第24話

 月曜日。待ちに待った週明けだった。

 やっと課題を提出し終え、僕は五百木さんの家へ来ている。彼女の部屋の前にたどり着いた僕の胸は、踊っていた。

「五百木さん」

「何、久保くん?」

 呼びかけると、返事がくる。その当たり前のことが、どれだけ嬉しいか。

「この前はありがとうございます。あのメモを見て、なんというか救われました」

 ちょっと大袈裟に聞こえる表現で、照れ臭かったが、思ったことを素直に告げた。

「本当に⁉︎そう言ってもらえて、私も嬉しい」

 すると、五百木さんも喜んでくれた。僕たちはいつも通りドアを挟んで話していたけれど、まるで海や水族館に来たように会話が弾んだ。

「そういえば、昨日優馬と夏希が来てくれたよ」

 五百木さんが透明な海水のような声で言った。

「どうだった?」

「久しぶりに喋れて、すごく楽しかった。めっちゃ盛り上がったよ」

「ほんと?なら良かった」

「優馬が言ってたんだけど、久保くんが二人に私の所へ行くようお願いしてくれたんでしょ」

「うん」

 本当は続きを優馬くんや浜田さんに任せて、僕はもう五百木さんに関わらないで済むようにと思ってやったことだった。逃げ道を用意していたのだ。でももう、そんな気持ちは一切ない。

 申し訳ないと思ったけど、今はそれよりも大事なことがあると考えられるようになっていた。

「ありがとう」

 どうして五百木さんは、そんな言葉を素直に言えるのだろうか。そんな僕の心をモーフで包み込むような言葉を。

「あっ、そういえば」

 突然、五百木さんが弾けるように言った。

「桜井光の卒コン、落選しちゃったよ〜」

 それに対して、僕は答える。

「あっ、僕も、落ちちゃいました」

 でも僕はもう五百木さんと卒コンに行けなくてもいい気がしている。もちろん行けるに越したことはないのだが、こうやっていつまでも話すことができるのなら特別なイベントは何も要らない。

 桜井さんの引退はネット配信で見れるため、独りで静かに見守ればいいと思う。

「久保くんも落ちたの?あ〜、残念っ。最後のライブは配信かぁ〜」

 五百木さんはそれでも生で見たかったのか、声を低くている。

「それにしても、こんな風にチケット販売に落ちた受かったって騒げるのも最後なんだよね」

「そうだね」

 一つの時代が終わろうとしているのかも知れない。今まで当たり前にあった日常が、全く別のものになる。古典の教科書に載っている作品が、やたらと無常感をテーマにしている理由が少しだけ分かった気がした。

 当然のことだけど、永遠なんてないのだろう。桜井さんは引退する。

 でも、彼女が輝いた時間がなくなるわけではないはずだ。桜井さんが残してくれたものは、僕たちを新たなステージへ連れて行ってくれるかもしれない。

 今はそんな風に考えることができた。

 自分でも、前を向けている気がする。そして、五百木さんも一緒に新しいステージへ進んでくれたら良いなと思った。

 その時だ。

「ねぇ、久保くん。ライブのチケット当たったら私と一緒に行くつもりだったでしょ」

 突然そんなことを言われて、僕は後ろにぶっ倒れそうになってしまう。

「別にそんなことないよ」

「本当に?私は一緒に行きたかったよ。正直、一人で桜井光の引退を見届けられる自信なんてないし」

「自信?」

「そう」

 五百木さんは、声のトーンを落として言った。

「あんまり言ったことないんだけど、なんで私が桜井光のファンかって話聞いてくれる?」

「もちろん。めっちゃ聞きたい」

「ほんと?ありがとう」

 五百木さんが嬉しそうに、ふふっと笑った気がした。

「私ね、ずっと憧れてるの桜井光に。もし自分がもう一人いて、周りの目とか何も気にせずに好きにやっていいって言われたら、桜井光の様に生きる気がする。決して近づくことができない理想像みたいな?」

 僕とは正反対な考え方だった。僕にとって桜井さんは遠い場所から僕たちを照らしてくる存在だけれど、五百木さんは自分を桜井さんと重ねている部分があるのかもしれない。

 僕は優馬くんたちとカラオケに行った時のことを思い出す。五百木さんの堂々とした歌声は、一瞬で場の雰囲気を変えてしまった。それにダンスでトロフィーをとったことがあるなら、五百木さんも桜井さんのようなアイドルになることができる気がする。

 それを口にすると、

「やめてよ。おだてないで」

 と言われてしまった。そして、五百木さんは続ける。

「でも、もし私に必要な能力が能力が揃っていても、私はアイドルにはなれない気がする」

「なんで?」

「私は多分、みんなの前でずっと笑顔でいることなんて無理だと思う。だから、だからこそ、本当はそうしたいのに、できないことをやっている桜井さんが私の理想像なんだよ」

「なるほどね」

「うん」

 そこで、少し間が空いた。だけど、その間を埋めるように言葉を発したのは僕である。気づけば言葉が口から溢れていた。

「ありがとう。なんか本音で話してくれてる感じがあって、嬉しい」

 そう言うと、ドアの向こうから「うーん」という声が聞こえてきた。なんとなく、五百木さんが考え込むように手を顎にあてる姿が思い浮かぶ。

「こんなこと言ったら申し訳ないんだけど……」

 五百木さんはそうやって丁寧に前置きした。でも大丈夫だ、僕は何を言われようとも受け入れられる確信がある。

「もちろん本音で話してはいたけど、お互い嘘もついたよね?私も、久保くんも」

 五百木さんは、怖い王様に仕える気弱な下部のような声で言った。その最後の一言だけは、紛れもなく五百木さんの心の声だったのだろう。

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