第18話

 金曜日。近頃、放課後になればそのまま五百木家にお邪魔するのが習慣になりつつある。

 今日も例外ではなく、特に意識せずとも、気がつけば五百木さんの部屋の前にいるのだ。

 五百木さんの話す声は、相変わらず明るく何の問題もないように思えた。

「ごめんなさい。毎日のように押しかけて。迷惑じゃない?」

「全然大丈夫だよ。久保くんと話すこと以外することないから」

 本当かどうかは分からないが、そう言ってもらっただけで安心する。

「そういえば、桜井さんを撮ったドキュメンタリー映画見たことある?」

「『この場所』ってやつ?」

「それ。ライブの裏側とかに密着したり、ダンスレッスンの様子を撮ったりしてるやつ」

「見たことあるよ」

「あれ見て、すごい感動した。気づいたら、涙が出そうになってた」

 本当はもっと伝えたいことがあったのに、感動したという表現しか出てこない語彙力が悲しい。

「私も感動した。なんか、想像はしてたんだけど、やっぱりあのステージに立つ桜井光は、ものすごい苦労や努力に支えられてできてるんだって改めて分かった気がする」

 確かにそうだろう。桜井さん本人の苦労はもちろん、その他にも大勢の人が同じ方向に向かって進もうともがくからこそ、僕たちは感動するのだ。

「そうだよね。なんか桜井さんの素が見れた気がした」

 そこで、一瞬の沈黙があった。

 五百木さんが、言葉を選んでいる間であることがドア越しでも伝わってくる。

「それはちょっと違う気がする」

 返ってきたのは否定の言葉だった。五百木さんは、僕をできるだけ傷つけない言葉を探したのだろう。それでも、桜井さんのことに関しては自分の意見をしっかり言いたい。もし一度でも逃げてしまえば、これからも同じような場面に遭ったとき逃げる癖がついてしまうから。そんな気持ちが、痛いほどわかった。

 もちろん僕は意見を否定されたくらいで、嫌いになったりしない。いや、大体の人間がそうだろう。それを伝えたいと思ったが、声に出なかった。

 代わりに、五百木さんが続ける。

「確かにあの映画の中では、桜井光の努力や苦労に焦点が当てられてたけど、実際にはあるのに取り上げられてないものがあったと思う」

「実際にはあるのに、映画にはなかったもの?」

「そう」

「それは、何?」

「……………………………………桜井光の悩み」

 悩み。言われてみればそうだ。

 『この場所』の中には、桜井さんが疲れ果てて寝落ちした姿や、新幹線の中で必死に振付を覚える忙しない日々などがありのままに描かれていた。しかし、彼女が思い悩んでいるシーンはほとんどなかったように思われる。

「桜井光は、その胸の中に想像できないほどの悩みを抱えているはず。でも監督の方針なのか、彼女自身の意思なのか、多分後者だと思うけど、彼女は映画の中では大変だけれど万事快調な姿を演じていた気がする」

 人は演技をする。日常でさえも、接する人によって自分という役を演じ分けるのだ。ドキュメンタリー映画とはいえ、そこに演技がないという保証はない。むしろ、ある方が自然であり、演技をしているということこそがありのままの日常なのだということだろう。

「すごい。僕は映画見ても、そんなこと思いつかなかった」

「別にすごくないよ。ただ少し気持ちが分かったというか、私と似ている部分があっただけだよ」

 その声は、松明の明かりしかない地下室のような暗さだった。桜井さんがどんな姿勢かは分からないけど、きっと俯いているだろう。

 そうだ。どんな姿勢かは分からない。僕たちは、ドアを隔ててお互いの姿を見ないままコミュニケーションを取っている。

 それに不満があるわけではなかったが、五百木さんの様子が気になってしまった。

 理性はダメだと言っているけど、人は好奇心には勝てないようだ。すぐに自分を正当化する理論が、頭の中で構築される。

 向かい合って話し合った方が、きっとお互いのためになるだろうと僕の頭に住む一人が判断した。そいつが、脳内会議で大きな声をあげて強引にその意見を僕の最終決定にしてしまう。ただ、理性も無抵抗だった訳ではなく、

「五百木さん、部屋に入っても良い?」

 と確認を取る常識だけは残していた。しかし、返事が返ってくるよりも早く体は動き出し、ドアノブに手をかける。

 乱れる呼吸。薄暗い廊下。静まり返った世界。

 全てが写真の連続のように流れていき、やがてドアが廊下側に僅かに動いたそのときだった。

 信じられないほどの力で、ドアが元の位置に戻っていく。

 バタンっ。

 勢いよくドアの閉まる音が響く。その余韻と、僅かな五百木さんの息遣いを感じた。

 僕はまだドアノブに手をかけたまま、その場から動けなくなった。まるで周囲に赤外線レーザーでも張り巡らされたようである。冷たい汗が、背中を滑っていくのを感じた。

 しばらくそんな膠着状態が続いた後である。

 意を決したような声が、ドアの向こう側から聞こえてきた。

「帰って」

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