第29話
僕は五百木家のインターフォンを押す。家の中で誰かがバタバタと玄関に向かってくる音が聞こえた。
見上げてみると、夕日は沈みかけていて紺碧の空が視界の大半を占めている。制服の上にウィンドブレーカーを着ているため体は暖かいけれど、露出している耳に刺さる冷たさが目立つようになってきていた。
そこで扉が開く。
「いらっしゃい」
顔を出したのは、おばあちゃんだった。いつもは彩花さんが出てきてくれるのに、珍しい。
おばあちゃんが、手で僕を家の中へ促す。おばあちゃんはいつも通り柔和な笑みを浮かべていたが、それはどこか無理矢理笑っているような印象を受けた。
リビングに入ると、彩花さんが出てこれなかった理由が分かった。彼女はダイニングテーブルの一角に座りながら、右手に掴んだスマホを耳に当てている。
その顔はいつもの無表情ではなく眉間に皺を寄せていたのだったが、僕を見ると微笑んで口の形だけで、
「いらっしゃい」
と言った。そしてすぐ険しい表情に戻ると、
「大丈夫。私のときにも、よくあったことだから。誰にでもあることよ」
と強めの口調でスマホに向かって語りかけていた。
僕はあまり聞かない方が良いと思って、足早にリビングを通り抜け階段を上がっていく。
薄暗い廊下を進んで、ドアの前まで来る。
「五百木さん、今日も来ました」
「久保くん。いつもありがとう」
五百木さんの声も、いつもより沈んでいるように感じた。何かあったのだろうか?
彩花さんが話している声が、遠くでわずかに聞こえている。
「見た?あれ」
五百木さんが言った。
「あれって?」
と僕が聞き返すが、五百木さんは、
「えーとっ〜」
と口籠もってしまった。何か言いづらいことなんだろうかと思って、僕はすぐに思い当たる。
「もしかして、熱愛報道のこと?」
そう言うと、五百木さんは声のトーンを上げて、
「あっ!それも話さないと」
と言い、語り始めた。
「本当ひどいよね、あの記事。もうなんなのって感じ。読んだ?久保くん」
「もちろん、読んだけど、ああいうのってどれくらい本当なの?」
僕は胸のつっかえが取れることを願って、モヤモヤを声にした。
「結構事実を書いている記事もあるのかもしれないけど、今回のは全部嘘だよ」
それに対して五百木さんは力強い否定を返してくれた。心の夜空に、一瞬だけ流れ星が現れた気がする。
「全部嘘?なんで分かるの?」
「桜井光がそう言ってた。あれはたまたま帰り道にケイと会っただけで、ケイが酔っ払って腕を組んできただけらしい」
「なるほど。桜井さん、そうやって発表してたんだ」
僕は顔もわからない記者の言葉に踊らされて、桜井さんの声を聞き逃していたことを反省する。
五百木さんは僕の言葉に反応せず黙ったままだが、気にせずに続きを話す。
「でもなんか、それならもうちょっと炎上も治っていい気がするな。僕も最初は記事を本当なのかなと思っちゃったけど、桜井さんがそうやって公表してるんだったら、僕は迷わず桜井さんを信じるのに。みんなはそうじゃないのかな」
「………………そう、だね」
五百木さんは曖昧な返事を寄越した。それには自覚があるようで、誤魔化すように明るい声を作ってから、五百木さんは恐ろしい事を告げる。
「それより、卒コン、中止になっちゃったね」
「えっ」
僕の全身が石像の如く硬直する。きっと今の顔を鏡に映せば、両眉を吊り上げ唇を開いた間抜けな表情が浮かぶだろう。
一瞬で、頭の中が空っぽになった。
「もしかして久保くん、知らなかったの?」
「う、うん」
「今日のお昼くらいに、発表されてたよ」
昼食の時は、優馬くんや夏樹さんの話を聞いていて、そこから五百木さんの家へ来るまでも忙しく、スマホを見る余裕がなかったことを思い出す。
「中止ってどういうこと?延期とかじゃないの?」
「うん。もう完全にやらないみたい。なんか桜井光の体調が良くないって書いてあった」
「そんな……」
僕は言葉に詰まった。感情に整理がつかない。卒コンが中止された?なら桜井さんはこのまま区切りを迎えることなく、僕たちの前からフェードアウトしてしまうのだろうか。そんなこと受け入れられない。気づけば日常から桜井さんが消えるなんてことあり得るだろうか。いや、僕はきっといつまでも桜井さんの面影を追い続けてしまうはずだ。
「なんか、今回の炎上も関係しているみたい」
そこで、五百木さんが言った。
「体調不良って言っても、何か病気にかかったわけじゃなくて、ストレスとか精神的なことから来る、倦怠感とか震えとかそういう系のものらしい」
五百木さんの語る言葉は震えている。
僕もまだ視界が定まらず、意識が朦朧としていた。変な頭痛がし、目の前にあるドアが揺れている。でもそんな中で、拳を強く握りしめることだけはできた。
もしスマホから、桜井さんを叩いた生身の人間が出て来たら、握った拳を振りかざすことに躊躇はないだろう。
だが、現実には、僕の拳は所在なさげにただ怒りに震えているだけだった。僕は埃一つない廊下のツルツルとした感触を足裏に感じながら、ふらつく足取りで五百木さんの部屋を離れる。
体を左右に揺らして階段を下っていくと、足を踏み外してしまった。その瞬間だけ意識が現実に戻って来る。しかし踏み止まって大事を避ければ、また僕の魂は深い森の中へと彷徨っていく。
目眩を感じる中1階に降りると、まだ電話をしていた彩花さんの前を通った。
彩花さんは「もう帰るの?」と言いたげに、眉を吊り上げていたが、僕は何も反応せずに通り過ぎた。
玄関に来て、かかとを踏むことも気にせず足を靴に突っ込んで扉を開けたところで、五百木さんに何も挨拶をしていないことに気づいたが、もうどうでも良いように感じる。
そしてそのまま、五百木家を後にした。ふと見上げると、夜空には灰色の雲が蔓延っており、月明かりを完全に隠している。流れ星も見えそうにない。
溜息をつくと、白いもやが現れて僕の行き先を曇らせたのだった。
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