第36話

「私と桜井光は姉妹なの」

 五百木さんは真っ直ぐ僕の目を見つめていた。その表情から、嘘をついていないのは明らかである。僕もこの写真を見て、心の奥底ではそうなのではないかと思っていた。でも理由はないけれど、そんなはずないと信じ込もうとしていたのかもしれない。

 僕は、与えられた情報を処理しきれず固まってしまう。

「しまい?」

 絞り出した言葉は、それだけだった。それに対して、五百木さんがゆっくりと頷く。五百木さんは顔を下に向け、Tシャツの袖をぎゅっと掴んでいた。

「桜井光は芸名で、本名は五百木希望。“きぼう”って書いて“ひかり”って読むの」

 五百木さんは、消えてしまいそうな声で言う。僕はそれを聞いて、もう一度部屋を見回した。まだ、二人が姉妹だという実感が湧かないけれど、真実を知った上で壁や天井のポスターを見ると、五百木さんが「引いた?」と言った理由は想像できる。

「いくら実の姉が国民的なアイドルだからって、こんなにポスター貼るのって異常だよね。しかも、一番目にする位置にはあるのは水着姿なんて……」

 僕が五百木さんに視線を戻しても、五百木さんは目を合わせてくれない。ずっと俯いたままだった。

 僕はそんなことないよと声をかけられない自分に腹を立てる。決して引いてしまった訳ではない。五百木さんの事を嫌いになった訳でもなかった。それでも、心のどこかで僕には理解できない気持ちだと考えている自分もいる。

 複数の桜井さんから視線を集める中、僕も五百木さんも散らかった床を眺めることしかできなかった。

 僕は何か話さなければ、五百木さんとの関係が終わってしまう気がして、顔を上げる。すると、五百木さんの肩越しに、僕が撮った青空公園の写真が見えた。

 これだっと思って、僕は声を上げる。

「この写真、飾ってくれてるんだ」

 すると五百木さんも顔を上げて、後ろのドアにある写真を振り返った。

「うん。青空公園はお姉ちゃんとの思い出の場所でもあるんだ」

「思い出の場所?」

「そう。小さい頃、二人でよく行ってたんだ。その時の私は、まだアイドルなんて言葉も知らなかったけど、お姉ちゃんはすでにアイドルになることを目指してた。それで、あの公園にある台に登って、いつも私に歌とダンスを見せてくれたんだ」

 僕は青空公園の横にある写真を見た。その中で笑顔を見せている姉妹が、青空公園でミニライブをしている姿を想像する。それはまるで自分の思い出かと勘違いするほど鮮明に、映像が浮かんできた。

「私は、ずっとお姉ちゃんに憧れてた。常に明るくて、周りにいる人たちにパワーを与え続けるお姉ちゃんに。だから私は、お姉ちゃんの後を追いかけた。お姉ちゃんと同じスクールでダンスを習って、同じ大会でトロフィーも貰った。いつも笑顔を作るように意識して、誰に対しても明るく接しようと頑張った。でも無理だったの」

 僕はただ五百木さんの告白に耳を傾ける。その声は低く、重みがあって、初めて心の底を明かしてくれていると直感で理解できた。

「中学生になって、ある男の子に告白されたの。でも私は、当時お姉ちゃんみたいになることしか頭になくて、恋愛なんて興味がなかった。だから呼び出された廊下で、想いを伝えてくれた男の子に私は笑顔でノーって言ったの。今でこそ気持ち悪いと思うけど、その時はどんな状況でも笑顔でいることが正しいと信じて疑わなかった。その後、男の子がその事を広めちゃって、私はサイコパスだって言われるようになって。もちろん、私は苦しかったし、友達もいなくて悲しかった。それでも笑顔でいつづければ、きっとなんとかなると信じて、口角を下げなかったの。そうすると、余計に気味悪がられた。その頃ちょうどお姉ちゃんがアイドルになってね。私はお姉ちゃんみたいにはなれないと悟ったの。それと同時に、私は自分のなれなかった理想像を桜井光に投影し、彼女を神格化して崇めた。このポスターのことを言い訳すると、こんな感じかな」

 五百木さんは不器用に笑って見せた。きっと、かつての五百木さんはずっとこんな表情で過ごしていたのだろう。心に笑顔で蓋をしていたのだ。

 五百木さんはさらに続ける。

「ひかりは高校生でアイドルになったから、青春に憧れてるみたいなの。だから私が、ひかりの分まで学校生活を楽しもうと決めてたのに、それも果たせなかった。私とひかりの唯一違う所なのに……」

