第37話
車の中は上品な匂いで包まれていた。
僕が後部座席に乗り込むと、彩花さんは車を発進させる。ふさふさのシートに座って前を見ると、運転席の後ろ側にシールが貼ってあった。それは一世代前のアイドルのもので、汚れ一つない車内で浮いている。でも逆にそのシールが僕を安心させた。
すると信号待ちで、ミラー越しに僕の方を見ていた彩花さんが言う。
「それはひかりが小さい時に貼ったのよ」
僕もミラーを覗いて、間接的に目が合うと、彩花さんはすぐ視線を逸らした。
向かっているのは東京で、車だと2、3時間かかるらしい。だから僕は携帯を取り出してまた、今日夕飯いらないとLINEを打つ。
そのとき、彩花さんが声を上げた。
「正直に言うと、私はまだあなたをひかりに合わせるべきか決めかねているの」
彩花さんの声は抑揚がなかった。
「だから東京に着くまでの間に、最終確認をしても良いかしら」
「最終確認ですか?」
「そうよ」
いったい何を確認されるのか知りたかったのだが、彩花さんは答えてくれなかった。代りに、いきなり質問が飛んでくる。
「まず久保くん、私のことが嫌い?」
予想外の内容に僕は「えっ」と言葉を出すのが限界だった。なんと答えれば良いか分からないが黙っていてはいけないと思い、車が高速のゲートを通ったあたりで僕は慌てて否定する。
「そんなことないですよ」
そう言うと、彩花さんは僕の返答を予想していたのか、
「そうでしょうね」
と言って溜息をつく。なんとなく僕は背筋を正す。窓の外を眺めてみても、同じような防音壁が流れていくだけだった。
「知ってると思うけど、ひかりは今熱愛報道が出て大変なの」
彩花さんが見ているのかは分からないが、僕は頷く。
「誹謗中傷は、私が芸能界にいたころから変わらずにある。でもひかりは今まで大きな炎上みたいなのは通らずに来たの。それに、今回のスキャンダルは事実じゃない」
そう言って、彩花さんは熱愛報道の真実を教えてくれた。それは前に五百木さんが「桜井光が言ってた」と教えてくれた内容と同じである。今思い返せば、あれは直接桜井さんから聞いたということだったのかと理解した。それにしても、ひどい話だと思う。桜井さんは勝手に腕を組まれてその瞬間を記者にとられた。桜井さんに悪いところなんて何一つないのに、なぜ世間はこれほどまでに彼女を責め立てるのか。
「だから尚更、精神的に辛いものがあると思うの。もともと、何でもかんでも抱え込んでしまう子だったから。あの子は優しすぎるのよ」
そう言って、彩花さんは桜井さんついてのあるエピソードを語ってくれた。
桜井さんが高校生の頃、ダンスレッスンに向かう途中で泣いている男の子を見つけたらしい。男の子は俯いたまま、声を顰めて泣いていた。だから、通り過ぎる人たちは男の子に気づいていなかったのである。でも桜井さんはその男の子を見逃さなかった。彼女はその子を放っておくことができず、今まで皆勤賞だったダンスレッスンを休むと連絡を入れて、その男の子に話しかけたようだ。さらに公園に連れて行って、歌や踊りまで披露したらしい。
その話を聞いて、僕はすぐに分かった。その男の子は僕である。あの日僕は初めて知った。この世には目を開けていられないほど眩しい光が、確かに存在することを。
その輝きは、自分の言いたいことを言えず心の中に閉じこもっていた僕に力を与えてくれたのだ。その養分で、今まで生きてこられたと言っても過言ではない。あの日桜井さんに出会わなければ、僕は質素で鮮色のない人生を送っていたはずだ。
たまに壁が開けて、田舎の街並みを見下ろせることがある。僕はぼんやりと外を眺めるが、美しいはずの田園風景が歪んで見えた。
それは怒りによるものだと確信する。それは世間に対してなのか、それとも自分自身に対してなのかは分からない。ただ、なんとかして桜井さんの助けになりたいという想いだけが強くなっていく。
「私が以前、久保くんのことを『良い人』と言ったの覚えてる?」
彩花さんのトーンが急に変わった。
「はい、覚えてますけど」
僕は身構えた。これも僕を試す質問なはずだが、正解が見えてこない。
「ごめんなさい。あの時私、あなたを利用するために褒め言葉を言ったの。言い方が悪いけど、昔から私がおだてると大概の人は言うことを聞いてくれるのよ」
そこで、彩花さんは一呼吸おく。そして次に発せられた言葉は、今までよりも力強く感じた。
「でも、あなたは本当に『良い人』だわ。久保くんは他人を否定することを知らない。どんな人でも受け止めようとする。たとえそれが自分には理解できないものであっても、精一杯近づいて解釈しようとする。そうやって受け止めてもらえた人間は、あなたからいったいどれほどの物を受け取るのか。とにかく、それができるのはあなたの強さだと私は思うわ」
彩花さんは褒めるのが上手だなと、場違いな感想を持ってしまった。自然と勇気が湧き上がってくる。本当に自分はすごい人なのではないかと思えてくるが、まだ何か成し遂げた訳でもないのに能天気な奴め、と自分にツッコミを入れて自省した。
それでも、評価してもらったということは、桜井さんに会わせてもらえるのだろうか。いや、待て。まだはっきり合格とは言われていない。
何をすべきなのか、必死に頭で考える。でもなかなか答えは見えてこなかった。
その時思い出す。ついさっき五百木さんに発した言葉を。素直に生きることが何よりも大切であると。僕は今まで、空気を読んで誰の気にも触ることのない言動を取るのが最善だと思っていた。波風のない穏やかな人生には、そうするのが一番だと。でも、それは逃げていただけだった。怖かったんだ、自分の素直な気持ちを否定されることが。しかし今ならやっと分かる。もし何も危険に晒さなければ、全てを危険に晒すことになるという意味が。
