第31話

 ブゥー、ブゥー、ブゥー。

 携帯が振動している音で、目が覚めた。暗い部屋の中にスマホの光だけが眩しい。電話の音に混じって、僕のお腹も鳴る。今何時だろうか。

 そんなことを思って、携帯を手に取ると、そこに表示されていた名前に目を疑った。

 凪沙。

 数日前では考えられなかった文字が、僕のスマホに浮かんでいた。僕はすぐに、ボタンをスライドし、電話に出る。

「あっ、もしもし」

 五百木さんの一言で、眠気と空腹が吹っ飛んだ。僕は部屋の電気をつけることすら煩わしく、ベッドに座り込んだまま、携帯の奥に意識を集中する。

「凪沙です。ごめんね突然電話しちゃって」

 電話越しに聴く五百木さんの声は、いつもより透明感が増していた。僕は思わず、目を瞑って五百木さんの声に浸る。

「もしかして、もう寝てた?」

「うん。寝てたけど、大丈夫。もう眠気覚めたから」

 自分の声が震えているのがはっきりと分かる。僕は一度携帯を持つ手を伸ばし、スマホを耳から遠ざけて咳払いをした。それでなんとか喉の震えは治ったが、心臓の鼓動は増していくばかりである。

「風邪ひいた?大丈夫?」

 五百木さんが言ってきた。最近のスマホは優秀なようで、咳払いを拾ってしまったらしい。ミュートにすれば良かったか。

「ううん、大丈夫。それより、今何時?五百木さんの家から帰ってすぐ寝ちゃったから」

「ふふっ。そんな早く寝てたの?今は、11時過ぎだよ」

「ちょっと疲れ溜まってて」

「無理して私のところ、来なくてもいいよ?」

 五百木さんが気遣うように言ってくれる。でも、僕は食い気味に答えた。

「無理なんかしてないよ。だって、桜井さんの話ができるの五百木さんくらいだし」

「ほんとっ?よかった〜」

 五百木さんの声が弾ける。まぶたの裏に、ベッドの上でピョンと跳ね上がる五百木さんが浮かんだ。自然と口角が上昇していくのが分かる。

「それより、なんで急に電話してきたの?」

「あ〜、それは、別に大したことじゃないんだ」

 短い間を入れて、五百木さんが続ける。

「ただ今日の久保くん、なんか落ち込んでる感じで、気づいたら帰っちゃってたから大丈夫かな〜って思っただけ」

 僕は、今日の出来事を思い出した。確か、いつも通り五百木さんの家に行ったはず。それでドアの前で話をして、卒コンの中止を聞いて……………。

 そこからは意識が朦朧としていて、記憶も曖昧だった。だが、確実に覚えていることがある。僕は五百木さんに、なんの言葉もかけないまま帰ってきたのだった。

「あっ、ごめんっ」

 僕は見えていないと分かっていても、ペコリと頭を下げる。

「卒コン中止がショックすぎて、何も言わないで帰っちゃった」

「そうだよねっ!私、あの後しばらく一人で喋ってたんだからね。久保くん全然反応してくれないなーとか思いながら。めっちゃ恥ずかしかったんですけど」

 なんとなく頬を膨らませている五百木さんを想像する。自分でイメージしておいて、可愛らしいなと思ってしまった。

「本当に、言い訳のしようもありません……」

 僕はすぼんでいくような声を出す。

「ちょっと。謝らないでよ。なんなら、笑い飛ばしてくれるくらいじゃないと、私の一人語りが報われないでしょ」

 五百木さんの声は、遊園地に来た子供のように跳ねている。

 僕もつられて笑っていた。なんとなく体がぽかぽかと温まってくる。スマホを握る手に、力が入った。目を閉じて耳を澄ましていれば、五百木さんの細やかな息遣いまでもが感じられる。心臓の鼓動は、坂道を滑り落ちていくように加速していく。

 僕は膝を抱え込むよにして、体育座りの姿勢をとった。

 桜井さんの引退を知った時も、ここでこうして涙を流したことを思い出す。あのときは、独りだった。僕はただ、虚しく息を吐き続けるエアコンの音だけを聞いていたのだ。   

 でも、今は違った。

 スマホの奥で、僕の話を聞いてくれる人がいる。僕を気遣って、電話をかけてくれた人だ。前と同じように、ふとももの間に顔を埋めてみても涙は出てこない。

「ありがとう」

 その代わりに、自然と言葉が漏れていた。夜の川辺で、焚き火に手をかざすように心の中が熱くなっていく。

「どうしたの、急に?」

 五百木さんが、不思議そうに尋ねた。

 それに対して僕は、本心の一つを曝け出す。

「電話をかけてくれて、ありがとう。今までこんな経験なかったから、うれしい」

 五百木さんは何も言わない。ただ、鼻を啜るような音だけが聞こえてきた。

 少しして、五百木さんが口を開く。

「そんなこと言ってもらえて、私もうれしい。いや、私の方がうれしい」

 僕もすぐに返した。

「いや、僕の方がうれしいよ。初めてだよ?こんな電話もらうの」

「それで言ったら、私もこんな素直に感謝の気持ち伝えられるの初めてだから。私の方がうれしい」

「いや、僕の方がうれしいね」

「そんなことない。私だね」

 そうやって、言い合って、最後は二人で笑った。ひとしきり、声を上げて、お腹を抱えた所で、少しだけ現実が顔を覗かせて、自分の顔が赤くなっているのを感じる。ビデオ通話だったら、即電話を切っていたかもしれない。

 五百木さんも同じように感じているのか、ちょっぴり気まずい沈黙が訪れる。それでも、僕の心はお風呂上がりのようにぽかぽかしたままだった。

 それから、桜井さんのことで雑談をして盛り上がった後、五百木さんが名残惜しそうに、

「もうそろそろ、日またいじゃうから寝るね」

 と言った。

「分かった。おやすみ」

「うん。おやすみなさい」

 そうやって挨拶をすると、トゥルンという電話が切れた音が耳に残った。

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