第30話

 まるで時間が飛んだように、気づけば自宅に着いていた。

「おかえりー。ご飯もうちょっとでできるからー」

 とキッチンから叫ぶ母親を無視して、僕は階段を上がった。ここでも、足にうまく力が入らず、転びそうになる。

 なんとか、部屋に入ると目の前にカレンダーがあった。もちろん、写っているのは桜井さんである。

 日付欄の上に、夕日に染みた真っ赤な背景の中桜井さんがキラキラとした目で、太陽を眺めている写真があった。もう11月になってしまったのでカレンダーとしての役割は果たしていない。でも、僕はこの写真が好きだったから、破れずにいたのだ。

 美しく世界を包み込むように輝く夕日よりも、煌めく桜井さんの瞳。きっと今の桜井さんはこんな目をしていない。理不尽に燃え上がった炎の煙によって、燻んでいるはずだ。

「くそっ」

 僕は呟いてみる。さっきまでふにゃふにゃだった体に、力が蘇ってきた。むしろ、力は溢れかえっていて、全身が震えてくる。

 それからのことは記憶が曖昧だった。

 でも僕は、スターを手にしたのにぶつかっていくクリボーがいないようなもどかしさを感じていたことだけは覚えている。

 怒りは際限なく湧き上がってくるにも関わらず、それを吐き出せる所がなかった。

「ハァー」

 意図的に深く息を吐いてみた。そうすると、心が落ち着いてくる。ストレスを感じたときは、深呼吸も悪くない。

 そう思ったのも束の間、一時的に治まった怒りは桜井さんの笑顔を見るたびにまた胸の中を焼き尽くしていく。

 なぜ桜井さんが責められなくてはいけないのか。

 やがて呼吸は浅くなり、意識しても深呼吸ができなくなった。

 ハッ、ハァ、ハッ、ハァ、ハッ、ハァ、ハッ、ハァ、ハッ、ハァ、ハッ、ハァ、ハ。

 僕はカレンダーに向かっていく。通学鞄をおくことさえ忘れていた。視界が極端に狭まる。桜井さんの嘘みたいにキラキラした瞳しか捉えられない。肩で息をしていた。桜井さんの瞳が鼻の先にある。僕は目をぎゅっと瞑った。口角を上げて、歯をぐっと食いしばる。全身が、燃えるように暑かった。

 顔中の筋肉という筋肉が攣るくらい表情をしかめた後で、僕は10月のポスターをビリっと破る。

 そこからは、手が止まらなかった。気づけば、鞄を放り投げ、ゴミ箱を見下し、その上でカレンダーを裂いている。

 それでも怒りは消えることなく、二つになった桜井さんの顔を重ねて、さらに破った。4つになった紙をまた破り、8つになっても、16枚になっても僕の手は止まらない。しかし、帰宅部の僕に大した力があるわけでもなく、気づけばそれ以上どう頑張っても破れないほどカレンダーは厚くなっていた。

 そこで再び全身から力が抜ける。

 手に握っていた紙屑を全てゴミ箱に落とし、僕はベッドに倒れ込んだ。そのまま布団を顔の上まで被せて、目を閉じる。

 いつもなら、寝たくなくても眠りに落ちているのに、今日に限ってなかなか意識が沈んでいかない。さらに全身から不快な汗が流れ出ていた。

 でも僕は決して目を開けなかった。

 もしこれ以上、桜井さんの顔を見たら、僕が今まで積み上げてきたものを全て壊してしまいそうな気がしたからだ。キーホルダー、タオル、CD等々。たとえ桜井さんが引退するとしても、桜井さんには良い思い出として僕の心に残ってもらうために、これ以上何も壊したくなかった。

「ご飯できたわよー」

 そのとき、キッチンから母親の場違いな声が聞こえてきた。

「いらねぇよ」

 と布団の中でつぶやくが、聞こえるはずもなく、もう一度、

「ご飯できたよー」

 とさっきよりも大きい声がする。

「いらない」

 と僕も、今度は聴こえるような声を出したつもりだが、届かなかったようで、母親が階段を上がってくる音がした。

 コン、コンッ。

 ノックと共に部屋に入ってきた、母はもう一度、

「ご飯できた」

 と言った。表情は見なかったけれど、もう布団にくるまっている僕を見て、呆れたように肩の力を抜く母を想像できる。

「いらない」

 そして僕も、最後に声を振り絞ると、母親は部屋の電気を消して去っていった。

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