第23話
翌日。桜井さんが引退を発表してから二度目の日曜日がやって来た。
僕は部屋の机に向かって、精神統一をしている。目を開けると視界の中央にあるのは参考書ではなく、スマホだ。
後ろにあるカーテンの隙間から、今頃真上に近づいているだろう太陽の光が差し込んでいる。
僕は、今朝僕を起こすという役割を放棄したアナログの目覚まし時計を確認した。時刻は11時51分を差している。
寝坊したせいで、午前中は思うように課題が進まなかった。だから、午後は図書館に行って頑張らなければならない。でもその前に、僕は今重要な局面を迎えている。
携帯をフェイスIDで開いて、桜井さんの公式サイトへ飛ぶ。右上にメニューがあるのを確認し、その中からチケット購入というボタンを押した。
すると一番上に、「桜井光、卒業記念ソロコンサート」と言う文字が現れ、その横にある長方形の枠の中に黒色で“販売前“と書いてあった。
僕はその枠が青色に光り、“販売前“の文字が“購入“の2文字に変わる瞬間を待っている。11時53分。刻々とそのときが近づいている。
なんだかそわそわしてきて、さっきから貧乏揺りが止まらなかった。
チクッ、タクっ、チクッ、タクっ。
アラームの大音量は聞き逃したくせに、僕の耳は秒針が刻む些細な音を丁寧に拾っていた。それが余計に、心をざわつかせる。
今全国で、僕と同じようにスマホやパソコンの画面を前に待機している人がいるのだろう。ライバルが減ると言う意味では、その人数が一人でも少ないことを祈る。しかし、桜井さんの人気を考えるとその人数が一人でも多い方が嬉しいという複雑な心境だった。
やがて、心なしが部屋に入ってくる光量がモワッと増えたように感じた瞬間である。
12時。
正午になった。“販売前“の表示が、“購入“に変わる。ついに待ち侘びた瞬間がやってきた。
僕は一切の迷い無く、そのボタンを押す。その瞬間に、心の中を不安まじりの期待が広がっていく。祈るように、スマホの画面を見つめた。
しかし、それはうんともすんとも言わない。画面は全く切り替わらなかった。まるでスマホが、何も押されてませんよとしらを切っているようである。
僕は一度サイトを落として、再び入った。そしてまた同じ手順を踏む。すると今度はすぐに画面が変わった。しかし、現れたのはただの真っ白な画面で、サーバーが混み合っていますと表示される。
少し待っても状況が良くなる気配はない。僕は舌打ちをしつつ、もう一度サイトに入り直す。それでも、同じことの繰り返しだった。
そして、何度も挑戦しているうちに、“購入“の表示が“売り切れ“に変わる。
「はぁ〜」
意識せずとも、ため息が流れ出た。全身から力が抜け、椅子を滑り落ちそうになる。僕は態度の大きい猫のような姿勢になった。
虚しい視界の中心に売り切れの文字を持ってくる。
しばらくぼーっと宙を眺めた後、僕は慌てて姿勢を正した。さらに自身の体を抱くようにして腕を組む。
僕は自分が落胆していることを自覚した。そしてそれに驚いたのだ。
五百木さんのためという大義名分があった僕は、どこかでチケットを手に入れられると信じているところがあったのだ。期待していただけに、失敗した時の落ち込みも増している。
久しぶりの感覚だ。何も望まないことで、叶わなかった時の傷つきを防いできたのに。この胸の痛みが懐かしかった。
それにしても、もっといい性能のスマホかパソコンを用意しておくだとか、回線の良い場所を探しておくとか、努力の余地はあったのかもしれない。
そう反省してみるが、見えている景色は何も変わってこなかった。そのことに、さらにため息を吐き出す。
ともあれ、もう過ぎてしまったことだ。
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