だから僕は、頭ではなく心に聞く。そして、ずっと気になっていたことを声にした。
「聞いても良いですか?」
「なに?」
「少し前、めんどくさい相手と焼肉なのって言ってましたけど、誰のことなんですか?」
いつのことだったか五百木家を訪ねた時、玄関前の駐車場ですれ違った彩花さんが僕に言ったのだ。
彩花さんは表情を変えないまま、前を向いているのがミラー越しに見える。さらに彼女がハンドルの上に細長い腕を乗せているのを直接見て、その華に圧倒された。
「いきなり人のプライベートに踏み込むのはどうかと思うわよ。受け入れられるか、拒絶されるかの二択。ギャンブルだわ。そしてそこで拒絶されれば、信頼回復は絶望的よ」
彩花さんが言った。抑揚のない声である。だが、なんだか楽しんでいるような含みがあったように僕は感じだ。
そして、彩花さんは続ける。
「でも今回は、あなたの勝ちね。ちょうど話そうと思っていたの。めんどくさい相手っていうのは夫のことよ」
彩花さんの横顔が、沈みかけた太陽に照らされた。
「凪沙とひかりの父親ね。今は、別々に暮らしているけれど」
想像していたわけではないけれど、彩花さんの言葉はすんなりと理解できた。
「ここからは、おばさんのつまらないエピソードトークになるんだけどね。結婚して、ひかりが生まれたのはモデルの仕事が忙しい時期だったの。ひかりを産んだことを後悔したことはないけれど、達成感を感じ始めたところで産休をとらなければならなくなった」
僕は神経を彩花さんの話だけに集中させる。
「一刻も早く仕事に戻りたかった私は、子育てが安定してきたらすぐに復帰したの。そのおかげか、仕事もまた以前のように回してもらえた。でも、問題が起きたわ。私自身がかつてのように動けなくなったことを感じたの。だからそれまで以上に努力した。美を徹底的に追い詰めた。でも、顔は老ける一方だし、体力も失っていく。それでも何年かは頑張ってたんだけど、仕事は徐々に減り始めて、そのときに凪沙が生まれた」
休日だけれど高速はそこまで渋滞しておらず、心地よい速度で車は進んでいく。
「それで私は引退を決心した。いや、単に復帰しても仕事がもらえないという状況が怖かっただけだと今なら分かる。そうやって逃げるように芸能界をさった私には未練が残った。当然よね、やりたいことから目を逸らしたのだから」
そこで、彩花さんはひとつ溜息をついた。僕はそこで声を上げる。
「逃げてしまうのは、人間誰にでもあることです。僕も逃げてばかりですから。でも大事なのは、目を背けたという事実に目を向けられることだと思います」
僕は桜井さんに会わせてもらうために彩花さんを励ましたことを、否定できない。しかし、言葉にしたのは紛れもない本心だった。
「やっぱりあなたは優しいわね。でも、ごめんね。私が気にしているのはそこじゃないの」
そう言うと、彩花さんはクスッと悪戯っぽく笑った。また彩花さんの知らない表情を見た気がする。
僕は余計なことを言ってしまったかとヒヤッとしたが、その声を聞いて気持ちを立て直す。
すると彩花さんも、またあの遠くを見つめる無表情に戻って、低い声で続けた。
「さっきも言ったように、引退してもなお私は美しくあることに執着し続けた。それは
度を超えていて、子育てや家事を疎かにしてしまったの。休日に二人を遊びに連れて行ったことはほとんどないし、一緒にゲームをしたり本を読んであげたりした記憶もないわ。むしろ、凪沙が私の顔を伺いながらそれでも笑顔で持ってきたぬいぐるみを放り投げたことさえある。今思えば考えられない行為だけど、当時の私はどうかしてて、自分のことで精一杯。周りの状況なんて目に入らなかったし、自分さえも見失ってた。だから私は今でも、娘たちと仲が悪いの。ひかりは大人になって、心を許してくれるようになって来たんだけど……」
そこで、彩花さんは間を作った。どこか、車のスピードが上がったような気がする。
「凪沙はまだ必要最低限くらいの会話しか、してくれない。だから、久保くんに凪沙の相手を任せてしまったの。本当は良くないことだと分かっているのだけど、私はまだ向き合う勇気がないみたい」
僕はずっと黙って聞いていることしかできない。
「久保くん、本当に感謝してるわ。ごめんなさいね、あなたのことを試すような真似をして。でも最初からあなたを不合格にするつもりはなかったの。むしろ、私は自分で自分を試していた。凪沙のことを助けてもらって、ひかりのことまで久保くんに頼っていいのかと。それでも私は母親なのかと……。母親であるかどうかは結論が出たわけじゃないけど、今私にできることはあなたにお願いすることだけだから。改めて、ひかりに想いを伝えて上げて」
唐突にそう言われて、僕は胸を撫で下ろした。そして、安心すると本当にこんな漫画のような動きをしてしまうことに驚く。日はどんどん沈んでいき、その赤を強める。そんな光に照らされた彩花さんの横顔は、いろんな話を聞いた後でもやっぱり、美しかった。
「あっ、あとそれから、凪沙はあなたのことが好きよ」
油断しているなか、不意に投げかけられた言葉はまるで異国の言葉みたいに、解析には時間を要した。
やっとのことで意味を理解した僕だったが、言葉を発するより前に、また悪戯っぽい声が飛んでくる。
「私はひどい母親だけど、それでも母親なんだから、娘が恋してるかくらい分かるわよ」
そうしてまた車のスピードが上がった。
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