第32話

 そうやって挨拶をすると、トゥルンという電話が切れた音が耳に残った。

 僕は真っ暗になったスマホの画面をしばらく眺めていたが、やがてそれを枕元に置いて、ベッドから立ち上がる。

 目はぱっちりと空いていて、眠れそうになかった。

 すでに暗闇に目が慣れていて、難なくドアの側にあるスイッチまで歩いていくことができ、部屋の電気をカチッとつける。

 一瞬、眩しさに目の前が真っ白になったけれど、今度は明るさに目が順応した。

 すると、部屋の隅に置きっぱなしになっていた紙袋が目に入る。僕は自然とそれを手に取った。ザラザラとした手触りが、心地よい。

 中から、発売前だという桜井さんのCDを取り出す。ツルツルとしているビニールを、爪で引っ掻いて割れ目を作り、そこから一気に引き裂いた。

 僕はそこで部屋のドアを開ける。閉める手間も億劫に感じられ、部屋の光が廊下に漏れるのも気にせず歩き出す。

 階段を降りて、一階に着くと、母はまだ起きていて皿洗いをしていた。僕はそんな母を横目に、テレビの横にあるラジオみたいな形のスピーカー(実際にラジオも聴ける)を手に取り、

「これ借りてく」

 と、水道の音に負けないくらいの音量で言って、ドタバタとまた階段を上がる。開けっぱなしだったドアを閉めて、机の上に置いたプレイヤーから伸びるコンセントを繋ぎ、CDをセットした。

 ゆったりと、曲のイントロが流れ始める。

 僕は椅子にもたれかかり、そっと瞼を閉じた。優しいピアノとギターの音から、桜井さんが部屋に一人で佇んでいる姿を想像する。埃をかぶっていて、物が散らかっている西欧風の部屋。大きな窓からは、朝日が存分に差し込んでいた。

 桜井さんは部屋の中央で、そっと目を閉じたまま歌を口ずさみ始める。最初は、まるで鼻歌を奏でているかのようだった。しかし、桜井さんの瞼の裏には今までのアイドル人生が浮かび上がっている。緊張した初めてのステージ、関わってくれたたくさんの人々、苦しく激しくも必死に生き抜いてきた日常。様々な光景が、現れては消えていく。それらを眺めるうちに、歌声は語るように強さを増し、気づけば瞼の隙間から涙が溢れていた。

 そんな桜井さんの姿を想像させてくれる曲だ。まさに、最後にふさわしいと思った。この歌を聞いたことで、桜井さんが引退するということが深い実感となって胸に重い物を落とす。

 最後は透明ないつも通りの桜井さんの歌声になって、運命を受け入れこれから進むであろう新たな道へ期待を寄せるような優しさとともに曲が終わった。

 僕は目を開けると、自分の頬が濡れていることに気がつく。何度も何度も、手の甲で拭っても、頬は乾かない。

 それでも僕は、笑っていた。心の底からありのままに笑みが湧き上がってくる。鏡を覗き込めば、きっと僕の人生で最高の笑顔を見ることができるような気がした。

 まだ曲の余韻が耳の奥で響いている。

 僕はそのまま立ち上がる。自然と両足に力が入ったのだ。机の下に敷いてあるカーペットが、ふさふさと足の裏をくすぐる。それが心地よかった。

 ふと、顔を横に向けるとカレンダーが目に入る。そこには、雪だるまと一緒に満面の笑みを浮かべる11月の桜井さんがいた。

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