてしまおうか。
そのときだった。ポケットの中にあるスマホが振動する。取り出すと、五百木さんからだった。
女の警察官は気を遣ってくれたのか、僕から距離をとってくれる。
そして僕は、無意識のうちに電話に出てしまった。
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