第34話
僕はリビングに戻ると、テレビの前にあるソファに座り込んだ。五百木さんの家のソファほどふかふかではないけれど、体が沈んでいく。
頭の中で色んな声がしては消えていき、僕は自分が今何をしているのか分からなかった。
素直ってなんだろうか。
ふと気がつくと、テレビから陽気な声が聞こえてくる。右手には、黒いテレビリモコンが握られていた。指の腹で、リモコン特有のツヤツヤした背面を撫でる。
どうやら無意識のうちに、録画しておいた音楽番組を再生していたらしい。司会のお笑い芸人が、アーティストをいじりながら紹介していく。
会場ではその司会のお笑い芸人がツッコむたびに、笑い声が上がる。ふと映る観客席も、みんなが模範的な表情で、手を叩いて笑っている人もいた。そんな様子を見て、どうせサクラだろうと思うようになったのはいつからだろうか。
ダラダラとその番組を眺めていると、やがて桜井さんが登場した。イメージカラーである桜色に、白色を混ぜ合わせた衣装を着ている。スタイリッシュなデザインのおかげで、桜井さんのスラリとした長身が際立っていた。
桜井さんが国民的なアイドルだからか、司会のお笑い芸人は他のアーティストに比べて特にいじったりツッコんだりすることなく桜井さんに質問をしていく。
「今年いっぱいで、芸能界を引退することを発表されましたけど、どうですか。心境は?」
「今はまだ実感が無いというか、ありがたいことにまだまだたくさん仕事をさせていただいていて、年末に向けてさらに忙しくなってくると思うので、あまり考える時間がない感じです」
「えー、そうですよね。今年の年末なんてね、すでにいろんな歌番組の出演も決まってねー」
「はい。最高の終わりを迎えられるように、頑張りたいと思います」
「いやー、楽しみにしてます。はいっ。じゃあ曲の準備もできてきたということで、この曲は桜井さんにとってどんな曲なんですか?」
「そうですね。何より歌詞が素敵で、ファンの皆さんもこの曲を聴いて元気になったって言ってくださいますし、歌っている私自身も勇気が湧いてくるような曲です」
そう言って桜井さんは、司会のお笑い芸人に向かって微笑んだ。
違和感を覚えたのは、桜井さんが歌の準備をしにいくため立ち上がった時だった。
アップで写された桜井さんの顔は、笑顔だったけれど目の奥は笑っていなかったのだ。
心なしか、ステージへ向かう後ろ姿がやつれたように感じる。テレビ越しでも異常な雰囲気が伝わってくる。現場で桜井さんへ質問した司会のお笑い芸人はとても桜井さんをからかうことなんてできなかったのだろう。他者を拒絶するようなオーラが桜井さんと周囲を隔てていた。
やがて、音楽が流れ始める。これは桜井さんの曲の中でも人気トップ3に入る、僕も好きな歌の一つだ。
桜井さんの歌声は相変わらず圧倒的で、会場のお客さんの中には目を閉じて聞き入っている人もいた(それも、指示通りなのかもしれなけれど)。
しかし、何度も桜井さんの歌を聞いたことがある人なら分かっただろう。その歌声は、いつもの透明感を完全に失っていた。
小さい頃によく遊んだ河川敷がゴミまみれになっていたような喪失感が僕を襲う。
そこで、音楽が終了し、桜井さんが人工的な笑顔を貼り付けたまま深くお辞儀しきるのを待たず、テレビを切った。
画面が黒く染まる。スマホといい、テレビといい、どんなに陽気で明るく刺激的な映像を映していたとしても、電源を切れば真っ暗になるのだ。
暗くなった画面を眺めていると、そこにさっきまでの桜井さんと同じ顔をした自分が浮かんでいて、慌てて視線を逸らす。
何があったのだろうか。ファンとして、桜井さんの状況が心配になった。
もしかして、卒コンが中止されたことと関係があるのだろうか?
僕は部屋から携帯を取ってくる。検索サイトを開き桜井光と打ち込むと、相変わらず炎上とサジェストされる。他にも、熱愛やら不倫やら薬物やら不穏な言葉が並んでいた。
“桜井光はアイドルとしてじゃなくて人間としてもゴミ以下。芸能界じゃなくて人間界からも引退した方がいい“
色々検索してみたところ、今までの炎上に卒コンの中止がさらに油を注いだようだ。ただのアンチより、手のひらを返したファンの方が何倍もタチが悪いらしい。
これらのコメントを部屋で一人、瞳を濡らして眺めている桜井さんを想像する。頬から落ちた滴は、燃え上がる炎を消すには弱すぎた。儚い水滴は、一瞬で蒸発し誰も気付かず消えていくのだろう。
僕は、心をグサグサと鋭利な刃物で刺されるような感じがした。
さっきの歌番組に出ていた桜井さんの表情が浮かんで来る。全く関係がないはずの僕まで、涙が出そうになった。
やるせない思いばかりが募って、体がぐったりとしてくる。もう何もかもが、どうでもいい気がしてきて、倒れ込むようにソファへ寝転がった。
こうやって、一生天井を見て生きていきたいとすら思えてくる。
その時だった。携帯が大音量で、通知が来たことを知らせてくる。僕は朦朧とした意識の中で、なんとかスマホを顔の前に持ってきた。
そして、次の瞬間には起き上がっていたのである。さっきまでの無気力感が嘘みたいだ。
通知は、五百木さんからだった。
迷わずメッセージを確認すると、
「いま、ひま?」
と送られてきていた。全部ひらがなな所が愛おしい。
「もちろん」
と返すとすぐに既読がついた。
「じゃあ、うち来れる?」
そしてすぐに返信が来る。青色の背景が、緑と白の吹き出しに埋まっていくのを見て、心が躍ってきた。ただ文字が送られてきたのに、それが五百木さんからのメッセージだという事実だけで、暗闇で呼吸するしかなかった僕の心に光が差し込んでくる。
暗い画面に映った僕が、笑顔になっていた。そんな表情を見て、僕はさらに口角を上げてみる。すると、心がエンドロール直後の映画館みたいに明るくなった。人間は口角をあげるだけでも、楽しい気分になってくるというのは本当らしい。
人の心はこんな些細なきっかけで変わるのか。
「すぐ行きます」
と僕は送信し、次の瞬間にはパジャマを脱ぎ捨てていた。
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