 二人ともアイドルに憧れて、夢を叶えられた桜井さんと、夢を諦めた五百木さん。二人の違いは本当にそこだけなのか。僕は違うと即答できる。五百木さんは五百木さんだ。目の前のクラスメイトは仮面を被り、本当の自分を見失いそうになりながらも、仮面に手を伸ばし続けている。

 僕たち人間には、大切なことがあるのだ。

 無意識のうちにそんなことを考えていたのは、あいつのせいかもしれない。

 遼の言葉を思い出した。

「俺はお前の、そういう素直じゃなくてなよなよした所が嫌いだ」

 去り際のあいつの顔が脳裏に浮かぶ。素直じゃない所。確かに僕は素直じゃなかった。嫌われないように、周りの空気を読んでいつも自分を曲げてきたのだ。でもそれは嫌われることもない代わりに好かれることも無いことだと最近分かってきた。

 だから僕は声を上げる。

「僕の意見を言ってもいいかな」

 五百木さんはまだ自信なさげな表情で、頷いた。

「僕は笑顔を捨てられた五百木さんをすごいと思う。それはとっても勇気がいることだから。ずっと笑っていることも大変だけど、それ以上に自分の気持ちを素直に表すことって怖いことだと思う。それでも、五百木さんは正直に生きようとしているように僕は思うな」

 僕は言っていて、すぐに頬が火照ってくるのを感じる。五百木さんはありがとうと言ってくれたが、納得はしてないように見える。それでも良いと思った。今はわかってくれなくても、僕は思ったことを正直に伝えたのだ。そうやって伝わった言葉は、きっといつか意味を成すと僕は信じている。

 そのときだった。部屋のドアがゆっくりと開いていく。

 顔を出したのは、彩花さんだった。

「凪沙、ひかりのことを久保くんに話したのね」

 その目は、真っ黒で感情が読めなかった。五百木さんも同じように感じたのか、肩をすくめてなんとか声を絞り出している。

「ごめんなさい」

「良いのよ。私もそろそろ話そうかと思っていたから」

 彩花さんは、早口である。

「それより、久保くん」

「はい」

 急に名前を呼ばれて、僕は上ずった声で返事をする。

「あなたの言ったように、素直になるのは難しいことだと思うわ。でも大事なのは、それが難しいことだと分かっていることよ」

 そこで、五百木さんが僕の方を見てくる。まるで「お母さんは、いつから私たちの話を聞いていたんだろう」って問いかけてきているようだ。僕は分からないと、首を横に振る。

 そんな二人の仕草を見て察したのか、彩花さんが答えた。

「私、地獄耳なの」

 そして、短いブレスを入れると、彩花さんは続けて言った。奥行きの感じられない無感情の瞳が僕をまっすぐに捉える。

「久保くん。今からひかりに会ってくれない?今日は時間があるかしら?ぜひ、今の話をひかりにして上げて欲しいの。それだけじゃなくて、あなたがファンとして今までひかりから受け取った想いを全て、素直に、打ち明けて欲しいの」

 彩花さんはほとんど間を開けず、捲し立てた。でも僕ははっきりと内容を理解できたし、なんだか胸が騒ぎ出すのを感じる。

「今ひかりは見えない声に翻弄されいるわ。だからこそ、あなたのように実体のある声があの子には必要なの」

 僕は意識するよりも先に、頷いていた。自分でも思っていたより力強く。

「私も行く」

 と五百木さんが声を上げる。彩花さんに向けられた声は、駄々をこねる子供っぽさを含んでいて僕には新鮮だった。

 しかし、彩花さんは五百木さんを睨みつける。

「凪沙はここに残っていなさい」

 続けて、彩花さんは僕の方を向く。

「先に車へ行ってるから、準備ができたら来てちょうだい」

 そう言って彩花さんは扉を閉める。足早に階段を降りていく音が響いた。

 五百木さんはしばらく虚空を眺めて、呆然としていたけれど、僕の視線に気がついて微笑んだ。

「お姉ちゃんをお願い」

 僕はもう一度力強く頷くと、部屋を後にした。背後から、崩れ落ちるような音がしたけれど、見て見ぬ振りをする。

 今からずっとファンだった人に会いにいくと言うのに、心は夜の湖畔みたいに静かだった。むしろ僕は困っている一人の人間を助けるんだと、どこかヒーローを気取るような心地さえしている。烏滸がましいと分かっていても、僕がきっかけで桜井さんが立ち直っていくストーリーを想像した。強く拳を握る。

 一階に降りると、リビングの電気はすでに消えていた。

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